銀行は何をしているのか?

金属貨幣の誕生と両替商のしくみ

昔は稲や布、貝や塩などがお金の代わりに物々交換の仲立ちとして使われていたが、稲はあまり長持ちしません。

布だって汚れたり破れてしまったりする。貝の場合、大量にとれてしまったらお金があふれてしまうということになります。

そこで、長く保管できて、あまりたくさんとれるものではないものということで金、銀、銅が使われるようになります。

金、銀、銅は、いずれも加工しやすく、溶かして大きさや重さも変えられます。

このようにして、金貨、銀貨、銅貨がお金として使われるようになりました。

世界中どこでも金、銀、銅が尊重されますが、銀や銅は古くなると黒くなったり錆びてきたりしてだんだん汚れてしまいます。しかし、金というのは常にピカピカです。となると金が一番いいということになります。

やがて経済がだんだん発達して商売が広範囲に行われるようになると、金属硬貨でも不便なことが起きるようになります。

それは大量にものを売買する場合、貨幣で支払いをするには金貨を大量に持ち歩かなければならないということです。

江戸と大坂で取引をする場合は、運んでいる途中に奪われてしまうかもしれないという問題が起きます。

金貨をたくさん持ち歩かないで済むようにしたいと考える人も出てきます。そこで登場するのが、「両替商」という人たちです。

まず、金(貨)を両替商に預けます。そうすると、両替商は「預かり証」を出してくれます。

もちろん両替商に預り賃(手数料)を払わなければなりませんが、蔵で金を安全に保管してくれます。

そしてその預り証を両替商に持っていけば、誰でもいつでも金と換えてもらえます。

売買をするときに売り主は大量の金貨を受け取る代わりに預り証を受け取れば済みます。これで心配しながら大量の金貨を持ち歩く必要はなくなります。

次に自分が誰かにお金を払うことになれば、わざわざ預り証を金貨に換えなくても、その預り証をそのまま支払いに使えばいいことになります。

さらにその預り証を誰かがまた別の売買に使うというかたちで、預り証が次々に世の中で出回っていくようになります。

これが紙幣の始まりです。

最初のうちの紙幣、お札というのは、必ず金と交換できるということが条件になっていました。必ず金と交換できるからこそ、お金としての意味があったのです。

両替商から銀行へ

明治に入ると、江戸時代あちこちにあった両替商がやがていくつか集まって、銀行になっていきました。

日本全国にさまざまな銀行ができます。銀行はもともと両替商が合併したものですから、金をたくさん持っています。

そしてそれぞれの銀行が持っている金の量に応じて預り証つまり紙幣を発行していました。

ところが、やがて悪質な銀行も出てきます。 金をたくさん持っていないのに、金があるように見せかけてお札を発行すれば、いくらでもお札を発行できるという悪いことを考えます。

でもやがて人々に気づかれます。ここのところやけにお札がたくさん出回っているけれど、銀行に持っていって本当に金に換えてくれるのだろうか、不安だからいまのうちに金に換えておこうと、悪質な銀行が出しているお札を金に換えたいという人がどんどん増える。

そうなると、ずるをして持っている金以上のお札を発行していた銀行は困ります。

最初のうちは応じられても、金庫から金はどんどん減り、やがてお札を金に換えることができなくなります。そういう銀行はやがて潰れてしまいます。

こうなると、取り付け騒ぎというのが始まります。ある特定の銀行にお客が殺到する。

それを見ていたほかの銀行のお客も不安になり、あちこちの銀行でお客が殺到し、いわゆる金融不安が広がります。

中央銀行の誕生と金本位制度

これはいけない、やっぱり国全体での信用が必要だから、お札を発行できる銀行は1つだけにしよう、ということでできたのが中央銀行です。

お札を発行することができる、いちばん大事な銀行を中央銀行と言います。日本は日本銀行、アメリカはFRB=連邦準備銀行、中国は中国人民銀行。世界各国、それぞれの中央銀行がお札を発行しています。

日本銀行で発行された昔のお金である日本銀行券には「此券引換ニ金貨拾圓相渡可申候也(このけんひきかえにきんかじゅうえんあいわたすべくもうしそうろうなり)」と書いてあります。

この拾圓と書いた券を日本銀行に持っていけば、10円の金貨と交換してあげますよ、というふうに書いてあります。

こういうお金のことを「兌換券」と言います。お札にも兌換券と書いてあります。

このように、金を基にしてお札が発行され、そのお札を持っていけばいつでも金と換えることができる制度のことを「金本位制度」と言います。

日本は「金本位制度」になる前に銀も使っていたことがあり、「銀本位制度」というのもありました。

「金本位制度」と「銀本位制度」が時代によって使い分けられていたり、国によっては両方が使われていたりしましたが、やがて世界各地が「金本位制度」で統一されます。

金本位制度の終わり

ところが、やがて経済が発展してくると、金本位制度では問題が起きてきました。

経済活動が活発になると、それだけたくさんのお札が必要になります。

金本位制度は、銀行が持っている金の量に応じてお札を発行するというやり方ですから、日本銀行の持っている金の量しかお札が発行できない、これでは経済が発展しないということになってきます。

経済が発展していくうえで、もう金の量に関係なくお札を発行できるようにしようということになり、やがてお札の発行は金から切り離されます。

日本は1932年(昭和7年)についに金本位制度いわゆる兌換制度ではなくなります。それがいまのお金です。

現在使われている1万円には、どこにも金と換えてあげますとは書いてありません。日本銀行券としか書いていません。

日本銀行が発行した券という、ただの紙でしかないのです。しかし、私たちはこれをお金だと思っています。

もともとは物々交換のために貝や布を使っていた。やがて金を使うようになった。それはみんなが金をお金として認めていたからです。

やがて両替商が出てきて預り証を出すようになった。紙の預り証は金と換えられるとみんなが信頼していたから、お札として機能していた。

銀行ができて、お札が発行されるようになった。しかし、時代が移り金と換えてもらうことができなくなって、単なる紙になった。

しかし、みんながこれはお金なんだ、というふうに共同幻想を抱くようになっているから、これがお金として通用しています。

つまり日本の政府の信頼があるからこそ、お札として使われているということになります。

なぜアメリカの利上げで円安が加速したのか?

