資本が雪だるま式に増える理由

現在の資産は過去の労働

過去の労働は常に資本という形で自分を偽装します。

過去の大勢の労働者A、B、C…の労働の産物は、労働しない資本家Xの資産の形をとります。

過去の無給労働は労働者から分離され資本に形を変えて絶えず増大する労働プロセスを助けます。

資本主義社会では過去の労働が実体化した資産は他人の資本になります。

過去の労働の結果である資本は、さらに未来の労働を雇い、どんどん自分を大きくしていくので、過去の労働は未来の労働の増殖に貢献します。

蓄積による労働生産性の増大

資本の蓄積が進行する過程では社会的労働生産性の増加が蓄積を加速させます。

生産手段の大規模な集中も生産性を高める方法のひとつです。

ビルや運送手段や溶鉱炉などを利用して生産手段が集まることで生産性が増します。

労働生産性が増大することで生産手段に必要な労働の量が減少します。

例えば元は資本の50%は生産手段に、50%は労働力に使われていたとすれば、生産性の発達により80%は生産手段に回し、労働力には20%を使えば事足りるようになります。

大きなコンビニエンスストアチェーンを見ていると集中がいかに効率を高めているかが分かります。

もし1000店の店舗がそれぞれの売り上げや在庫を管理すれば費用は店舗の数に比例してかかります。

しかし、その1000店の管理を本店のコンピュータで処理すると売り上げや在庫、売れ筋商品の種類といった情報を簡単に処理することができます。

資本の大規模の集中

18世紀初めの糸の生産では、不変資本(原材料と機械)と可変資本(労働力)の比率が1:1だったとします。 現代では生産性が向上し不変資本と可変資本の比率が7:1になったとします。

こうなると、労働が消費する原材料と道具の量は18世紀の数百倍になります。

その理由は生産性が高くなった労働が処理する原材料の量や機械の使用が増加するだけでなく、原材料と機械の価値も下がるからです。

巨大な規模で集中された生産手段は生産性を増大させます。

社会的生産性を増大させる方法は、同時に剰余価値を増大させる方法でもあります。

だからそれは資本で資本を生産する方法でもあり、その蓄積を加速化させます。

「資本の蓄積」は資本家が得た剰余価値を資本に付け加えて資本を次々に増大させること、「資本の集中」は、いくつかの資本を合体させて資本の規模を増やすことを意味します。

どちらも目的は資本を中央に集中させて生産性を高め、できるだけ多くの剰余価値を得るためです。

資本家の競争と資本の集中

資本の集積の過程には資本家間の競争があります。

大きな資本は小さな資本に勝ちます。競争は常に小さな資本家の没落に終わり、その一部はなくなって、残りは勝者のものになります。

大勢の資本家の資本が、ひとりのもとへ集まると、それは強力な資本になります。

この集中は資本家の活動の規模を増大させることで自分の使命を完了します。

最初に蓄積された資本の謎

お金がどうして資本になるのか。

それは剰余価値が作られると、それが資本に加わって資本がどんどん増大する循環です。

では、その循環の出発点の最初の蓄積は一体どうやって作り出されたのでしょうか?

神学の「原罪説」は、なぜ人が働かなければならない呪いにかかったのか説明してくれるが、経済の原罪説は、どうして働かなくても良い人が存在するのか教えてくれます。

資本主義のもとでは、ある人は富を蓄積するが、ある人は自分の体しか売り物がありません。

最初の蓄積(本源的蓄積)は歴史における生産者と生産手段の分離過程にあります。

つまり、農村の生産者(農民)から資本家が土地を奪ったことがすべての始まりです。

奴隷のように働かせる封建時代の搾取から資本主義的搾取へと移り変わったのです。

マルクス「資本論」は「憂うつな学問」とも呼ばれます。 剰余価値論は資本が大勢の労働者の無給労働を搾取することで、どんどん増大するメカニズムを説明します。

そして、そんな資本の始まりも元は資本家の先祖が弱者から略奪したものだったと喝破しています。

資本が増大するメカニズム、そしてその起源を見ても「資本は不当な搾取と略奪で得たもの」だとマルクスは主張しています。

イギリスの最初の蓄積

イギリスでは、かつては自分の畑を耕作し、ある程度裕福な生活をしていた農民(土地所有者)がたくさんいました。総人口の7分の1にあたる16万人の農民が土地を持っていました。

しかし、1470年から1500年大までの数十年間で強大な領主が武力で農民の土地を奪い、多くのプロレタリア(賃金労働者)を生み出しました。

こうなった直接的な原因は羊毛の工場制手工業の成長と、それによる羊毛の価格値上がりでした。

やがて領主たちは奪った耕作地を牧草地に変えました。

その後、追い出された農民たちは日雇い労働者に転落しました。

このように暴力による略奪の結果が現代の私有資産に転化したのが「最初の蓄積」の方法のひとつでした。

それは資本主義的農業に必要な土地を占領し、土地を資本の一部に合併し、都市の工業に必要なプロレタリアート(賃金労働者階級)を作り出しました。

この事例から分かるのは、お金になるビジネス(羊毛の大量生産)の登場は、お金にならないビジネス(小規模な農業)を追い出すということです。

現代でも新しいビジネスの登場で古いタイプのビジネスが追い出されるということがよくあります。

例えば、スマートフォンの普及で任天堂の携帯ゲーム事業は失速し始めました。

MP3がスタンダードになった音楽市場、デジカメの普及で姿を消したフィルムカメラ、スマートフォンの登場で低迷するパソコン市場、コンビニエンスストアの登場で閉店する小さなスーパーマーケットなど現代の注目すべきビジネス津波は数知れません。

