ピューリタン革命と名誉革命はなぜイギリスで起こったのか 

国王の専制への不満が爆発

生涯未婚を通したため「処女王」と呼ばれたエリザベス1世が死去すると、スコットランド王がイギリス王を兼ねるようになり、1603年にステュアート朝が始まりました。

ステュアート朝のジェームズ1世は専制政治を行い、イギリス国教会の立場からピューリタン(清教徒、カルヴァン派の一派)を排除したため、議会との対立が深かった。

その結果、ピューリタンを中心とする議会派が国王に抵抗したのがピューリタン革命の始まりです。

1642年から国内は内乱状態になったが、クロムウェルの指導により議会派が勝利。

議会派の中からクロムウェルが登場し、ジェームズ1世やチャールズ1世に禁止され、不満をもっていたカルヴァン派(ピューリタン)のリーダーになると、鉄騎隊を編成し、王党派たちを打ち破ってチャールズ1世を降伏させます。

国王チャールズ1世は処刑されました。

名誉革命で議会派が勝利する

その後のクロムウェルは、議会派内で反対派を追放し独裁権を確立。

厳格な政策は民衆の反感を買い、クロムウェルの死後に王政は復古しました。しかし、専制的な国王と議会の対立は続きます。

王が議会を無視して独裁を行い、共和政になっても独裁者が登場するという悪循環が続き、イギリス議会も考えました。

独裁を防ぐために「海外から王を招き、議会を尊重するという条件で王位についてもらおう」

1688年、議会は国王ジェームズ2世の追放を決議し、メアリ2世とウィリアム3世の夫妻を共同統治王として迎えました。

両王は議会の提出した「権利の宣言」を認め、「権利の章典」として発布しました。

ジェームズ2世はアイルランドで反撃に転じたが、流血の戦いの結果、ウィリアム3世軍が勝利しました。

この「名誉革命」によって、議会が政治を主導するイギリスの立憲王政が確立しました。

なぜ産業革命はイギリスから始まったのか

産業革命を可能にした条件

18世紀後半より、イギリスで新たな機械や動力が発明され、産業のあり方が大きく変わりました。

この変化は技術革新と交通革命にもつながり、社会や生活のあり様にも影響して産業と呼ばれています。

アジアやアフリカに広大な植民地を築いたイギリスは貿易で巨額の富を得て、産業革命の資金を備えていました。

また、アメリカ大陸から綿花を輸入し、アフリカに綿織物を輸出するというように、原料供給元と製品の輸出先を同時に確保していました。

そのため、港湾都市リヴァプールに近いマンチェスターに工場がつくられ、綿織物工業が発達しました。

工場での労働力も確保される

さらに、イギリスでは人口急増に対処するために新農法が導入され、食料の増加を図る産業革命が起こりました。

産業革命では、ワットが蒸気力による上下運動を回転運動に転化することに成功。 これにより、蒸気機関が完成しました。

そのほかにも、1779年にはクロンプトンがミュール紡績機を、そして1785年にはカートライトが力織機(自動で織物を織る機械)を発明するなど生産力が向上しました。

19世紀には蒸気船や蒸気機関車に応用され、人々の交通手段や運輸の方法が大きく変化しました(交通革命)。

労働者を保護するために生まれた「工場法」

技術革新は、良質な製品の大量生産を可能にしました。多数の工場の立ち並ぶ工業都市が生まれ、都市の人口は急増します。

一方、工場労働者は劣悪な環境下に置かれるようになりました。

機械による生産では熟練を必要としないため、成人男性だけでなく女性や子供なども低賃金で長時間働かされました。

1833年、ロバート=オーウェンらの尽力によって工場法が成立、児童の労働禁止などが定められました。

その後には女性や年少者を保護する規定が加えられ、世界の労働者保護の先駆けとなりました。

Mental disorders increased by materialism

One dark side of materialism is its effect on our happiness.

Now that it has provided so many millions of us with the basics of material wellbeing, materialism seems unable to also improve our overall wellbeing.

Instead, it increasingly looks like it is doing the opposite.

Rather than making us feel good, materialism is making millions of us feel joyless, anxious and, even worse, depressed.

Material goods, it must be said, can be useful for self-expression and signifying status—the type of shoes or shirt you wear says a lot about you, for instance.

But in our materialistic consumer culture, we have come to rely on material goods too much, and they are letting us down.

In today’s materialistic culture, many people believe material things can solve emotional problems.

But this is a “false promise”.
Retail therapy does not work.

Instead, it is more likely to make your problems worse—by putting you in debt, for instance.

In today’s culture, material goods have become substitutes for deep and genuinely meaningful human desires and questions.

Consumer culture has become a sort of pseudo religion.

Instead of pondering meaningful questions, like “Why am I here?”, “What happens after death?”, “How should I live?”, it is easier to focus on questions like “The blue one or the red one?”, “Will that go with the top I bought last week?”, “What will she think if I buy that?”

Instead of trying to understand who we really are, we reach for the “Real Thing.”

And, brainwashed by the system, when the goods we buy fail to match up to those deep desires, instead of giving up on material goods, we just keep banging our heads against the wall and buying more.