為替とは、異なる国の通貨がどれくらいの価値を持っているかを示すものです。

為替市場は金利の動向に大きく影響されます。そのため、近年アメリカの金利が上がるにつれて円安が進みました。

どのようなメカニズムによって、金利が為替に影響を与えるのでしょうか?

アメリカの金利が高くて日本の金利が低いとき、より高い利回りを稼ぐために、アメリカの債券への投資の人気が高まります。

金利の低い円を売り、金利の高いドルを買うという動きが出てくることによって、為替市場は円安ドル高の状態になるのです。

アメリカの金利が上昇

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より利回りの高いアメリカ債券が人気に

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円が売られ、ドルが買われる

このしくみは外国債券への投資をするうえで重要なポイントです。

たとえば、アメリカ国債を保有しているときにアメリカが利上げを行うと、円安ドル高となって為替では儲かります。

しかしこのとき、債券の価格はどうでしょうか?

金利が低いときに買った債券よりも、金利が高いときに買った債券のほうが利回りがよいため、低金利時の債券を売ろうとしても、買ったときと同じ値段ではなかなか売れなくなります。

そして、何とか売るために債券の値段を下げて売ることに。こうなると、債券の価格は下がってしまっています。

つまり、金利が上がると為替では儲かりますが債券の価格は下がり、真逆の状態になります。

この状態だからこそプラスとマイナスの要素が補い合い、外国債券への投資の収益が安定するのです。

先進工業国は先進農業国でもある

「農林水産業」視点で経済を考える

人類が初めて農業を行ったのは、メソポタミア地方だったと考えられています。

今から約1万年前に最終氷期が終了したことで、地球が温暖化し、農業活動が可能となりました。最初に作られたのは小麦だったと考えられています。

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農業が始まったことで、獲得経済期では不安定だった食料供給量が安定しました。

そして世界の人口は増加の一途をたどります。約1万年前、およそ500万人だった世界の人口は、西暦元年頃には2億5000万人にまで増加したと考えられています。

食料供給量の安定が、いかに人口増加に影響を与えたかがわかります。

機械がなかった頃、農業は人間の手によって行われるものでした。そのため生産量を大幅に増やすことは難しく、労働力を確保するために子供が多くもうけられました。

欧米諸国ではアジアやアフリカの植民地から、現地住民を別の植民地へ農業奴隷として連れ出しました。

その後は農業機械が登場し、また化学肥料の発明などによって生産性が向上しました。

そして、少ない労働力で農業が行えるようになると、工業化が進み、出生率は下がっていきます。

世界でいち早く工業化を達成したヨーロッパ諸国は、どこの地域よりも早く少子化が訪れました。

近年では、スマート農業と呼ばれる「ロボット技術や情報通信技術を活用した高品質農作物の生産を実現する農業」が注目を集めています。

重労働として敬遠されていた農業が見直され、新規就農者の確保、ひいては栽培技術の継承、食料自給率の向上などが期待できるようになります。

このように先進工業国は同時に先進農業国でもあります。農業は工業発展によっても成長するのです。

西アジアのイスラエルでは、国土の南半分に砂漠気候が展開しているため、農業活動が困難です。

しかし、チューブを通して効率よく農作物に水を供給するシステム、点滴灌漑を発明しました。

これによって食料供給量が安定し、イスラエルの増えゆく人口を支えることができています。

世界では日々、課題を解決するために新しい技術が生まれています。

それは農業分野においても同様であり、ビッグデータ、人工知能(AI)、IoTの活用によって今後の農業のあり方が大きく変わろうとしています。(IoT(Internet of Things)は、あらゆるものをインターネットあるいはネットワークに接続する技術)

「産業革命」から読み解くこれからの世界

「工業」視点で経済を考える

世界における工業発展は、18世紀後半にイギリスから始まった第一次産業革命を契機とします。

ジェームズ・ワット(イギリス)によって改良された蒸気機関が利用されるようになり、昼夜を問わず工業製品を生産するようになりました。

需要を超えた生産が行われると、余った工業製品を売るための市場の獲得が急務となり、世界各地で植民地争奪戦が始まりました。

また、蒸気機関を搭載した蒸気船や蒸気機関車の登場により、遠隔地への大量輸送が可能になり、本格的な貿易が始まりました。

第二次産業革命は19世紀後半から始まりました。

それまでの石炭から、石油や電気を新たなエネルギー源とする重工業中心の経済発展がみられました。

アメリカ合衆国の発明家トーマス・エジソンが電球を発明したのもこの頃(1879年)です。

大量生産、大量輸送、大量消費の時代の幕開けでした。

特にフォード・モーターが生産したフォード・モデルTは第二次産業革命を象徴する工業製品だったといえます。

第三次産業革命は20世紀後半のことでした。

電子技術やロボット技術が活用されるようになると、あらゆる産業で自動化が促進されました。

「IT革命」と呼ばれる、情報技術による社会生活の変革がみられました。

労働生産性が上がり、先進国の高い技術力と発展途上国の賃金水準の低さが組み合わさり、利益の最大化を図れる場所での製造が始まります。

中国の経済成長が本格化した時代でもあり、発展途上国の工業発展を促しました。

第四次産業革命は2010年頃より進んだ技術革新のことです。

IoT (Internet of Things)は「モノのインターネット」と呼ばれ、家電製品や自動車などの「モノ」が直接インターネットに接続されるようになりました。