利潤率の低下と大規模資本

資本主義的生産様式が発展するにつれて、労働生産性も発展し利潤率が絶えず低下する一方、利潤の絶対量自体は増加していきます。

利潤率が低下すると資本家が労働を生産に使用するために必要な最低限の資本の量が増加します。

同時に資本の集積も増加します。 なぜなら、ある限界を超えると利潤率の低い大規模の資本が利潤率の高い小規模の資本より急速に蓄積されるからです。

昔よりずっと高性能なのに値段が安いのは、それが大量生産されるからです。

商品の種類にかかわらず、それが大量生産されると価格は下がり利潤率も低下します。

どの資本も自分の増大のために努力するが、その努力が逆に障壁として立ちはだかります。

にもかかわらず資本が増大しなければならない理由は、その規模が一定以上になると小規模の資本より蓄積に有利になるからです。

例えば、一流の寿司職人が最高の鮮魚で握る高級寿司は確かに利潤率は高いかもしれないが、それより資本の蓄積に有利なのは安値の回転寿司チェーンです。

原材料を大量に購入すると値段が下がるから、大手チェーンは寿司の価格を下げながらも利潤を得ることができます。 こうして「規模の経済」の法則で寿司の価格を下げると客も多くなって売り上げが増大します。

大規模の資本が蓄積に有利なのはこのような理由です。

技術の発達が人を幸せにしない理由

生産性の向上と価値の下落

イギリスで機械が導入されると工場では布で衣類を作る時間が半分になりました。

社会的に必要な労働時間が半分になったのは、衣類の価値が半減したことを意味します。

一般的に生産性が高くなると価値は下がり、生産性が低くなると価値は高くなります。

テクノロジーが進歩して社会全体の生産性が向上すると価格は下がります。一般的に必要な労働の量が少なくなるからです。

商品の価値は「その商品の質がどれくらい良いか」ではなく、「それを生産するためにかかった人間の努力」により決まります。

絶対的剰余価値と相対的剰余価値

剰余価値を増やしたければ、労働時間を延ばして剰余労働を増加させれば良い。

必要労働は決まっているから可変的な剰余労働をどんどん増やします。

こうして増やした剰余価値を「絶対的剰余価値」と呼びます。

では今度は、1日の労働時間が決まっているとしましょう。例えば、労働時間が1日に12時間だとしましょう。どうすれば剰余価値を増やせるのか?

この場合、剰余労働を増やすためには必要労働を減らせば良いです。

必要労働を減らすことで増加した剰余価値を「相対的剰余価値」と呼びます。

資本家は剰余価値を増大させるために労働者をできるだけ多く働かせようとします。

1日は24時間で、サラリーマンも睡眠をとり、食事をしなければ働くことができません。体力にも限界があるから休息も必要です。 ただただ働かせて「絶対的剰余価値」を増やすには限界があります。

「では剰余労働を増やす代わりに、必要労働を減らしてはどうか」と資本家は考えます。

資本家は新しいテクノロジーを導入して生産性を高めます。

社会のテクノロジーが発達すれば、生活に必要な商品の価値も下がり、労働者たちの生活を維持するために必要な費用も減少します。

労働力の回復のために必要な費用が減れば労働力の価値も下がっていきます。

従って必要労働は減少し、相対的に剰余労働の比率が増大します。 これが「相対的剰余価値」の増加です。

テクノロジーによる生産性の向上は、労働者を豊かにしてくれるどころか、労働力の価値を低下させました。

テクノロジーが生み出す富は剰余価値という形で資本家のものになります。

労働者も新しいテクノロジーを享受することはできますが、それができるのはテクノロジーによる大量生産で価格が下がった結果で彼らの富が増加したからではありません。

資本家と機械

イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは著書「経済学原理」でこう言いました。

「今まで発明された機械が人間の苦労を少しでも減らしてくれたか? 疑問である」

しかし、それこそ資本が機械を利用する目的です。生産性を高めることで労働者が自分自身のために働く時間(必要労働)を減らし剰余労働を増やしてくれるからです。

道具と機械の違いを区別する意味はありません。機械は複雑な道具で、道具は簡単な機械です。

機械は労働の生産性を非常に高めてくれます。道具を使って特定の仕事をする部分労働者は機械に取り替えることができます。

労働者は機械の付属品になり、より賃金の安い未熟な者が雇用されるようになります。

こうして機械は労働の分業を再定義します。

テクノロジーの発達は、すべての商品の価格を下落させます。 携帯電話も黎明期は煉瓦のように大きく、高値だったが今では小学生でも持っています。

テクノロジーの発達は、同じ使用価値を安値で供給してくれます。これは、一般的な人が生活を維持するために必要な費用が低くなることを意味します。

必要労働の比重は低下し剰余労働の比重は増加します。

資本家がテクノロジーを愛する理由は、こうして剰余価値を増やすことができるからです。

こうして労働者は一部の特権階級のものだった文化を手に入れた代わりに、ますますたくさんの労働時間を彼らのためにサービスするようになりました。

労働力と剰余価値

労働力の価値と剰余価値の相対的な量を決める3つの要素は「勤労時間」「労働の強度」「労働の生産性」です。

労働の強度は、同じ時間にどれほど多い量の労働がされるのか、労働の生産性は同じ量の労働がどれほど多い商品を作り出すのかです。

労働力の価値と剰余価値の量は3つの法則によって決まります。

1.決まった勤労時間では、いつも同じ量の価値が生み出される

2.剰余価値が増加すると労働力の価値は減少し逆も成立する

3.剰余価値の量は労働力の価値によって決まる

労働の強度が増大すると同じ時間でより多い商品が生産されます。 労働の生産性が向上すると同じ時間により多い商品が生産され商品の価値は下がります。

生産性が高くなると労働力の価値が低くなり剰余価値も増大します。

生産性が低くなると労働力の価値が高くなり剰余価値も低下します。

前述した通り、テクノロジーが発達することによって労働力の価値が低下し、剰余価値は増大し、資本家の資本は増加します。

そして最先端のテクノロジーで生産性が高くなってもサラリーマンの生活が豊かにならないもうひとつの理由は、「決まった勤労時間ではいつも同じ量の価値が生み出される」からです。