Mass-produced goods, which are the natural product of the system, are the worst of all.

They are so stripped of meaning and novelty that they have little chance of genuinely exciting or inspiring us.

So we become quickly bored with the goods we have and, in the search for novelty, move on to the next thing, and begin the process again.

Even where material goods are helpful, by signifying status, they create more problems than they solve.

Because, in today’s meritocratic society, having goods signifies success and, equally, not having goods says failure.

As a result, we are not only smugly or painfully aware of who is above or below us in the pecking order.

We also know we can clamber up or slip down the rankings at any moment.

It is like living in an immense, stomach-churning session of Snakes and Ladders, where the game never stops and where everybody is a competitor.

To play this paranoia-inducing game—and it is a game we all play—millions of us spend our days and nights worrying about our place in the pecking order, and scheming to get up the ladders and avoid the snakes.

The end result is millions suffering from material-focused status anxiety.

Even worse than giving us status anxiety, materialism is making people depressed, in record numbers and to a record extent.

From the 1970s to the turn of the century, mental illness in children and adults in developed countries doubled.

A quarter of Britons now suffer emotional distress.

Americans are three times more likely to be depressed today than in the 1950s.

Those statistics are so shocking that many try to explain them away by pointing out that people tended to suffer silently in the past, and that doctors are quicker to diagnose and prescribe anti-depressants today.

But those numbers are based on extensive and robust research, on anonymous survey reports from individuals and not from doctor diagnoses.

So there is no doubt that depression is increasing, and at an alarming rate.

This becomes even more illuminating, and concerning, when you make comparisons between countries.

Because, it turns out, emotional illness increases with income inequality, which also tends to be higher in English-speaking nations.

In other words, the more a society resembles the US, in that it becomes materialistic, the higher the rate of emotional distress.

The logical conclusion is one of the darkest sides of materialism: mass production and mass consumption, ultimately, cause mass depression.

That, surely, is not what anyone would call progress.

James Wallman. Stuffocation :Living More With Less.

[全訳]

物質主義によって増える精神疾患


物質主義の暗い側面のひとつに、我々の幸福に与える影響がある。

物質主義が何百万人もの我々に物質的な幸福の基盤を与えてきた今、物質主義が我々のすべての幸福をより良いものにするというのは不可能なように思える。

それどころか、物質主義はますますその反対をいくように見える。

我々を幸せな気持ちにさせるよりも、物質主義は何百万人もの我々を不幸に、不安に、さらに悪いことに憂うつにさえさせている。

物質財が自己表現や身分を示すために役に立つであろうことは言わねばならない。

例えば、あなたが身につける靴やシャツはあなたについて多くを物語る。

しかし、物質主義的な消費文化では我々は物質財に頼りすぎるようになり、それらに失望させられている。

今日の物質主義的文化では、多くの人が物質的なもので感情的な問題を解決できると信じている。

しかし、これは「誤った期待」である。 リテールセラピー(精神的に健康になるため買い物をすること)は効果がない。

それどころか、そういったものは問題をさらに悪化させる傾向にある。例えば、借金を抱えさせたりして。

今日の文化において、物質財は奥深く真に意義ある人間の欲望や疑問の代用品となっている。

消費者文化はインチキ宗教のようになってしまった。

「なぜ私はここにいるのか?」「死後に何が起こるか?」「私はどのように生きるべきか?」などの有意義な問いを熟考する代わりに、「青い方か?赤い方か?」「それは先週買った上着に合うか?」「もし私がそれを買ったら彼女はどう思うか?」というような疑問に焦点を合わせる方が簡単である。

我々が一体何者であるのか理解しようとする代わりに、「実物」を手に入れようとするのだ。

そして、この仕組みに洗脳され、買った物がそのような深い欲望に合わなかった時、我々は物質財に見切りをつけるのではなく、不満がたまりいらいらしつつも、さらに買い物を続けるのである。

この仕組みの自然の産物である、大量生産された商品は最も悪質である。

それらは意味も目新しさも剝ぎ取られているため、我々を真にワクワクさせたり感激させたりする可能性がほとんどないのである。

それゆえ、我々は自分が持っているものにすぐに飽きてしまい、目新しさを探し求めながら、次の物へと乗り移り、同じ過程を繰り返すのである。

物質財が有益な場合でさえも、身分を表すことによって解決するよりも多くの問題を引き起こす。

なぜなら、今日の能力主義社会では物を所有していることが成功を意味し、同様に、物を所有していないことは失敗を表すからである。

結果として社会の序列で誰が上か下かということを独りよがりに、もしくは苦しみながら気づいているだけではない。

我々はいつでもその格付けをはい上がったり、滑り落ちたりする可能性があることも知っているのである。

それはまるで戦いが決して終わらず、皆が競争相手である、ヘビと梯子(ボードゲームの一種)の際限がなく吐き気がするような試合の中で生きているかのようである。

この偏執症を引き起こすようなゲームをするために、つまり我々がしているゲームのことであるが、何百万人もの人が昼も夜も社会の序列での位置を気にして過ごし、ヘビを避けながら梯子を上ろうと企んでいるのである。