ビッグデータと呼ばれる大量のデータは、人工知能(AI)によって分析され、最適化された生産やサービスが可能となりました。

先進国では第四次産業革命が起こり、次世代の技術開発が進んでいます。

一方、新興国では、豊富な人口、低賃金労働力の存在、原燃料資源などを好材料に、先進国の企業を誘致し、製造拠点や供給元になろうとする動きが活発化しています。

いまや「世界の工場」となった中国だけでなく、工業立地の最適化は日々変化しており、世界はめまぐるしく変化し続けています。

生き残るには「強み」を磨くしかない

「貿易」視点で経済を考える

国内需要に国内生産が追いつかないときは輸入し、国内生産が国内消費を上回るときは輸出することができます。

国家間の貿易をみると、その国の経済状況がみてとれます。

日本は資源小国であるため、原燃料の需要を国内産出量で満たすことができません。そのため諸外国から輸入します。

この時点でコスト高となってしまうため、技術力を高め、付加価値の高い工業製品を作る努力をしてきました。

しかし、輸出を過度に進めていくと貿易摩擦が発生します。

1980年代の日本とアメリカ合衆国との自動車貿易摩擦が好例です。そのため自動車企業は、輸出市場との貿易摩擦を回避するために、海外への工場進出を進めます。

結果、日本では製造品出荷額や就業機会が減少して、「産業の空洞化」が起こりました。

近年は、国際分業体制が進展しています。

国際分業体制とは、世界各国がそれぞれ得意とする分野の製品を生産し、それを輸出し合う体制のことです。

自国で生産するよりもコストを削減できます。その中で日本は「最終消費需要向け輸出」よりも「中間需要向け輸出」のほうが大きくなっています。

つまり、最終財(完成品)の組み立てよりも、他国での製造工程に中間財(部品や機械類)を供給する役割にシフトしているといえます。

こうして日本は「原材料を輸入して工業製品に加工して輸出する」という加工貿易の性格が弱まり、現在では中間財である部品を輸出し、他国で生産された完成品を輸入するようになっています。

しかし、日本から輸出された部品が完成品となって、それらのすべてが日本へ輸出されるわけではありません。

第三国へと輸出されるケースもあるため、日本の輸出は実質的に第三国の国内需要によって増減することとなります。

経済のグローバル化の進展によってヒト・モノ・カネ・サービスが国境を越え、また情報技術の進展によって情報伝達の時間距離はゼロになりました。

国内生産できないものは輸入してまかなうようになり、国際分業体制はより深化すると考えられます。

経済とは「土地と資源の奪い合い」

「資源」視点で経済を考える

世界に存在する土地と資源には限りがあります。

人口増加や経済発展にしたがって増えることはありません。だからこそ争奪戦が繰り広げられるのです。

日本は資源小国であり、自給できると考えられるのは硫黄と石灰くらいです。

これだけで工業製品を作るのは不可能です。そのため鉄鉱石や石炭、石油、天然ガスなどの原燃料をほぼ輸入でまかなっています。

鉄鉱石はオーストラリアやブラジル。石炭はオーストラリアやインドネシア、カナダ。石油はサウジアラビアやアラブ首長国連邦、クウェート、カタールといった中東の産油国。天然ガスはオーストラリアやマレーシアなどからそれぞれ輸入しています。

これらの国々と良好な関係を保つのは必須といえます。

加えて、中東諸国と日本を結ぶルート上には東南アジアが位置しているため、日本は東南アジア諸国とも良好な関係を築く必要があります。

もっとも、資源輸出国は輸出余力が大きいから輸出が可能なのであって、今後の経済発展によって国内需要が高まり、輸出余力が小さくなる可能性も考えられます。

また中国やインドといった人口大国の経済発展により、両国の原燃料需要が高まると、世界市場での資源争奪戦が激しくなり、原燃料の調達が容易ではなくなります。

中東情勢とは関係のないところで「オイルショック」が起きることも十分に考えられるのです。

日本は森林面積の割合が68.5%と高く、森林資源が豊富に存在しますが、日本列島のおよそ7割が山地や丘陵地であるため、森林を伐採し、それを運搬するのが物理的に困難です。

そのためカナダやアメリカ合衆国、ロシアなどから多くの森林資源を輸入しています。

また年降水量がおよそ1800mmと多く、水資源に恵まれますが、山地や丘陵地が多いため、雨水が短時間で海に流れ出てしまいます。

そのため適宜ダムを造ることで水資源を確保し、河川の流量を調節することで大雨に対応しています。

資源は、国のおかれた自然環境によっても利用可能な量が変化します。

「地の利」を活かせる国があれば、恵まれない国もあります。

限りある資源の調達には、こうした「背景」を熟知することが欠かせません。

資本主義は恐慌から逃れられない

競争と信用制度

資本を集中させるにあたり、もっとも強力な2つのレバーは競争と信用制度です。

信用制度は最初は資本蓄積の控えめなアシスタントとしてこっそりと入ってきます。

そして社会に分散している貨幣を目に見えない糸で資本家の手にたぐり寄せてくれる。

しかし、後に競争で恐ろしい武器に変身し、その結果あらゆる種類の資本の集中のための、巨大な社会的メカニズムになります。

「信用制度」とは「金融」のことです。

会社の合併や企業規模を大きくするための投資には資金が必要です。

金融はお金が必要な人にお金を貸し、そこから利子を得るビジネスです。そして、それはお金を借りる人が後で元金と利子を返すと「信用」することを前提とします。 だから金融システムを「信用制度」と呼んでいます。