例えば、現代の銀行では入金や出金、計算などはパソコンで速い速度で処理することができますがパソコンがなかった時代の銀行では同じ仕事にも長い時間がかかっていました。しかし、現代の銀行員の労働の価値が昔の銀行員の労働の価値より高いわけではありません。

3つの法則は、文明が発達すればするほど資本家だけが利益を享受することを示唆しているし、労働者が受け取る賃金が小さくなれば資本家はより大きな剰余価値を得ることがはっきり分かります。

相対的過剰人口または産業予備軍

蓄積の進行につれて不変資本に比べて可変資本の比率はどんどん減少します。

資本の蓄積による可変資本の比率の減少は加速され、常に労働者の方には雇用されない「相対的剰余人口」が出てきます。

それは、資本が自己増殖の過程で需要の変化があるとき必要に応じて搾取することができる「産業予備軍」になります。

労働者階級の中で就職した労働者の過度な労働は産業予備軍を増加させます。

そして彼らは就職した労働者との競争を通じて過度な労働をするようになり資本の独裁に屈服します。

「産業予備軍」はいつもは定職につかずぶらぶらしているが、必要なときに限って雇われる人々を意味します。

現代はテクノロジーの発達により生産性が改善され、少人数での生産が可能だから産業予備軍の数は多いです。

こうなると労働力の供給がその需要をいつも上回るから少額の賃金でも働きたい人が多くなり、就職している人々も安心することができません。

派遣社員制度が登場したのも、こうした背景があったからだし、その労働条件がどんどん過酷になるのも納得です。

資本の蓄積は悲劇の蓄積

資本主義のシステムでは社会的な労働生産性を増やすため個々の労働者が犠牲になります。

労働生産性を増やすためのすべての方法は労働者の労働条件を改悪し、労働の過程で資本家の独裁に屈服させ、すべての生活時間を労働時間に転換させ、労働者の妻子をも資本の巨大な車輪の下に連れていきます。

剰余価値を生産する方法は、すべてが蓄積の方法であり、蓄積の拡大は方法を発展させる手段となります。

資本が蓄積されるにつれて労働者の状態はどんどん悪化していきます。

さらに相対的過剰人口または産業予備軍を蓄積の規模や活力に合うように維持する法則により労働者は資本に縛られます。

こうして資本の蓄積は悲劇の蓄積になります。一方の富の蓄積は同時に向こう側には悲劇の蓄積になり、奴隷の苦痛になり、低い教育と精神的衰退につながっていきます。

向上した生産性が意味するのは、より少ない労働で、より多い剰余価値が得られることです。

その「より多い剰余価値」とは労働者のものではなく資本家のものです。「より少ない労働」が意味するのは労働者が楽に快適に働けるということではなく職場を失うことです。

テクノロジーの発展による生産性の向上が最後にもたらすのは、「機械に人が職場を奪われる悲劇」です。

グーグルが選定した世界最高の未来学者トーマス・フレイは、「技術革新によって、2030年までに職業の50%は消滅する」と予見したことがあります。

私たちが知らないうちに、産業全般で絶えず生産性は増加しています。そんな変化が蓄積した結果がフレイが予見する未来です。

私たちは現代のテクノロジーのめまぐるしい変化に慣れてしまったあまり、そんな未来を実感していないだけかもしれません。

誰かは必ず失敗する理由

システムの細部は国によって違うものの、貨幣は中央銀行によって発行された後、市中銀行を通じて市場に流通するという基本的な構造を持ちます。

中央銀行が発行したお金は市場に直接流通せず市中銀行に貸し付けられます。

市中銀行が持っているお金が市場に移る過程は誰かが銀行からお金を借りるしかないです。 市場に流通するすべてのお金は最初は誰かが市中銀行から借りたお金です。

だから、今あなたが持っているお金は、あなたが直接借りたものではなくても、他の誰かが銀行から借りたお金です。それは個人が借りたお金かもしれないし、企業が借り入れたお金かも知れません。

どちらにせよ、市場のお金すべてが銀行からの借金だということには変わりないです。

この世に住んでいる住人が10人だと仮定してみましょう。そしてお金を貸し付けてくれる銀行もあるとしましょう。

市場にお金が流れるためには、銀行からお金を借りなければなりません。

10人が皆、100万円ずつ銀行から借りたとします。返すときは利子をつけて110万円で返済することになりました。

10人それぞれに100万円ずつ貸し付けたわけだから銀行は全部で1000万円を発行したことになります。

だからこの世界の通貨量は全部で1000万円、その後10人は熱心に働いてお金に利子をつけて返済するよう努力しました。

やがて、ひとり目が銀行に110万円を持ってやってきた。続いて2人目が、やがて3人目、4人目、5人目、6人目…。こうして9人が銀行に110万円を返済しました。

10人目は、とうとう来なかった。 一体彼に何が起こったのでしょう?

銀行が発行したお金は全部で1000万円だが、これまでに110×9=990万円が回収されました。従って、この世に残ったお金は10万円だけです。 これでは10人目がどう頑張っても110万円を返すことはできません。