その最終結果が物質を中心とする地位に関する不安に苦しむ何百万という人々である。 

地位に関する不安を与えることよりもさらに悪いことに、物質主義は史上最多で史上最広域の人々を鬱(うつ)にさせている。

1970年代から21世紀への変わり目までに、先進国の子どもと大人の精神疾患は2倍に増えた。

今日、英国人の4分の1は精神的な苦痛に苛まれている。

アメリカ人は今日、1950年代よりも3倍鬱になる傾向がある。

これらの統計はとても衝撃的で、多くの人々は昔の人々が黙って苦しむ傾向にあったことや、今日の医者がすぐに診断して抗鬱剤を処方することを指摘してそれらの事実を弁明しようとするのである。

しかし、それらの数字は医者の診断によるものではなく、個々の匿名の調査報告という大規模で確かな研究に基づくものである。

したがって、間違いなく鬱は増加している、しかも驚くべき速さで。

これは国家間の比較で顕著になり、そして厄介なことになる。

なぜなら、精神疾患は所得の不平等とともに増加し、それはまた英語圏の国々においてより高い傾向があることが判明するからである。

言い換えれば、ある社会がよりアメリカ合衆国に似る、つまり、より物質主義化すればするほど、精神疾患の割合は増えるのである。

この論理的な結論が物質主義の最も暗い側面のひとつである。

すなわち、大量生産と大量消費が最終的に大勢の鬱病患者を生み出すことである。

それは間違いなく誰も進歩とは呼ばないだろう。



なぜ太陽の沈まぬ国スペインはイギリスに敗れて没落したのか

新大陸の銀に頼ったスペイン

16世紀に覇権を握ったのは、大航海時代を主導したスペインだった。

最盛期の王フェリペ2世は、1571年のレパント海戦でオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取する。

1580年には王家が断絶したポルトガルを併合。

広大な植民地を手中にし、「太陽の沈まぬ国」となった。

アメリカ大陸からの銀を背景に、スペインは繁栄を極めた。

しかし、16世紀後半、新教と旧教の宗派対立が強まるなかで始まったオランダ独立戦争での戦費増大と新大陸での銀産出の減少が原因で、スペインは没落に向かった。

スペイン王 フェリペ2世(1527〜1598)
イギリス女王 エリザベス1世(1533〜1603)