そこで、競争で生き残るためにも、お金を借りて資本の規模を増大することが必要です。

資本の規模を増やすには、剰余価値をコツコツ蓄積するのも一つの手ですが、もしライバル会社が銀行から借り入れた大金を武器に攻撃的な投資をしてきたら一瞬で潰されてしまいます。

企業が借りた資金は負債として財務諸表に現れます。財務諸表は全体の資産を資本と負債の2つに分類する。

簡単に言えば、資本は自分のお金で負債は他人のお金です。自分と他人のお金を合計したものが全体の資産となります。

他人のお金とは、普通は、銀行などの金融機関からの借入金です。

財務用語で「資本」というと、単純に自分のお金を意味するが、マルクスの「資本論」の中で資本と呼ぶものは財務諸表では資産に当たります。

強力で巨大な資本を作るためには、それが自分のお金だろうが、他人から借りたお金だろうが構わないからです。

他人のお金を借りて自分の資本を2倍にすると得られる利益も2倍になる。 このようなことをレバレッジといいます。

そのレバレッジは資本の貪欲さによって後に恐慌の原因にもなります。

生産部門によって生じる乖離

社会の総生産は2つの部門で構成されます。

I 生産手段を生産する部門 Ⅱ 消費材を生産する部門 そして、両方とも可変資本と不変資本とで構成されています。

I部門(生産手段部門)がお金を支払って、Ⅱ部門(消費材部門)から商品を購入したとしましょう。

この商品の価格には、Ⅱ部門が商品を生産するときの機械の摩耗(減価償却)の分が含まれています。

だから、II部門は時間が経った後に機械を交換するときのために、その分のお金を使わず積み立てます。

例えばI部門が2000を購入して、その200が摩耗の分ならば、II部門はその200を使わず積み立てておきます。 その分は機械を交替するまで、しばらくI部門に戻らない。従ってI部門にはII部門に比べて200の分が過剰生産されたことになります。

生産物の種類や性質によって、その生産と消費の周期は違うため、その乖離から不均衡が生じます。

様々な原因によってその不均衡の期間が長くなると、恐慌 (過剰生産によって価格の暴落、失業の増加、破産、銀行の破綻などが起こる現象)が発生する可能性が出てきます。

生活必需品と贅沢品

Ⅱ部門 (消費材の生産部門) の労働者はⅡ部門の資本家から貰った賃金で自身の生産物の一部を買うことがはっきりしています。

つまりⅡ部門の労働者は労働力に投下した資本を再び貨幣の形態に変化させて戻してくれます。

Ⅱ部門の生産物は「生活必需品」と「贅沢品」の2つに分類することができます。

生活必需品は資本家も労働者も消費するが、贅沢品は資本家階級の消費に限るため、労働者から搾取した剰余価値からの支払いと交換されるだけです。

ところが、恐慌のときには贅沢品の消費が減少します。つまりそれは、贅沢品生産の可変資本の貨幣資本への転化を停滞させます。

そこで贅沢品を生産する労働者は解雇されます。その結果、彼らが消費していた生活必需品の販売も減少します。

景気が良くないときは、高価な商品と安価な商品の消費傾向が二極化する傾向があるという。

景気が悪いときにも、お金持ちは以前のように高価な商品を買うことができるが平均的な価格や廉価商品を購入していた中産階級は、どんどん安価の商品に流れるようになります。

恐慌が起こると、お金持ちも消費を減らします。つまり贅沢品の販売も減少します。

景況がこうなると高級品を生産していた資本家は労働力にかかる費用を減らそうとします。

被雇用者の賃金が減少したり、解雇される結果になるのです。こうして被雇用者階級が使うことができるお金の量が減ると社会全般の消費も減ります

ひとつひとつの事件が連鎖反応を起こすことによって悪循環が発生し、経済は泥沼へと沈んでいきます。

恐慌

恐慌が支払能力のある消費や消費者の不足で起こるというのは、同語反復に過ぎません。

資本主義においては極端に貧乏な人や泥棒の消費を除けば、すべてが「支払能力のある消費」だからです。

商品が売れないのは、商品に対する支払能力のある購入者を探し出すことができないことを意味するだけです。

もし「労働者階級の報酬は生産に見合っていないから、もっと多い賃金を払えば問題が解決する」ともっともらしいことを言う人がいるなら、こう指摘すべきです。

恐慌は、むしろ賃金が上がり労働者階級が生産物の中の多くを賃金として貰う、そのときに準備されていると。

健全で単純な常識を支持する人々の観点からは、そんな時期は逆に恐慌がなくなるのが当然だと思うでしょう。

資本主義的生産は善意や悪意とは関係のない、ある種の状態で構成されており、その状態が労働者階級の繁栄を一時的に限って許しそれが恐慌の兆候となるように見えます。

好景気のときは、金融によってすべての資産が実体より過大評価され、労働者階級も比較的豊かになります。

こうして繁栄を謳歌する労働者階級も浪費する生活を始めるが、それは一時的な現象です。その終末はいつも恐慌です。

繁栄がいつも恐慌で終わり、また繁栄がやってくる。これが周期的に繰り返されるのが資本主義の特徴なのです。

資本主義的生産の動機は蓄積

単純再生産を仮定すると、Ⅰ部門 (生産手段の生産) とⅡ部門 (消費材の生産) からのすべての剰余価値は、一切資本に付け加えられずに資本家の収入として消費されます。