方法はひとつしかありません。銀行がさらにお金を発行することです。

銀行から市場にお金が流れるためには誰かがお金を借りなければならず、返済に利子がつく限り誰かしらは負債を被らなければいけないのです。

これが今、私たちが住んでいる資本主義社会の貨幣のメカニズムです。

人はどうして資本の奴隷になるのか

不変資本と可変資本

生産のプロセスに使われる原材料と道具は、生産過程で価値が変わることはありません。

資本の中で、価値が不変な要素を「不変資本」と呼びます。

反面、資本の他の要素、労働力は、生産プロセスの過程で価値が変わります。

労働力は、自分の価値を生み出した後、剰余価値を生み出します。 そして剰余価値は状況によって可変的です。それを「可変資本」と呼びます。

農家が種を買って、それよりずっと多い数の穀物を作り出すように、資本家は労働の種、すなわち労働力を買って、それからずっと高い価値の商品を作ります。

労働の種とは、労働自体ではなく、労働することができる潜在能力です。

剰余価値率

資本は、生産手段に投資された不変資本と、労働力に投資された可変資本、2つの要素で構成されています。

500万円の資本があり、400万円を不変資本に、100万円を可変資本に投資したとします。そしてその結果、200万円の剰余価値が増えたとします。

すると、元の資産は500万円から700万円に増加したことになります。 この場合、100万円の労働力は、200万円の剰余価値を生み出しました。

剰余価値で可変資本を割った数値を、「剰余価値率」と呼びます。

剰余価値/可変資本=剰余価値率

剰余価値率は、資本が労働力を搾取する割合を正確に示します。

この場合、100万円の労働力(可変資本)が200万円の剰余価値を生み出したから、剰余価値率は200%となります。

剰余労働と必要労働と資本蓄積

1日の賃金が3000円で、労働者が6時間に生み出す価値が3000円だとしましょう。

労働者が12時間働くと、前半の6時間の労働は資本家が投資した賃金である3000円を埋め合わせるために使われます。これを「必要労働」と呼びます。

そして、その後の労働で生み出す価値が剰余労働になります。

後半の6時間の労働は、完全に資本家のための労働です。これを「剰余労働」と呼びます。

剰余価値は、この剰余労働が実体化した結果です。

資本家の目的は、ひたすら剰余価値にあります。

こうして剰余労働の結果である剰余価値は、資本に再転化し資本を増大させていきます。 これを「資本蓄積」と呼びます。

協業の仕組み

協業が発生するのは、大勢の労働者が計画に基づいて一緒に働くときです。

同じプロセスで働く協業もあれば、違うプロセス間での協力も協業にあたります。

協業は労働プロセスの進行を早めることができます。

例えば、多くの石をはしごの上に運ぶ作業は、ひとりひとりが各々石を持って運ぶよりも、大勢が列を作って前の人から後ろの人へ、石を渡す流れ作業で早く済ませられます。

麦を収穫する作業のように、決まった時間に仕事を終えなければならない作業もそうです。

その作業がひとりで行った場合、1200時間かかる労働だとすれば、1日に12時間労働したとしても100日かかってします。それを100人がいれば12時間で終えることができます。

協業のシステムの下では全体の作業が、小さな、そして単純な労働に分割され、ひとつひとつが個々の労働者に割り当てられます。

そしていったん特定の作業を担当すると、なかなか別の作業が担当できません。その道のベテランを、あえて他の担当者に変える理由がないからです。

これはシステムとしては効率的ですが、一個人の労働者をゆっくりと組織の歯車に変える仕組みです。

部分労働

一生をかけて、ひとつの作業だけをする労働者は、速い速度と生産性を持ちます。

こうしてひとつの特殊な作業だけに特化した「部分労働者」は、他の仕事がまったくできない欠陥だらけの人ですが、協業システムの一部としては完璧なパーツになります。

そこで資本は、ひとつの作業に特化した労働者を、普通の労働者より好みます。

こうして作業はたくさんの専門分野に分化し、分業は深化していきます。

分業は資本主義以前から存在しました。にもかかわらず資本主義で分業が特別なのは、その目的が剰余価値と剰余価値率を増やすためだという点にあるからです。

現代の資本主義のシステムでは、人々が生み出した剰余価値は、その使用価値ではなく交換価値が意味を持ちます。

資本家は自分が雇ったサラリーマンたちが生み出した剰余価値を交換価値として享受します。

分業と隷属

分業システムにおいては、個々の仕事は単純になり、労働力の価値も安くなります。

複雑な技術を学ぶ必要もないし、労働力を維持するために必要な費用も安くなるからです。

こうして労働力の価値が安くなると、剰余価値が増大し、資本の利益になります。

資本家は、できるだけ多い剰余価値を生み出し、労働力を最大限まで利用したいから大量生産を志向します。

資本主義システムの分業は労働力の能力を分割するので、個人の精神的・肉体的能力は制限されていきます。

こうして労働者は自分の専門技術を使うために資本家に依存していくのです。

労働者の役割は剰余価値の生産

人は自分自身のために働くとき、すべてのことは自分でコントロールする必要があります。

しかし、分業システム下では他人にコントロールされるようになります。

資本主義的生産は、ただ商品を作り出すために行われるのではなく剰余価値を作り出すために行われます。

労働者は自分のために使用価値を生産するのではなく資本家のために剰余価値を生産します。

労働者は資本の自己増殖のために働いています。

社会の剰余価値

社会発展の程度は別にして、労働の生産性は物理的な条件に左右されます。

すなわち、労働の主体である人間の気質と自然環境です。

豊かな自然環境があれば人間が自身のために働かなければならない時間が少なくなります。

すると自分以外のために剰余価値を生み出す時間を確保できるから文明が発達します。 文明の胎動期にはそれが重要です。

古代エジプトで巨大な建築物を建てることができたのは、人口が多かったからだと考えがちですが実は違います。

エジプトは豊かな自然環境を持っていたから自分の生活を維持し、子供を育てるのに多くのコストを必要としなかったのです。そこで残った時間を使って、あのような巨大な建築物を建てることができたのです。

「世界四大文明」といえばエジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明を指します。

これらの偉大な古代文明は、すべて暖かい川辺で誕生しました。そういうところに住む人々が特別優秀だったからではなく、個人が自分の生活を維持するために必要な努力が少なく社会のために働く余裕があったからと考えられます。

古代の暖かい国と寒い国の差は、生産性の差です。手を伸ばせば果物がある南国の方が食料を得るために吹雪の中で野獣と格闘しなければならない北国より食料が簡単に生産されます。南国の方が生産性が高いです。