宗教改革による対立が背景に

中世のイギリスは、フランスとの百年戦争、内乱であるバラ戦争と戦乱が続き、疲弊した封建貴族が没落。

代わって国王の権力が強まる。

1534年ヘンリ8世は自らの離婚問題でローマ教皇と対立し、イギリス国教会をつくってカトリックと断絶した。

イギリスでの宗教改革により敬虔なカトリック王国スペインとの関係は悪化した。

女王エリザベス1世のもと、毛織物工業などで経済が発展したイギリスは、プロテスタントの立場からオランダ独立を支援。

1588年にはアルマダ海戦でスペインの無敵艦隊を破り、覇権交代の契機となった。

日本から旅立った慶長遣欧使節

1613年、仙台藩主の伊達政宗は家臣の支倉常長らをヨーロッパに派遣した。

その目的はスペイン領だったメキシコとの通商を求めることにあった。

使節はメキシコを経てスペイン・ローマに至り、スペイン王フェリペ3世やローマ教皇パウロ5世に謁見する。

しかし、江戸幕府の禁教令の情報がヨーロッパに達していたこともあり、目的は果たせなかった。

交渉のために洗礼まで受けた常長だったが、帰国時には禁教令が敷かれており、不遇の晩年を過ごした。

中国から伝わった天然痘対策を進化させた日本の医師

恐ろしい伝染病「天然痘」

中国武漢発のウイルス蔓延を見ても分かるように、伝染病に国境はありません。

日本で「疱瘡(ほうそう)」と呼ばれていた天然痘は、長いあいだ人類を苦しめてきました。

天然痘ウイルスが体内に入りこむと、40度前後の高熱が続き、発疹発生→水疱→膿疱と推移し、膿疱が乾いた頃回復します。  

老若男女を問わず、虚弱体質の人は命を落としました。ただ、運よく回復しても、かさぶた痕で苦しみました。

戦国武将の伊達政宗が、幼少期に天然痘で右目を失い、自身の容貌に深く悩んだのは良く知られています。

江戸時代から始まっていた種痘

古代より日本でも、周期的に天然痘が流行しました。

科学が未発達の時代、有効な治療法などあるはずなく、多くの人たちが命を落としました。

天然痘対策としての「種痘」は江戸時代の中ごろ、中国から伝えられました。

これは人間の天然痘の膿やかさぶたを健康な人のからだに移植し、軽い天然痘を起こさせる方法です。

一度でも天然痘にかかると、2度とかからなくなることを経験的に知った上での対策でした。

しかし、真正の天然痘を発生させてしまう危険もあるため、この「人痘法」はなかなか普及しませんでした。

江戸時代後期に入ると、イギリスのエドワード・ジェンナーが開発した、「牛痘法」が伝来します。

牛痘では重症化することがないため、人痘法よりはるかに安全でした。

この牛痘法の普及に尽力したのが、佐賀藩の医師・楢林宗建(ならばやし そうけん)でした。

オランダ商館医師シーボルトのもとで、牛痘法の実演を見た宗建は、牛の痘痂(かさぶた)をオランダ商館経由で入手します。

牛痘による種痘はまず佐賀で行われ、次いで佐賀藩江戸藩邸で行われました。

佐賀藩での成功を受けて、牛痘法は急速に広まっていき、各地に除痘館、有信堂などの種痘専用の施設が開設されました。

種痘所は、設立から2年後、幕府直営となり「西洋医学所」と名前を改めました。

これが東京大学医学部の前身となります。

牛の姿が描かれた「種痘之図」

天然痘の根絶が宣言される

この迅速な対応と協力体制の構築からは、医師たちの使命感がうかがえます。

この強力なスクラムによって、種痘は次第に普及し、天然痘の罹患率は低下していきました。

日本での患者発生は1955年が最後です。

1980年、WHO(世界保健機関)が天然痘の根絶を宣言しました。

牛痘法が発明されて以来、長期間にわたって種痘が行われたことで、この戦いは終結しました。

日本な江戸時代からこの戦いに参戦し、人類の勝利に貢献したのです。

Evolution and existence of humanity

 We are apes that have done very well, I’m not denying that.

It’s extraordinary that a species of ape has managed to be quite so successful.

We create wonderful things, including art, music and literature, as well as technology which improves our chances of survival, reproduction and longevity.

But just as we, as individuals, are not going to live forever (however hard that is to stomach), our species is not going to be here for all eternity, either.

We might have slowed evolution down a bit, taken the edge off the scythe of the grim reaper we know as natural selection, in developed countries, at least, but even in such privileged places where each baby has a very good chance of surviving to adulthood, there will be differences in how many children couples have, and those differences will change the frequency of genes in the population.

Slowly, perhaps, but it’s still evolution.

 It’s possible that no significant changes will occur to us, at least anatomically, while we’re in this exalted state where we can control and maintain the stability of the environment we live in.

We could become living fossils, like horseshoe crabs and coelacanths, while other species rise and fall around us.

We have given ourselves a real fighting chance of surviving local cataclysms by spreading right across the globe, in vast numbers.

But ultimately, it’s likely that a catastrophic change to our environment, which, let’s face it, could even be of our own making, will drastically change the rules of the game.

At that point, our species might be extinguished, or it could be reduced to a few small populations hanging on in places which are still just habitable.

In those refuge, natural selection would sharpen up its scythe and get to work, and the effects of genetic drift could also be profound.

In such circumstances, the future of humanity could look very different from its present incarnation.

 I’m not going to polish up my crystal ball to try to predict the future for our species—there is too much unpredictability in evolution and in the galaxy for that—but I will make some predictions about how humans won’t change in the near future: we won’t grow extra, fully functioning fingers or toes; the pentadactyl pattern is too deeply embedded in our genomes now to make that at all likely.

We won’t grow wings, or extra legs, for the same reason.

As long as we retain some technology to keep us warm in cold places (shelters, clothes, fire), we won’t grow furry again—unless that becomes, inexplicably, something which is considered to be very attractive.

It’s as hard to predict where our evolutionary destiny lies as it would have been to predict, 66 million years ago, that some of the mammals who hid from the dinosaurs would have evolved into monkeys, that some of those would have evolved into apes, and that some apes would have become habitual terrestrial bipeds—very good with their hands and very clever.

I don’t think the happenchance and contingency (which is still there, albeit channeled by constraints) of evolution should make us feel inconsequential or insignificant.

For me, well, I feel extraordinarily lucky to be here.
Just imagine, for a moment, how easy it would have been not to be here.

(Alice Roberts, The Incredible Unlikeliness of Being: Evolution and the Making of Us. )

[全訳]

人類の進化と存在

我々はとてもよくできた猿である、ということを否定しているわけではない。

類人猿という種がなんとかこんなにも成功できたのは並外れたことである。

我々は生存、生殖、長命の可能性を高める技術はもちろん、芸術や音楽、文学を含め素晴らしいものを作り出す。

しかし我々は個々人としては(どれだけ強く願ったところで)永遠に生きることはないので、我々の種が永遠に存在し続けるわけでもない。

少なくとも先進国においては、我々が自然淘汰として知っている死神の大鎌の刃をなまらせ我々は進化を少し遅らせたのかもしれない。

しかし赤ん坊が大人になるまで生きられる可能性を多くもつそんな特権のある場所でさえも、夫婦が何人子供をもつのかという差は出てくるし、その差はその人口の中での遺伝子頻度を変える。