しかし、実際には資本家の収入は剰余価値の一部であり残りのすべては資本に付け加えられます。

実際の蓄積はこれを前提条件として行われます。

蓄積が消費の費用を通じて行われるというのは、資本主義的生産の性質と矛盾する虚像です。

なぜならそれは、資本主義的生産の目的と動機が剰余価値の獲得とそれを資本に変えること(すなわち蓄積)ではなく消費にあると定義しているからです。

資本主義システムでは経済成長のエネルギーは消費にあるのではなく、剰余価値の獲得と資本の増殖にあります。

需要には限界があるのに、資本は自己増殖のために絶えず生産を続けるから、その結果は過剰生産になる。

生産力と消費力の違いーその乖離から不況や恐慌が発生します。 この乖離が解消されない以上、いくら貨幣を多く発行しても、いくら利子を下げても需要や投資が増加することができません。

資本を投資してもそれが増殖することができなければ投資が活発になることもないし雇用が活発になることもできません。

各国の政府がいくら努力しても資本主義の構造的な欠陥により、不況の根本的な原因は解消されません。

恐慌は矛盾に対する回答

恐慌は資本主義の矛盾に対する瞬間的で強制的な解決法です。 恐慌は歪曲された均衡を一時的に元通りに回復する乱暴な爆発なのです。

その矛盾は資本主義的生産が、それが持つ価値や剰余価値、生産が行われる社会的状況に構わず生産力を増大しようとする傾向によって発生します。

資本の目的は、その価値を保持しながらできるだけ最大限の自己拡大をすることです。

資本は既存の価値を利用して最大限自分を増大させようとするが、その目的を成就するために使う方法は利潤率を低下させたり、既存の資本の価値を下落させたり、既存の生産システムを捨てて新しいシステムを導入することなどです。

資本の蓄積速度は利潤率の低下によって鈍くなります。

すると、資本は絶えずこのような障壁を克服しようとするが、その方法はもっと多くの障壁を作ることになります。

資本は自己増殖の欲望により、レバレッジを使おうとします。 レバレッジとは、金融機関からお金を借りて自己資金より多いお金で投資する様子を、レバー(てこ)に見立てた用語です。

例えば、1000万円を投資して500万円を得たら1億円を投資すれば5000万円を得られる計算になります。

レバレッジが多く使われると現実の資産価格が歪曲されていきます。 例えば皆がレバレッジを使って不動産投資をしていると不動産の価格はその実際の価格よりずっと高くなります。