現代社会では、その生産性が自然環境ではなくテクノロジーのレベルなどで決まります。

現代はテクノロジーで食料の生産はもちろんのこと、生活費用、養育費用も低く抑えられます。 現代人は比較的安い費用で生活を維持することができます。

そして、豊かな南国の古代人たちが残りの時間で皇帝のために働いたように、現代人たちは剰余労働で資本家の富を増やします。

可変資本の循環を社会的に考察する

資本の循環周期が短くなればなるほど、貨幣で投下した可変資本は、より素早く貨幣に再転化します。

だから資本の循環周期が短くなると投下した資本の規模に比べて資本家が得る剰余価値の量が相対的に大きくなります。

資本の循環時期が短ければ、このように剰余価値が増大するから同じ資本を投下しても生産の規模がどんどん拡大します。

生産の規模を維持したまま資本の循環周期が短くなると、より少ない労働で同じ量を生産することができるから可変資本への投資額は減ります。

もし生産して1年かけて売れる物であれば、雇っている労働者に支払う賃金の回収は1年後になります。

しかし生産したとたんに売れる物があれば、さっき労働者に支払った賃金を即座に回収することができます

「貨幣で投下した可変資本はより素早く貨幣に再転化する」というのはそういう意味です。

そこで資本は自分の循環周期を短くするため、いろいろ努力します。

それは同じ労働力と生産手段でより多い剰余価値を生み出し、生産性を高める方法になります。

資本主義システム下の労働

マルクス経済学の核心を要約すると、労働価値論という基盤の上に、剰余価値論を乗せた考え方と表現できる。

剰余価値論は、「労働が社会の価値を生み出す唯一のもので、資本は今まで労働者が生み出した剰余価値によってできている」という理論です。

新古典学派の核心理論である限界効用理論によると、効用を最大にする均衡点、あるいは需要と供給の均衡点で商品の価値が決まります。

需要が多ければ価格が上がり、供給が多ければ価格は下がり、両方のバランスが合うどこかで、その商品の価格が決まります。

新古典学派によると、商品に含まれる労働の量は商品の価格を決める要素ではありません。

しかし、それに対する反論もあります。

例えば、自動車業界においては、生産性の改善のおかげで車の価格がどんどん下落してきました。

しかし、いくら自動車の生産が需要よりも多くなっても、その価格が100円になることはあり得ません。

それは、自動車がいくら過剰に生産されようと、その生産に必要な基本的な労働量が一定以上だからです。

これは価格がただ需要と供給のみで決まるのではなく、ひとつの商品を作るために必要な労働の量も価格を決めるということを示しています。

剰余価値論は、労働が生み出す価値と、労働力の差によって発生する剰余価値が資本を増大させる、という理論です。

労働価値論によれば労働こそ富を生み出す唯一の源だから、資本の増大は労働者に支払う給料より、彼らが生み出す労働の価値が大きい時に発生すると考えられます。

労働価値論さえ成立すれば剰余価値論は自然に導き出せます。

資本主義システムでの労働の構造

労働と道具

労働のプロセスは次の3つの要素に分けられます。 1.労働 2.労働の対象 3.労働に使われる道具

道具は、労働する人間と労働の対象の間に位置し、人間の労働を対象に伝えてくれる。

果物など、すでに完成された自然物を収穫する活動を除けば、労働者が最初に持っているのは労働の対象ではなく、道具です。

動物の中で道具を使うのは、人間だけの特徴なので、ベンジャミン・フランクリンは我々を「道具を作る動物」と定義した。

道具は、労働と原材料の間に位置し、原材料の価値を商品に転化させる役割を果たします。

テクノロジーのレベルがその効率を決定し、商品に含まれる労働の価値や、商品の価格に影響を与えるのです。

結果であり製品でもある原材料

労働のプロセスとは、人間の労働が道具の助けを借りて、原材料を変化させることです。

ここでの労働の対象と道具は生産手段で、労働は生産行為です。

製品の形をとる使用価値は、労働のプロセスから生み出される結果ですが、その結果はまた原材料として労働プロセスに投入することができます。

だから、使用価値は、以前の労働プロセスの結果であり、以後の労働プロセスの生産手段でもあります。

労働プロセスの結果が、再び他の労働プロセスに投入される、ということもあります。

例えば、牛乳は牧場の生産プロセスの結果であり、それ自体が商品でもありますが、これがチーズやヨーグルトの生産プロセスに原材料として投入されることもあります。 生産の結果だった牛乳が、チーズ工場では生産手段として活用されるわけです。