ゆっくりだったり、おそらくだったり、しかしそれでも進化である。

我々が住む環境の安定性を操作し、維持できるという現在の優位な境地にいる間は、少なくとも解剖学的には我々に大きな変化が起こらないということはあり得る。

他の種が周囲で興廃する一方で我々もカブトガニやシーラカンスのように生きた化石になりうる。

我々は膨大な数で地球全体に散らばることで各地の大変動を生き延びるというかすかな成功のチャンスを自ら手に入れてきた。

しかし、自業自得の結果(現実を直視しよう)であるかもしれないが、我々の環境の壊滅的な変化が劇的にゲームのルールを変えてしまうことになりそうだ。

その時点で我々の種は絶滅してしまうことになるかもしれないし、まだかろうじて居住に適した場所にすがりつきながら人口を少数に抑えることになるかもしれない。

そういった退避地では自然淘汰がその鎌を研いで働くようになり、遺伝的浮動が深刻になるであろう。

そんな状況において人間性の未来は現在のありようとは随分と違ったものに見えうる。

進化やこの宇宙には予測不可能なことが多すぎるので私は水晶玉を磨いて我々の種の未来を予測することはしないが、近い未来、人類がどれほど変化することがないかについて少し予測してみよう。

我々は完全に機能する余分の指や足の指を生やすことはない。

今や五指性はそのようなことが起こりそうにないほど我々のゲノムに深く埋め込まれている。

同じ理由で羽根を生やすことも余分な足を生やすこともない。

小屋や衣服や火など寒い場所で身を暖める何らかの技術を保持できる限り、そして不可解にもそれがとても魅力的だとみなされるものにならない限り、再び毛むくじゃらになることはない。

今後の人類の進化がどのようになるかを予測するのは恐竜なら身を潜めていた哺乳類の一部が猿へと進化し、そのまた一部が類人猿へと進化し、その類人猿の一部が地上を習慣的に二足歩行し、手先が大変器用な賢い動物になるのを6600万年前に予測するのと同じくらい困難である。

私は進化における偶発事象や不慮の事象(制約によってもたらされたにもかかわらず、そこにある)が我々を取るに足らないものやつまらないものであるような気にさせるべきでないと思う。

私は、今ここに存在することができ非常に幸運だと感じている。

想像してみてほしい、ここに「いない」ことがどれほど簡単であろうか。

ナポレオンが日本の蘭学を発展させた

オランダを介して伝わる西洋の知

江戸時代の日本は、ヨーロッパ諸国中で唯一通商関係を結んでいるオランダから西洋の情報を得ていました。

情報をもたらしていたのは、長崎の出島にあるオランダ商館長です。

西洋の先進的学問や文化はオランダ語を介して伝えられたため、西洋の知識は「蘭学」と呼ばれていました。

蘭学を学ぶにはオランダ語を習得しなければなりません。

日本人のオランダ語学習は江戸時代中頃、8代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として、医官・野呂元丈と儒学者・青木昆陽に学ばせたのが最初です。 

ナポレオンの登場によるオランダの窮地

1772年、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周といった医師・蘭学者の4人が、ドイツの解剖書をオランダ語に訳した『ターヘル・アナトミア』の邦訳作業を開始しました。

そして悪戦苦闘の1年半の末に、1774年に『解体新書』として刊行します。

『解体新書』の表紙

これにより蘭学の基礎は築かれましたが、オランダ語修得に必要な辞書が不備だったため、蘭学はまだ一部の人の学問でした。

ところが、『解体新書』刊行から15年後の1789年、日本の蘭学発展を促す人物がヨーロッパに登場します。ナポレオン=ボナパルトです。

フランス革命にともなう動乱のなかで頭角を現したこの風雲児は、優れた軍事的才能を武器に地位を確立。

1799年に政府を樹立し、1804年にはフランス皇帝に即位します。

このフランスの動きに危機感を募らせたヨーロッパ諸国が1805年、3度目となる対仏大同盟を結成すると、ナポレオンは大陸制覇に向けた動きを加速させ、周辺諸国と軍事的衝突を繰り返します。  

この動乱の中でオランダはフランスに制圧され、独立を失うのです。

これにより、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフは帰国できず、立ち往生する事態になってしまいました。

『ドゥーフ・ハルマ』と蘭学の発展

ドゥーフは156代目のオランダ商館長であり、1799年から1817年まで日本に滞在しました。

1年交代が原則のなか、17年ものあいだ日本に留まり続けたのは、ヨーロッパの動乱によりオランダ船の来航が途絶えたことによります。

1815年、ナポレオン没落を受けて開かれたウィーン会議でオランダは主権を回復。

この2年後にドゥーフは帰国します。

17年という長期滞在中、ドゥーフは文化交流の一環として、日本人オランダ通詞11人の協力のもと蘭和辞書の編纂を行いました。

編纂はドゥーフ帰国後も日本人通詞達によって続けられ1833年に完成します。

辞書は『ドゥーフ・ハルマ(通布字典)』『波留麻和解』などと呼ばれ、オランダ語と蘭学の習得に不可欠の書物となりました。

蘭学者緒方洪庵の適塾で学生たちが同書を奪い合うようにして学問に励んだのはよく知られています。

この『ドゥーフ・ハルマ』により蘭学のすそ野は爆発的に拡大するのです。

幕末維新の激動期、日本が四苦八苦しつつも西洋と対峙できたのは、蘭学によって多くの若者が西洋の知性に触れていたためです。

この知性の習得に大きな役割を果たしたのが『ドゥーフ・ハルマ』であり、ナポレオンがドゥーフを日本に釘づけしたからこそ成立したのです。

絵画でつながっていた江戸期の日本とヨーロッパ

葛飾北斎「神奈川沖浪裏」(1831〜33年)