資本主義システムではいつもレバレッジが使われているため資本主義の好況はいつもバブルだと言えます。

最近はコンピュータプログラムによる売買で先物などの派生商品に投資する技法が投資ファンドで多く使われているため、それが農産物の価格を上げています。

ファンドの投資金が農産物先物に多く投資されると、その需要が実際より多く見え価格が歪曲されています。

先物は証拠金さえあればその数倍の先物の取引が可能なので、それ自体がレバレッジ効果を持ちます。 このように金融はレバレッジ効果で資本を誘惑するのです。

問題は、資産の実際の価格が金融というレバレッジによって過大評価されると、価格の小さな下落でも実物市場で借りたお金を返すことができない人が生じることです。

こうなると、連鎖反応によって過大評価されていた資産の価格が暴落してしまいます。

こうして大勢がお金を失い、それが社会全体に広がることで金融機関も連鎖的に破産してしまい恐慌がやってきます。

資本の障壁は資本それ自体

資本主義的生産の本当の障壁は資本それ自体です。

資本とその自己増殖は生産の始まりと終わりであり動機にして目的です。

生産は資本のためのことで、その逆は成立しません。

昔は必要な物を作るために生産活動をしたが、資本主義社会では資本を増大させるために生産活動をします。

前者と後者には根本的な差があります。

必要な物を作るための生産では、金融機関からお金を借りて生産規模を拡大させたり無理をして生産性を高める必要はありません。

他人から搾取する必要もありません。森の中で平和に暮らすドワーフのように適当な食べ物を生産しながら皆で仲良く暮らしていれば良いです。

だが、資本の増殖を目的とすれば、「必要な量を適当に生産する」などというのんきな話は通じません。

できるだけ多い商品を短い時間で生産し、利潤を最大化しなければなりません。

そして、金融からできるだけ多くの借金をしてレバレッジを活用し増殖の速度を加速させなければなりません。

だが生産性の発達は必然的に利潤率を低下させてしまうため、資本を増大させるための努力が逆に自分の成長を鈍らせる要因になってしまいます。

そしてレバレッジの活用も、資産の価値にバブルを起こし、それが一瞬でも崩れると恐慌が訪れます。

だから、資本が成長するときにもっとも恐ろしい障害物は自己増殖を目的とする資本自体だと言うことができるのです。

資本主義的生産の限界

資本主義的生産には限界があります。

第一に、労働生産性の発展は利潤率の低下を伴い、それが周期的に恐慌を通じて解除されなけれはならないことです。

第二に、生産の拡大と縮小は無給の労働で得る剰余価値と使用資本の比率によることで、社会的な需要と供給の関係によることではありません。

資本は実際の需要とは関係なく自己増殖のために生産しているから、それも恐慌の原因になります。

17世紀、当時のオランダは隆盛を極めておりヨーロッパ最大の経済大国だった。

そんな折、オランダにチューリップという新しい植物が紹介されました。

当時は珍しい植物だったから当然高価だったが、その後、狂乱が始まりました。

チューリップの球根の価格が毎日暴騰を続け、1637年2月にはチューリップの球根ひとつが約1500万円の価格で取引されたのです。

そしてその価格は一瞬で暴落しました。チューリップに投資した商人たちは破産し、貴族たちは領地を失ってしまいました。

この事件のせいでオランダの経済は大きな被害を受けました。

今では誰だってチューリップの価値を知っているし、チューリップについて冷静に考えることができます。

しかし、当時の人々にとっては毎日暴騰を続ける植物が、絶好の投資の手段になったことでしょう。

チューリップに投資してお金持ちになった人もたくさんいたから、皆がレバレッジを使って球根の可能性に賭けたのです。

実体経済の世界でAという商品の価格が10%上がると、銀行からお金を借りて2倍の資金で投資すれば、20%の利益を得ることができます。

価格上昇を見た多くの人がこのように投資しようとするから、需要が高まったAの価格は暴騰します。

しかし、非常識的に暴騰した価格はいつか暴落します。すると、借金をしてAに投資していた人々は破産し、お金を貸した銀行はそれを回収できません

これは金融が存在する以上、必ず周期的に発生する現象であり、恐慌が周期的に起こる理由でもあります。

金融

信用制度は国立銀行や、それをとりまく金貸し業者と高利貸し業者を中心とする、巨大な規模で集中された制度です。

それは、この寄生階級に産業資本家を周期的に破滅させる力を与えるだけではなく、もっとも危険な方法で現実の精査に干渉させることになります。

しかし、生産とはまったく関係がありません。

恐慌の中心には金融があります。

恐慌の原因が利潤率の低下、信じられないようなバブル、そして需要と供給に関係がない価格の歪曲などにあることはすでに述べました。

金融は資本の持ち主にレバレッジを提供して、そんな現象をさらに極端な方向へ導きます。

価格は実体とかけ離れていき、バブルは膨らんでいきます。

現代にはたくさんの投資ファンドがあり、それが市場を荒らす主体になっています。

投資ファンドは、過去のように株式や債券への投資に限らず、穀物関連の資産などの実物にも直接投資をしています。

数学者ジェームズ・シモンズが運営する投資ファンド「ルネサンス・テクノロジー」では、人工衛星まで打ち上げて穀物の作況を監視しています。どれだけの資金が穀物関連の投資に投下されているか、うかがい知れる事例です。

だが投資ファンドは穀物自体には関心がありません。

投資ファンドはひたすら利ざやを得るために穀物に投資しています。

そしてそれは実物の価格を歪曲したり、市場を乱したりします。

これは社会の実際の富を生み出す活動ではないし、合法的なゲームを通じて他人の富を自分のポケットに移す行為に過ぎまいのです。

資本主義の暴走と弁証法

資本主義の特徴は、お金持ちはどんどんお金持ちになり、貧乏な人はどんどん貧乏になることです。

10人の住人しかいない世界を想像してみましょう。

彼らはそれぞれ100万円の資産を持っています。だから世界の富は合わせて1000万円です。

そして10人のうち、資本家は1人だけです。 彼のビジネスは急成長しており、1年の間で財産が15%増加しています。時間が経つと何が起こるだろう?

10年後、資本家の財産は400万円を突破していました。それから5年が経つと資本家の財産は800万円を超えます。

この世の富は全部で1000万円だから、残りの9人の財産を全部合わせても200万円です。資本家一人の財産が残り9人の財産の合計の4倍となります。

もちろん現実の世界では資源の採掘などで世界全体の富が増大するから全世界の富が1000万円にとどまることはないですが、重要なのは地球のリソースには限界があるから、世界の総生産は複利で増加することはない、反面、資本家の富は複利で増大することです。

もっと簡単に考えるなら、さっきの事例の資本家が銀行の所有者だとしましょう。

彼は貸し金業で利子を得るから、財産は複利で増大します。 もちろん15%よりは低いだろうが、資本が複利で増大するスピードは、世界の総生産が増大する速度を上回ります。

従って、資本家が持つ富以外の富は減少しなければなりません。

この世に自己増殖する富が存在する以上、お金持ちはどんどん多い富を所有するようになり、それに伴って残りの人の財産は減少していくのが資本主義社会の宿命なのです。

マルクスは「弁証法」によって、このような矛盾を持つ資本主義が、新しい価値観に取って代わられると予想しました。

弁証法とは何か?これは古代ギリシャで「問答法」と呼ばれた方法であり、ヘーゲルによってその形式が確立されました。 インターネットの掲示板のスレッドを想像すれば分かりやすいです。

最初の誰かが、「犬は猫よりも主人を愛する」と主張したとしましょう(命題)。

すると、他の意見を持つ人が「犬は集団生活をする動物だから、そう見えるだけだ。実は猫の方が主人を愛する」と反論します(反命題)。 すると「猫も犬も、表現する方法が違うだけで主人への愛は持っている」とコメントが付きます。