資本家の目的は剰余価値

資本家は商品を、それ自体の使用価値のためには生産しません。

資本家が商品を生産する理由はただ、それが交換価値が体現されたものだからです。

資本家には2つの目的があります。 彼は「交換価値のある使用価値を生み出す」ことを望みます。 それは“売れる商品”を作り出すことにつながります。

そして彼は、その交換価値が「生産費用よりも高い価値で売れる」ことを望みます。

価値を生み出すだけではなく、剰余価値を生み出そうとします。

剰余価値

労働力は、ただ自分の価値を再生産するだけではなく、追加の価値を生み出します。

追加の価値、つまり剰余価値は、完成された商品の価値から、それを作るために消費された生産手段と労働力の価値を引いて導き出せます。

完成した商品の価値ー生産手段の価値ー労働力の価値=剰余価値

労働が持つ2つの性質

生産手段(原材料と生産道具)の価値は、労働によって製品の価値に転化されます。

例えば、コットンと糸繰り車の価値は、生産の結果である糸の価値に転化されます。

「生産手段の価値を製品に転化する」ことと「新しい価値を作り出して製品に付け加える」ことは、労働の2つの性質です。 この2つは完全に分けて考えなければなりません。

例えば、新しい発明によって、コットンから糸を作るときに36時間必要だった労働が、6時間に短縮されたとしましょう。

すると、糸に転化されたコットンの価値は6倍になります。しかし、同じ量のコットンに含まれる労働の価値は6分の1になります。

これは、労働の2つの性質が本質的に異なることを証明しています。

在庫管理も生産活動の一部

時間軸を見ると、生産物は生産と消費の間にあるから、在庫の形になるときがあります。

生産過程と再生産過程の流れは、一定量の商品が常に市場に存在することを要求します。

商品の保管には追加の労働力が必要なので、商品の価格は上がり、その労働力は資本の一部から流出するため、非生産的な費用といえます。

社会的労働生産性が増加するにつれて、生産規模は拡大し、一緒に在庫規模も増大します。

一定の期間の需要の規模に合わせ、在庫も一定の規模を維持しなければなりません。

このような商品の停滞は、販売のための必要条件とみなされています。在庫は常に消えていくから、絶えず更新して作られなければなりません。

運送も生産活動の一部

一般的には、商品の流通は商品に価値を付け加えることはできません。

しかし、商品の使用価値は、それが消費されるときに現れます。

そのためには場所の変化が必要だから、「運送」という追加の生産過程が必要になります。

従って運送業で投下された生産資本は、生産物に価値を加えます。

その価値の一部は、運送手段からの価値の転移によることで、残りの一部は運送労働による付加価値によることです。

運送労働が付け加えた価値は、すべての資本主義的生産と同じく、賃金に対する部分と剰余価値の部分に分けることができます。

運送費の増減にも「労働生産性と、労働が生み出す価値は反比例する」という、商品生産の一般的な法則が適用されます。

価値の交換がお金を動かす

お金は資本主義社会の血液である。 ではその血液を流す原動力とは?

市場でお金を動かす原動力は、商品である。もっと具体的には、商品の使用価値がお金を流通させる原動力だと言うことができる。

労働の量を測るには

商品に含まれる労働の量は、どのようにすれば測定できるだろうか?

それは簡単で、労働にかかった時間から求めれば良い。労働時間を週・日・時間の単位で測定することだ。

ということは、下手だったり怠ける労働者の生産品は、労働時間が長いから価値が高くなるのか?と疑問を持つ人もいるだろうが、そうではない。

社会全体で生産されたすべての商品に含まれる労働を、ひとつで、巨大な均質な塊だと思えば、そのなかのひとつの商品に含まれる労働の量(=商品の価値)は、その商品ひとつ分の量である。

だから商品が含む労働時間は、その社会の一般的な生産手段と平均的な効率でかかった労働の量である。

労働と使用価値と交換価値の関係

使用価値があっても、交換価値がない物もある。 それは、その有用性が人の労働力による産物ではない場合である。

空気や土、自然の牧草などがそうだ。

使用価値もあり、労働力の結果でもあるが、商品ではない物もある。

自分が使うために生産する物がそうだ。

つまり、商品を生み出すためには、自分ではなく他人のための使用価値、つまり社会的使用価値を、労働力によって作らなければならない。

他人のために生産しても、商品にならない場合がある。

中世の農奴は、自分の領主のために農作物を生産した。しかし、その農作物は彼らが他人(領主)のために生産した物だが、商品とは呼ばない。 それが商品になるためには、交換を通じて他人に移す必要がある。

使用価値がない物は、含まれる労働も併せてその価値を失う。 その労働は交換価値を生み出さないから、労働として認められない。

価値を生み出す有用労働

使用価値がない物は、それに含まれる労働にも価値がない。

その労働は交換価値を生み出さないから、労働として認められない。

労働の有用性は、労働が生産した商品の使用価値により決まる。

商品に使用価値を与える生産的な活動を、「有用労働」と呼ぶ。

使用価値には膨大な種類がある。 そして、それぞれを生み出す有用労働にも、同じく膨大な種類がある。

商品生産は分業で行う

商品の生産には分業が不可欠だが、分業に商品生産が不可欠というわけではない。

インディアンの社会にも社会的な分業があったが、商品は生産しなかった。というのも、資本主義社会の工場では労働がシステムごとに分業されているが、インディアンのように工場内で生産物を交換することはない。