浮世絵に風景画が登場

江戸時代の半ば頃から、風俗画に新しい流れが起こります。

そう、浮世絵です。

この新しい絵画は、町人文化が成熟するなかで、「つらい世だからこそ、浮き浮きと楽しもう」との意識のもと生まれました。

このため人気役者、美女、芝居小屋、遊里など、享楽生に富んだ情報を発信して大人気となりました。

さらに、人物などの背景にも関心が向けられるようになり、浮世絵のなかに「風景画」という新ジャンルが登場し、葛飾北斎・歌川広重によって確立されるのです。

浮世絵で多用される深いブルー

意表をついた構図、ダイナミックな造形美、超リアリティ、独特な遠近感の表現が葛飾北斎の持ち味です。

代表作『富嶽三十六景』中の「神奈川沖浪裏」には、そのすべてを見ることができます。

天をつかんざかりにそそり立つ波、木っ端のように翻弄される船と人、波間から見える富士山…。一度見たら忘れられないインパクトがあります。

『東海道五十三次』をはじめとする広重の絵には、北斎のような大胆さはありません。

このことについて広重は、「私は自分の目に映った風景を再現するだけ」と語っています。

もちろん、単に見たままを描くのではありません。絵画を通して、その向こうにある真実を伝えるのです。現代の職業に当てはめれば、報道写真家となるでしょうか。

ところで、浮世絵には、ひときわ目を引く沈み込むような深い青色が多用されています。これは「北斎ブルー」または「広重ブルー」と呼ばれています。

江戸時代に「ベロ」「ベロリン」と呼ばれた絵具で、本来の名を「プルシアン・ブルー」という合成化学顔料です。

1700年代の初頭、プロイセン王国(現在のドイツ)のベルリンで製法が発見されました。

浮世絵の青色はベロ流通前、植物を原料とした絵具を使っていました。

しかし、出せるのは爽やかな青色のみでした。それがベロにより、深く沈み込む、奥行きのある青色が出せるようになったのです。

この新絵具の特徴を最大限に活かした最初の大作か、葛飾北斎の『富嶽三十六景』でした。

ヨーロッパで発明された絵具により、浮世絵に新しい潮流が生まれたのです。

歌川広重「名所江戸百景・猿わか町よるの景」(1856年)
モネ「オンフルールのバヴォール街」(1864年)

日本の浮世絵がヨーロッパの絵画を変えた

日本の美術は開国以前から、ヨーロッパに紹介されており、ジャポニズムという日本美術ブームを巻き起こしていました。

なかでも浮世絵は驚きをもって迎えられ、葛飾北斎と歌川広重の絵は、ともに高い評価を受けました。

ヨーロッパの絵画界では当時、伝統的なサロン絵画が主流でした。

しかし、表現技法などはすべて出尽くしており、それ以上の発展は期待できない状態でした。

そんな最中にジャポニズム旋風が起こるのです。

フィンセント・ファン・ゴッホ、クロード・モネ、ポール・ゴーギャンといった画家たちは、絵画界に新しい流れを起こすべく、浮世絵を収集し、表現技法などを研究しました。

結果、誕生したのが印象派絵画です。   ヨーロッパ発の絵具が浮世絵を変え、浮世絵がヨーロッパの絵画を変えたのです。

モネ「ラ・ジャポネーズ」(1875年)
ゴッホ「タンギー爺さん」(1887年頃)。背後に浮世絵が描きこまれている。

イモがつなぐ東西の名君

享保の改革を推進した徳川吉宗

江戸幕府の第8代将軍は、徳川吉宗です。

紀州藩主を経て将軍職に就いた吉宗は1716年から1745年にかけて幕政改革を行います。改革に着手したときの年号を取って、歴史上「享保の改革」と呼ばれるものです。

吉宗は華美な風潮を戒め、質素倹約を奨励するとともに、新田開発や貨幣の改鋳によって幕府財政の健全化をはかりました。

また、市場経済の活性化や裁判の公正化徹底などを行い、目安箱で庶民の声を拾いあげました。

享保の改革のひとつに禁書令の緩和があります。

それまで幕府はキリスト教思想の流入を警戒し科学技術関連を含む一切の漢訳洋書の輸入を禁止していました。

しかし、西洋天文暦学による改暦を望む吉宗は、キリスト教と無関係な漢訳洋書の輸入を解禁したのです。

これにより西洋の先進的科学が日本にも伝来し、ケプラーの第3法則と同等の発見をしたとされる麻田剛立など優れた科学者が民間から生まれました。

幕末維新期に日本が四苦八苦しながらも欧米世界と対応できたのは、漢訳洋書の輸入解禁により日本にも西洋と同等の“知”が蓄えられていたからにほかなりません。

吉宗が改革の時点で近い将来に起こる西洋諸国との接触を念頭に置いていたかは不明ですが、先例にとらわれない改革に踏みきった点において紛れもなく名君といえます。

徳川吉宗

啓蒙思想を好んだプロイセンの名君

吉宗が将軍職にあった時期、ヨーロッパでも名君が誕生しました。

プロイセン王国のフリードリヒ2世です。

「大王」と称せられたこの君主は理性を重んじる啓蒙思想に傾倒し、「君主は国家の第一の下僕である」と称し、国民の福祉の増進につとめ、啓蒙専制君主のひとりとなりました。