これは命題と反命題を本質的に統合した命題なので、合命題と呼びます。

このような過程を続けて論理的に考えていくと、人間が考え得る、もっとも正しい結論にたどり着くというのが弁証法の概念です。

「命題→反命題→合命題」の形式を「正反合」とも呼びます。

弁証法を簡単に言い換えると「論理的な類推」「科学的推論」にあたります。

マルクスの「資本論」も、「富は商品の集まりだ」という命題から出発し、実に論理的に理論を展開していることが分かります。

とにかくこうして弁証法、あるいは論理的な推論を通じて、資本主義の問題が発覚すれば人々はそれを改革するために立ち上がるだろう、とマルクスは予想しました。

だが結局、共産主義は「次の体制」になることに失敗しました。

この資本主義が永遠に続くのか、それとも他の体制が資本主義を変革したり、あるいは取って代わることになるのか、それはまだ誰も知らない未来の話です。

資本が巨大になるメカニズム

単純再生産

社会は消費を中断することはできないし、生産も同様です。

従って生産過程の全体を見ると、すべての生産プロセスは再生産のプロセスでもあります。

例えば、今年100万円の資本が20万円の剰余価値を生み出したら、その過程は翌年にも繰り返されなければなりません。

周期的に作られる剰余価値を資本家がそれを得るたびに消費してしまえば、それは「単純再生産」です。

この再生産はただ、過去の規模を維持しながら生産プロセスを繰り返すだけだが、不連続なプロセスとは明確に違います。

2つの消費

労働者は2つの方法で消費します。

第一は「生産的消費」です。

労働者は自分の労働で生産手段を消費し、それを投下された資本より高い価値の商品に作り変えます。

これは労働者の「生産的消費」です。これは彼の労働力を買った資本家の消費でもあります。

第二は「個人的消費」です。

労働者は自身に支払われたお金を、自分の労働力を維持するために消費します。

これは労働者の「個人的な消費」です。労働者の生産的消費と個人的消費は完全に別物です。

前者の場合、労働者は資本家に属するが、後者の場合、労働者は自身に属します。

個人的消費

勤務日には、まるでエンジンに燃料を補給するように、労働者は自分の労働力を維持するために個人的な消費をします。これは生産手段に必要な消費でもあります。

労働者の個人的消費は生産的消費になるので資本家は一石二鳥の効果を得ます。労働力を使った資本が生産の手段を維持するために使われたからです。

荷物を運ぶ家畜が草を食べることは家畜が好きでしていることですが、それは生産に必要なことです。

同様に、労働者階級が自分たちの生活を維持したり繁殖したりするのは資本の再生産の必要条件です。

だから資本家は皆、それを労働者たちの自己保存の本能に任せる一方、労働者の個人的消費を必ず必要な限界まで減らすようにします。

社員が会社で長い時間生活するようになると、個人的な消費と業務関連の消費の区別は曖昧になってしまいます。

そうなると、社員が自分のためにしている行為も、まるごと資本家の富を増大させるためのものになってしまいます。

これは資本家にとって一石二鳥です。そのうえ、資本家は社員が労働力を維持できる限界まで社員の個人的な消費にかかる費用を減らそうとし、それもまた資本家の剰余価値を増やしてくれます。

資本家の立場から重要なことは、社員に「自分は自分のために働き、休息している」という幻想を抱かせることです。

巧みに隠蔽すればするほど生産性は高くなり、社員の個人的な消費も資本家のものにすることができます。

労働者は自ら資本につながれる

資本主義的生産は労働者を搾取するための条件を存続させようとします。

つまり、労働者が生存のために労働力を売って、資本家を豊かにしてくれるよう仕向けます。

資本家は労働者が生産した富を利用して労働者を買います。

こうして労働者は市場で労働力の売り手として資本家と出会いますが、実は労働者は自分を資本に売る前から資本に隷属しています。

それは労働力の販売の周期的な更新と雇い主が変わることで隠蔽されています。

サラリーマンの労働が生み出した富は、その一部は会社がサラリーマンを雇用するお金になります。

サラリーマンは富を生み出していますが、それは資本家にタダで渡す分と、自分を資本に隷属させる分になります。

前者は剰余労働が生み出した富、そして後者は必要労働が生み出した富です。

生み出した富のすべてが資本への隷属を強化するという悪循環を起こしています。

これが、いくら社会が発達し、国家が発展しても被雇用者階級が裕福になることがない理由です。

そして、この構造を維持するのは、被雇用者自身の労働です。

一生懸命になって自分の足かせを作っているようなもので、労働者は努力すればするほど自分を資本につなぎ止めています。

資本の蓄積

剰余価値から資本はどう生まれるのかについて調べてみます。

剰余価値が資本に加わって、それが資本になることを「資本蓄積」と呼びます。

資本の蓄積のためには、剰余生産物の一部を資本に転化する必要があります。

そして、その転化は原料などの生産手段と労働者の生活を維持する生活手段のために行われ、それ以外のケースは存在しません。

そして、それらが資本として稼働するためには、資本家階級は追加の労働力を求めます。

こうして資本は賃金に依存する労働者階級をさらに雇い、資本は再生産の過程を通じてどんどん増大します。

資本が生み出した剰余価値の全部、またはその一部を資本家が消費せずに資本に付け加えることで資本は増大します。

再投資による生産手段(原材料と道具)の増加は、それを利用してさらにたくさんの商品を生産するために、追加の労働力が必要であることを意味します。

そこで資本家はさらに雇う。 このような過程が繰り返されることで生産規模は大きくなっていきます。

このような資本蓄積があるから、資本主義のシステムのもとでは、ある軋轢が生じます。

それは規模を大きくしようとする資本家間の軋轢です。

これまでは資本家階級と労働者階級の軋轢が必然的だとしてきましたが、これはもうひとつの争いです。

当然、大きい会社は小さい会社より有利だから、生き残るために資本家は自分の帝国を拡大しようとします。

資本家間の競争は資本家にとっても厄介だが労働者階級にとっても良いことではありません。

資本家間の競争がある以上、労働者から搾取できるだけ搾取し、剰余価値を絞りだす資本家が生き残るようになるからです。

資本家が皆、単純再生産で満足すれば、そんなことは起こりませんが、残念ながら資本というものは自分を拡大させようとする性質があります。

そして競争がある以上、資本はただ拡大するだけでなく、できるだけ早く拡大しなければなりません。

だからこそ、労働者から剰余価値を限界まで絞り出さなければならないのです。

貨幣資本の循環

貨幣資本の循環は3つの段階でできています。

1. お金→商品 (資本が資本で生産手段 と労働力を買う)