また、社会で交換される商品は、質的に違う種類の労働によって、独立的に生産された物でなければならない。

全ての商品には有用労働ー具体的な目的を持って行われた生産的な行為ーが含まれている。

商品に含まれる有用労働が、他の商品に含まれる有用労働と質的に違うからこそ、商品としての有用価値を持つ。

生産者たちの有用労働の質的な違いが、社会の分業を生むのである。

商品の価値

商品は、鉄、服地、穀物など、それぞれに使い道がある。

だが、商品を商品たらしめるのは、二面性、つまり使用の対象であると同時に、価値を持っているからである。 商品の価値は、他の商品との相対的な関係で表現される。

例えば「20メートルのリンネルは1着の外套と同等」のような等価関係である。

どの商品も自分自身に対しては等価関係を結ぶことができないため、他の商品との等価関係で価値を表現しなければならない。

ということは、価値の背後には社会的関係が隠れていることを暗示している。

といっても、商品の価値は比較の結果ではない。比較によって、商品に内在する使用価値が可視化されただけのことだ。

あくまで他の商品に対する等価価値は商品の実体によるものであり、それはすなわち、人間の労働が実体化されたものだ。

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物神崇拝

商品の価値は、他の商品との比較という、社会的関係を通じて見えるようになる。

だから商品を作り出した人間たちの社会的関係も、まるで物たちの関係のように見える。

例えるなら、宗教の世界では人間の頭脳の産物が実在の人物のように登場し、それらがお互いに関係を結んだり、人間と関わったりしている。

商品の世界では、人間の産物である商品がこのように振舞っている。

この現象を「物神崇拝」と呼ぶことにする。物神崇拝は労働の産物が、商品として生産されたとたんに付加されるものであり、商品の生産とは切っても切れない関係にある。

交換と貨幣

商品は、それを持つ者にとっては使用価値がない。所有者にとっての使用価値があるならば、最初から市場に出ていないはずだからだ。

商品はあくまで、それを持っていない人にとっての使用価値を持つ。 だから、すべての商品は交換されなければならない。

交換のとき、商品の価値を知るためには、ある基準となる商品と比較する必要がある。

特定の商品がその基準になるためには、社会的な過程が必要不可欠だ。

社会的な過程を通じて、その商品の特有の機能は排除されていき、それは貨幣になった。

貨幣の役割

価値は、他の商品の価値との比率として比較される。

そこで円滑な交換のために、交換手段として適切な商品が貨幣の役割を担うようになる。

やがて均質な量で価値を表すことができる、貴金属が貨幣の役割をするようになる。貴金属は自由に分割することもできるし、再結合させることもできる。

難しいのは、「お金も商品の一種」だということを理解することではなく、商品がなぜ、お金になるかである。

お金は、他の全ての商品と同じく、自分の価値を他の商品との相対的な価値でしか表現することができない。

お金の価値も、それを生産するために必要な労働時間で決まる。

黄金と銀は、土から採掘されるやいなや、人の労働を直接的に具体化する。

現代のお金とは何か

お金は、商品の中でもとびきり特異な性質を持っている。すべての商品は使用価値と交換価値を併せ持っているが、お金は交換価値しか持っていない。

特に、貴金属と関係がなくなった現代の貨幣には、使用価値がまったく存在しない。物理的な性質だけを見れば、1万円札の紙幣ですら、ただの紙切れに過ぎない。

紙幣の価値は昔の黄金とは違って、実際の価値に基づいていない。 だが、皆がその紙に1万円の価値があることに同意している。実際の価値ではなく、「信用」に基づいている紙幣、これが「信用貨幣」である。

紙幣の登場は、銀行の登場と深い関係がある。 昔、お金として使われた黄金は高価だったので、安全な場所に保管しなければならなかった。

そこで自分の金庫を提供し、黄金を保管する人物が現れた。彼は少々の保管料をもらって他人の黄金を金庫に保管してあげた。 これが銀行の起源である。

銀行は、黄金を保管した人には預かり証を発行した。それを持って銀行に行くと、銀行はそれに当たる黄金を金庫から取り出す。 こうなってくると、預かり証は黄金と同じ価値を持つ。紙だから黄金を持ち運ぶよりはるかに楽だ。 これが紙幣の起源である。

金本位制下の貨幣は、このように「貨幣が黄金の預かり証の役割をする」ということを意味する。

銀行では、保管する黄金が増えてくると、これを放っておくのはもったいないと感じ、預け主に内緒でお金が必要な人に紙幣(預かり証)を貸し、利子を得る貸し金業を始めた。

こうして銀行の持ち主はどんどんお金持ちになった。それを知った預け主たちは、勝手に顧客の黄金を運用してお金を稼ぐ銀行に腹が立ったことだろう。

しかし、それはお金で解決された。 貸し金業で稼いだ利益の一部を、黄金を預けた顧客に還元するようにした。こうすれば保管料を支払う必要もないし、逆に黄金を預けるだけで利子をもらってお金を増やすことができる。

銀行は、お金を借りる人から利子をもらい、お金を預ける人には、それより低い利子を還元した。その差が銀行の収入になった。本格的な金融の始まり

やがて経済の規模がどんどん拡大するにつれ、世界全体の富と比べて、採掘される黄金の量が不足し始めた。 もはや全世界のGDPは、地球全体の黄金の埋蔵量より価値が高くなっている。

「紙幣が金の預かり証である」という「金本位制」はこうして崩壊した。 というわけで、今私たちが “お金”と呼ぶものは、黄金とは関係がない、社会的な同意の上で作られた人為的な概念である。

銀行のサーバーに記録された数値が現代のお金の実体 目に見える紙幣は全体の通貨のごく一部に過ぎない。

目に見えない概念が、我々の生活を支配している

資本とは?

商品の流通は、資本の出発点である。お金が「資本」なのか、それとも「ただのお金」なのかは、その流通形態の違いによって決まる。

商品流通のもっともシンプルな形は、商品→お金→商品 である。

これは商品を売ってお金を得て、そのお金で他の商品を買うことだ。これは商品がお金に変容し、お金が再び商品に変容すること、もしくは買うために売ることである。

だが、私たちはこれ以外の形の流通を知っている。 それは、お金→商品→お金 である。

これはお金で商品を買い、その商品を売ってお金を得ることだ。お金が商品に変容し、そして商品が再びお金に変容すること、もしくは売るために買うことである。

このように流通するお金を、「資本」と呼ぶ。

流通の目的と原動力

「商品→お金→商品」という流通は、ある商品から始まり、ある商品に至って終わる。

そしてその商品は消費され、流通から外れてしまう。この流通の最終目的は消費なのだ。つまり、使用価値がこの流通の目的である。

逆に、「お金→商品→お金」という流通はお金から出発し、最後にはお金に戻る。だからこの流通の目的と、それを起こす原動力は、交換価値それ自体である。

工業も商業と同じ

売るために買う、もしくは高く売るために買うことは、商業に限ったことだと考えがちだが、実は工業の資本も同じ方式で動く。

工業では、お金で原材料を買い、商品を作ってそれを売ってお金を得る。 つまり工業も結局、商業と同じく、お金→商品→お金 と表現することができる。

途中の商品を省略してみると、お金→お金’ になる。つまり、元のお金がより高い価値のお金に変化している。 これは分野を問わず、一般的な資本を表現する公式なのである。

流通は価値を生まない

同じ価値の商品が、お互いに交換されても剰余価値は生まれない。 流通、つまり商品の交換だけでは価値を生み出さない。

「お金→商品→お金」のように、高く売るために買うという循環は、流通の世界で起こるものである。 このような交換は、等価のもの同士が交換されることになり、剰余価値は生み出さない。

このような方法で商人が得た利益はただ、買うときと売るとき、二重であげた利益に過ぎない。

お金の資本への転換も、このような商品の交換の掟を守らなければならない。

だから、資本家は、商品をその価値で買い、その価値で売りながらも、最後には自分が投資した価値より多い価値を作り出さなければならない。

One of the biggest challenges facing us is the increasing disparity in wealth and income which has become obvious in American society in the last four decades or so, with all its pernicious effects on social health.