このいっぽうで軍備強化や産業の育成にもつとめ、プロイセン王国をヨーロッパの強国に押し上げています。

フリードリヒ2世

東西の人々を救ったイモ

ところで、この東西両名君にはある共通点があります。それは「イモ」です。

吉宗が将軍に就任したのは、マウンダー極小期と呼ばれる寒冷期が終わった直後で気候はまだ安定していませんでした。

吉宗はここにおいて、蘭学者の青木昆陽にサツマイモ栽培を研究させます。

これによりサツマイモは関東でも栽培が可能になり数々の名産地が生まれました。

埼玉県の川越はそのひとつです。川越産のものは甘みが際立っていたことから、「栗よりうまい十三里」といわれました。十三里とは川越から江戸までの距離です。

ヨーロッパではジャガイモが栽培されました。

緯度の高いヨーロッパでは寒冷化による小麦減産で農業革命が必要となり、南アメリカ大陸からもたらされ寒冷な気候でも栽培可能なジャガイモが着目されたのです。

もちろん、すんなりと移行したわけではありません。

新しい作物を栽培することに嫌悪の念を抱く農民も多くいました。

これに対してフリードリヒ2世は強制栽培の勅命を出してジャガイモを増産します。

これにより今日に至るまで、ジャガイモはドイツ料理の主流となっているのです。

東西の名君が同時期に揃って「イモ」の普及に関わっている点、なんとも言えない歴史の面白味を感じます。

「忠臣蔵」は清の海外貿易と大寒波に助けられて成功した

「仮名手本忠臣蔵 夜討人数ノ内 堀辺弥津兵衛 堀辺弥次兵衛肖像」(歌川国貞画)

赤穂浪士による吉良上野介の殺害

江戸時代の元禄期の終わり頃、大石内蔵助を含む47人の赤穂浪士が、吉良上野介(きらこうずけのすけ)を殺害する事件が起こります。

ことの発端は1701年、大石たちの主人・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城内で吉良上野介に斬りかかり、切腹させられた件にありました。

江戸城内での刃傷は厳禁です。浅野に対する厳罰は当然のことでした。

しかし、当時浅野に仕えていた大石たちはその裁定を不服とし、「亡き殿のご無念を晴らすのが家臣のつとめ」として、主君の死の翌年、吉良上野介を討ち取ったのです。

日本の金銀の流出と資金不足

1701年当時、浅野は江戸城で朝廷からの使者を接待する役にありました。

この指導に当たったのが吉良だったのですが、指導をめぐってふたりのあいだが険悪になった結果、浅野は刃傷に及んだのです。

浅野は刃傷事件の18年前も、吉良の指導で同役をつとめあげていました。

18年前の1度目はうまくいって、1701年の2度目はうまくいかなかったのはなぜでしょうか?

じつは1度目と2度目のあいだに、大きな変化がふたつあったのです。

ひとつは中国大陸の清帝国が海外貿易を自由化したことです。

これにともなって日本は大量の金銀と引きかえに生糸や漢方薬の原料などを買いこみました。

そのため地金が不足し、金銀の量を減らし質を落とした貨幣が流通しました。   この結果、物価が高騰してしまうのです。

浅野が1度目の接待に用意した予算は400両。

当時はこれで足りましたが、2度目は倍以上の予算が必要となりました。しかし、浅野が用意したのは700両でした。

吉良としては幕府の名誉にかけて事を行いたいのに、予算不足では話になりません。

このことが要因になって、吉良の浅野に対する風あたりは厳しいものとなったのです。

「忠臣蔵十一段目夜討之図」(歌川国芳画)