2. 商品⇒生産プロセス⇒商品’ (資本家は生産手段と労働力で商品を生産する)

3. 商品’→お金’ (資本家は自分が生産した商品を売り、お金を得る)

1段階における「お金→商品」における商品は、労働力と生産手段とで構成されます。

資本家が商品として買った労働力と生産手段は、生産のための生産資本です。

循環全体 お金→商品⇒生産プロセス⇒商品’→お金’

ピザ屋を例に考えてみましょう。 ピザ屋を開店した主人(資本家)は、お金で料理に必要な石窯やナイフやフライパンなどの道具を買います。 そして小麦粉やハム、ピーマン、チーズなどの原材料を買います。

これら道具と原材料は不変資本です

そして彼は、自分の従兄弟を調理を担当するシェフとして雇います。 それを手伝うアシスタントやサーブを担当する店員も雇います。 彼らは可変資本です。

お金で買った商品ー原材料と道具と労働力ーは、生産プロセスにより最終的には商品であるピザへと変身します。

ピザを作るためにかかった小麦粉やチーズなどの費用は自分たちの価値をそのままピザに移します。石窯などの道具にかかったお金は、その減価償却の分をピザに移します。

これら不変資本は最初購入した価値以上は生み出さず自分の価値をそのままピザに移すだけです。

だが、雇ったシェフやアシスタントや店員の労働は自分がもらう賃金以上の価値を生み出します。こうしなければ、店の主人は利益を得ることができません。

資本家が買った商品は、生産プロセスを通ったあとは「商品’」、つまりピザになるが、その価値は生産プロセスを通る前より増加しています。その増加分は雇ったシェフや店員などの労働力から出たものです。

生産資本の循環

生産資本の循環は、次のように表現されます。

生産資本→商品→お金→商品’→生産資本

生産資本は労働力と生産手段でできているから、この循環は次のように整理できます。

↗︎労働力 生産資本⇒商品→お金→商品’ . ↘︎生産手段⇒生産資本’

拡大再生産の場合、この循環で生産資本が増大する。

単純再生産の場合、この循環で生産資本の規模は変化しない。

前項目と違い、生産資本を中心とした循環を描いています。

生産資本とは生産に使われる資産を意味します。ピザ屋の場合だと石窯やナイフ、フライパンといった料理道具などキッチンのシステム全体が生産資本にあたります。

「生産資本⇒商品」は、オーブン(生産資本)からピザ(商品)が出てくるところを想像すれば理解しやすいです。

そして「生産資本⇒商品→お金→商品’」は、そのお金でさらにピザを焼くために、新しい小麦粉やチーズ、労働力を買うところまでを見せてくれます。

「商品’」が労働力と生産手段に分かれます。

労働力は店員やシェフに支払う賃金そして生産手段は小麦粉やチーズを買うことです。

生産手段には道具が含まれ、石窯やナイフが摩耗したら、交換するのにもお金がかかります。

そして摩耗を別にして、ピザ屋が人気を呼んでお客の数が増え、石窯を増設するようになれば、それは生産手段が増加することです。

石窯の数が増え、生産の規模が増大すると、それは生産資本が増えたことを意味します。

もし店の主人が大きなピザ屋の経営を目的としていれば、彼は生産資本の規模を増大させることに注力するでしょう。

資本家が資本の規模を増大させて競争力を保とうとすることは、とても自然です。

企業間の分業と巨大資本の登場

クアルコムという世界でも指折りの半導体チップの会社があるが、インテルやサムスンと違って自社工場を持ちません。

クアルコムは他社の工場に委託して自分たちがデザインしたチップを生産します。工場がないから施設への投資も必要ないし在庫の管理も不要です。

このような企業を、「ファブレス企業」そして、その依頼の通りにチップを生産する企業を「ファウンドリ」と呼びます。

このような企業間の分業と分野別の資本集中と巨大化が現代のトレンドです。

資本はいろいろな分野に投資するより、自分が確実に支配できるひとつの分野に集中して残りは外部発注する。

自社工場を持たずに商品を生産するビジネスモデルは、このようなトレンドが進んだ結果現れました。

少数の巨大企業が分野別の市場を支配する事態は、あらゆる分野で進行しています。

食品業界はいくつかの巨大食品企業と巨大ファーストフードチェーン、巨大マートが支配するようになっています。

食品企業は圧倒的な支配力を使って契約した農家に家畜の成長を促進するいろいろな施設に投資することを絶えず要求します。農家がそれを断れば契約が打ち切りになります。

設備に投資した農家は重い借金を背負うことになります。

「FOOD,INC」というドキュメンタリー映画によると2つの鶏小屋を持つ一般的な農家は、平均して5000万円の負債を負うが、収入は1年に180万円です。

この農家は巨大資本に完全に隷属しています。農家だけでなく消費者も剰余価値を最大にするために抗生剤を使って生産された肉を食べなくてはなりません。

命がかかっている医療分野では、問題はより深刻になります。

製薬会社も小さな規模の企業は新薬の開発に不利なので、少数の巨大企業だけが市場を支配しています。

巨大製薬会社は自身の利潤につながらない薬の供給を中断しようとしたり、薬の価格をとんでもなく高く策定することもあります。

資本の蓄積と集中による巨大化はこうして強い権力を持ち少数の資本家以外のすべての人間はその奴隷になります。