Thomas Piketty’s data-backed tour de force, Capital in the Twenty-First Century(2013), gave us two alarming pieces of news about this trend: Inequality is worse than we thought, and it will continue to worsen because of structural reasons in our form of capitalism, unless we do something.

The top 0.1 percent of families in America went from having about 7 percent of national wealth in the late 1970s to having about 25 percent now. Over the same period, the income share of the top 1 percent of families has gone from less than 10 percent to more than 20 percent.

Quite a few people still assume that, even if wealth and income are more concentrated, America is the land of opportunity and those born with very little have a good chance to move up in economic class, but a depressing number of studies show that, according to the standard measure of inter generational mobility, the United States ranks among the least economically mobile of the developed nations.

Piketty shows that an internal feature of capitalism increases inequality: As long as the rate of return on capital (r) is greater than the rate of economic growth (g), wealth will tend to concentrate in a minority, and that the inequality r>g always holds in the long term. And he is not some long-wolf academic with an eccentric theory of inequality. Scores of well-respected economists have given ringing endorsements to his books central thesis, including Nobel laureates in economics such as Robert Solow, Joseph Stiglitz, and Paul Krugman.

Krugman has written about Piketty as follows: Not only does he offer invaluable documentation of what is happening, with unmatched historical depth, but he also offers what amounts to a unified theory of inequality, one that integrates economic growth, the distribution of income between capital and labor, and the distribution of wealth and income among individuals into a single frame.

The only solution to this growing problem, it seems, is the redistribution of the wealth concentrating within a tiny elite using instruments like aggressive progressive taxation (such as exists in some European countries that show a much better distribution of wealth), but the obvious difficulty here is that political policymaking is itself greatly affected by the level of inequality.

This vicious cycle makes things even worse. It is clearly the case now in the United States that not only can the rich hugely influence government policy directly, but also that elite forces shape public opinion and affect election outcomes with large-scale propaganda efforts through media they own or control. This double-pronged attack threatens democracy itself.

The resultant political dysfunction makes it difficult to address our most pressing problems for example, lack of opportunity in education, lack of availability of quality healthcare, man-made climate change and, not least, the indecent injustice of inequality. I’m not sure if there is any way to stop the growth in inequality we have seen in the last four or five decades anytime soon, but I do believe it is one of the important things we have learned more about in the last couple of years.

[全訳]

私たちが直面している最大の課題の一つは、過去40年ほどの間にアメリカ社会で明らかになってきた富と所得の格差の拡大であり、それが社会の健全さに及ぼしてきたあらゆる有害な影響である。トマ・ピケティのデータに裏付けられた力作「21世紀の資本」(2013)は、この趨勢に関する二つの驚くべきニュースを私たちにもたらした。つまり不平等は私たちが考えていたよりもひどいということと、何か手を打たなければ現代の資本主義の形態に本質的に備わっている構造的な理由のために不平等は悪化し続けるだろうということだ。

アメリカの世帯の上位0.1パーセントは1970年代末にはアメリカの富の約7パーセントを所有していたが、今ではおよそ25パーセントを持つに至っている。同じ期間の間に上位1パーセントの世帯の所得の割合は10パーセントに満たなかったものが20パーセントを越えるまでになった。かなり多くの人々がたとえ富と所得がより集中するようになっているとしてもアメリカは機会の国であり、ほとんど何も持たずに生まれてくる人たちにも経済的階級を上昇する機会が十分にあるといまだに考えているが憂鬱になるほど多くの研究が示しているのは世代間移動の標準的な尺度に従うと合衆国は先進国の中で最も経済的流動性が低い国の一つに位置づけられているということである。

ピケティは資本主義に内在する特徴が不平等を増すー資本収益率(r)が経済成長率(g)を上回っている限り富は少数者に集中する傾向を示すだろうーということ、そして長期的に見ればr > gという不平等は常に続くということを示している。しかも彼は常軌を逸した不平等説を唱える一匹狼の学者か何かではない。多くの名高い経済学者が彼の本の中心的な主張を強く支持してきた。そこにはロバート・ソロー、ジョセフ・スティグリッツ、ポール・クルーグマンのようなノーベル経済学賞の受賞者が含まれる。クルーグマンはピケティについて次のように記している。

彼は現在起こっていることの計り知れないほど貴重な証拠資料を比類なき歴史的深さで提供しているだけでなく、不平等の統一理論に等しいものを提供しているのだ。それは経済成長、資本家と労働者の間の所得の分配、個人の間の富と所得の分配を単一の枠組みに統合する理論である。

この拡大しつつある問題に対する唯一の解決策は積極的な累進課税のような方法(はるかにうまく富を分配していることを示す一部のヨーロッパの国々に存在するようなもの)を用いて少数のエリートに集中している富を再分配することであるように思われる。しかしここで明らかに困難なことは政策決定それ自体が不平等の度合いに大きく影響されるということだ。この悪循環は事態をさらに悪化させる。

合衆国では今や富裕層が政府の政策に直接大きな影響を及ぼすことができるということだけでなくエリート層が自分たちが所得または支配しているメディアを通じて行う大規模な宣伝工作によって世論を形成し選挙結果に影響を及ぼしているということもまた明らかに事実である。この二方向からの攻撃は民主主義そのものを脅かしている。

その結果として生じる政治の機能不全によって私たちの最も差し迫った問題に取り組むことが困難になっている。例えば教育機会の欠如、質の良い医療を受けられないこと、人間が生み出した気候変動、そしてとりわけ不平等の目に余る不公正である。過去40年から50年の間に私たちが目にしてきた不平等の増大を近い将来に止める方法があるのかどうかはわからない。しかしそれはこの数年の間に私たちが知識を深めてきた重要なことの一つであると私は強く信じている。