寒波が幸いした吉良邸への討ち入り

物価が高騰する原因はほかにもありました。

冷夏続きによる「元禄飢饉」で日本は極端なモノ不足だったのです。

冷夏を引き起こしたのは、1645年〜1715年まで続いた「マウンダー極小期」と呼ばれる寒冷期でした。

寒さによってモノが不足している日本では、金銀などの豊富な地下資源を活用するしか道がありませんでした。

この結果、モノ不足の日本を金銀流出が直撃しハイパーインフレが起こり、浅野内匠頭刃傷、そして赤穂浪士討ち入りとなったのです。

もっとも、この寒さは赤穂浪士たちにとってプラスでした。

大石たちが吉良邸に討ち入ったのは、1702年12月15日(旧暦)午前3時頃です。

この日、江戸はこの冬いちばんの寒波に見舞われていました。

また、前日に降り積もった雪が江戸市中をベールのように覆っていました。

大した暖房器具もない時代、寒さ対策といえば、戸を固く閉ざしてすきま風が入るのを防ぎ、家のなかで眠ることくらいしかありません。

うっすらと積もった雪は話し声を吸収し、足音が立つのを防ぎます。

つまり、異常寒波は赤穂浪士47名の動きを隠してくれたのです。

清帝国の貿易自由化と地球の寒冷化は思わぬところで赤穂事件とつながっていたのです。

江戸時代初期の日本は「大進出時代」だった

大航海時代に入ったヨーロッパと日本

15世紀に入るとヨーロッパでは、東南アジアの香辛料や「黄金の国ジパング」伝説、さらに日本産の銀にひかれて、さかんに東洋世界への進出をはかります。

「大航海時代」の到来です。

しかし、大航海時代に入ったのはヨーロッパだけではありませんでした。同じ時期、日本も大航海時代へと入りました。

多くの日本人が商船に乗り込み、ルアン、トンキン、アンナン、カンボジア、シャムなど東南アジアの拠点港湾都市に向かいました。

日本から運ばれたのは銀、銅、鉄など地下資源です。とくに銀の量は膨大でした。

その意味で国力は豊かであり現代でいう産油国のような立場でした。

輸出品を運ぶ商船は、徳川幕府から海外渡航許可証ともいうべき「朱印状」を発給されていました。

このため東南アジアとの交易は「朱印船貿易」と呼ばれています。

中国産の生糸や絹織物,武具用の鮫皮や鹿皮,砂糖などが輸入され,日本からはおもに銀や硫黄,銅,刀などが輸出されました。

朱印船(荒木船)

東南アジアに築かれた日本人町

東南アジアの各所には多くの日本人町が形成されており、日本人たちは滞在先の国内でさまざまな仕事に従事しました。

彼らにとって傭兵はおもな仕事のひとつでした。

過去100年にわたる戦国時代で鍛えられた日本人たちは、軒並み戦闘のプロフェッショナルです。

彼らは持ち前の戦闘力を発揮し東南アジア史に大きな影響を与えました。

東南アジアでは、オランダやポルトガル、中国大陸の明国も貿易を行っていましたが日本の朱印船貿易はオランダや明国以上でポルトガルに拮抗するほどさかんな時期もありました。

1代前の豊臣関白政権時代もヨーロッパとの貿易や日本人の海外進出は盛んでしたが、江戸時代初期は前代をしのぐ大進出時代だったのです。

進出のきっかけを作ったオランダ

朱印船貿易のきっかけを作ったのは、ネーデルラント連邦共和国でした。

一般的にオランダという国名で知られるこの新国家は、オラニエ公ウィレムをリーダーとする独立運動により1581年スペインから独立して誕生します。

誕生後、商業振興に力を入れたため、首都のアムステルダムを中心にヨーロッパ随一の商業国家となりました。

イギリスが東インド会社を設立すると、オランダもアジアとの貿易拠点として東インド会社を設立しました。

ヨーロッパ勢力の貿易拠点がアジアに築かれたことで、東南アジアの海を舞台とした海洋交易は活況を呈するのです。

日本はこの経済圏に参入するため、積極的に東南アジアに進出したのです。

対外貿易に積極的だった家康

対外貿易にことさら力を入れたのは徳川家康でした。

オランダやイギリスとの貿易開始は家康在世中のことです。

家康はまた、途絶えていたスペインとの貿易を再開するため、1601年京都の商人田中勝介をノビスパン(スペイン領メキシコ)に派遣しました。

中世末期から近世初期にかけての日本は、ヨーロッパと並ぶ海洋交易国家となりました。

しかし、家康の死後この路線は変更され国を鎖(とざ)した「鎖国」にシフトしていきます。

結果、最終的には朝鮮国だけと正式な外交関係を持ち、オランダと通商関係のみ、中国大陸の明・清両王朝と民間交易のみ、薩摩藩を通じて琉球王国と、松野前を通じて蝦夷地(現在の北海道)と関係を持つだけになりました。

鎖国中にオランダとの貿易の拠点となった長崎の出島

日本が国を鎖した理由とは?

日本が外交を縮小したのには複数の理由がありました。

もっとも大きな理由はキリスト教を警戒したことです。

キリスト教は世俗権力よりも、神の教えを優先させます。徳川はこの点を危惧したのです。

スペインやポルトガルなど、ローマ・カトリックを奉ずる国がキリスト教を隠れ蓑にして、他国を植民地化していることも警戒の一因となりました。

宣教師が乗り込んで現地人をキリスト教徒とし世俗権力と争わせ、隙をついて本国の軍隊が現地に乗りこんでくるのです。

東南アジアなどは、この方法で軒並みヨーロッパ勢力の植民地にされました。

ちなみに、オランダはプロテスタントを奉じていました。

布教活動も一切しないと確約したため、通商に限って関係維持を許されたのです。

このほかにも幕府による貿易と外交の独占、西国大名の経済力増加に対する警戒などの理由により、日本の大航海時代は近世初期に終焉したのです。