江戸時代の泰平はヨーロッパの革命のおかげだった

江戸の約200年の泰平期

江戸時代を形容するのに、しばしば「泰平」という言葉が用いられます。

泰平とは「世の中が平和に治まり、穏やかなこと」の意になります。

幕末維新期こそ、日本は欧米勢力によって開国を迫られますが、約260年のあいだ続いた江戸時代のうち約200年は、人々は外圧もなく穏やかな時代を過ごしていました。 

欧米諸国がアジアに無関心だったわけではありません。

東南アジアは植民地として侵食されていました。

しかし、彼らには日本にまで手を延ばせない事情がありました。

革命と戦争の連続だったヨーロッパ

日本が泰平を謳歌していた17〜19世紀初頭にかけて、ヨーロッパは革命と戦争の時代でした。

まずはイギリスです。

1642年にピューリタン革命、そして1688年に名誉革命が起こります。この2つの革命は、「イギリス市民革命」とも呼ばれています。

ピューリタン革命で敗れ処刑される国王チャールズ1世

この2つの革命のあいだには、イギリスと当時新興国として力をつけていたオランダにより、第1次イギリス=オランダ戦争が起こっています。

イギリス・オランダ戦争の海戦(アブラハム・ストーク画)

そしてそのあとに起こった名誉革命により、イギリスに新たな政治体制が確立しました。

その翌年にはスペイン・イタリア、イギリス、オランダ、フランスによるファルツ戦争が勃発します。

この戦争が9年で終結すると、1701年にはスペイン継承戦争が勃発し、スペイン・イタリア、オランダ、フランス、神聖ローマ帝国・オーストリア、プロイセンを巻き込んでの大戦争に発展しました。

さらにオーストリア継承戦争、七年戦争とヨーロッパ全土を巻き込む戦争が続き、1789年にフランス革命が勃発します。

ブルボン王朝を倒した市民革命に、ヨーロッパ全土が警戒心を募らせました。

この結果、ヨーロッパ中の国々がフランスを包囲する「対仏大同盟」が結成されます。

こうした局面でフランスには、ナポレオン・ボナパルトが登場します。

この戦争の天才児が出現したことにより、ヨーロッパの戦火はますます激しくなるのです。

1789年7月14日,パリ民衆がバスティーユ牢獄を襲撃してフランス革命の発端となった事件バスティーユ

革命と戦争は、ヨーロッパでのみ行われていたわけではありません。

北アメリカ大陸では、アメリカ合衆国がイギリスからの独立をかけて、戦っていました。

この戦争にはフランス、スペイン、オランダもアメリカ側で参戦しました。

このように17世紀から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパ社会は戦争と革命に明け暮れていました。

とても極東の島国・日本に構っている余裕はなかったのです。

アメリカが独立をかけてイギリスと戦った戦闘のひとつ「カウペンスの戦い」(ウィリアム・ラニー画)

日本産の銅と戦争

銀と並んで大きな影響を及ぼしたものが日本産の銅です。

日本列島には銅山が多く、豊富な産出量を誇っていました。

銅は貨幣の鋳造には不可欠な鉱物です。

中国やインドでは、「棹銅(さおどう)」と呼ばれる銅を輸入していました。これは銅を棒状に加工したものです。

また、アジア各地の貨幣を持たない地域では、日本から輸入した銅銭をそのまま流通させていました。

日本産の銅を大量に買って売りさばいたのは、日本と唯一通商関係を持つ、オランダの東インド会社でした。

この日本産銅は、戦争続きのヨーロッパに運ばれ、武器の鋳造にも使われました。

日本産の銅が江戸時代の泰平に一役買っていたのです。

銅山を経営していた住友家がつくった鉱山技術書(『鼓銅図録』より)

宣教師はヨーロッパのスパイだった?

群雄割拠の戦国日本にキリスト教が伝来

1549(天文18)年、戦国時代の日本にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、キリスト教が伝えられます。

ザビエルが日本を去ったあとも、多くの宣教師が来日し、日本にローマカトリック(旧教)の教えを説きました。

「キリシタン」との名称で日本に根づくや、キリスト教は急速に勢力を拡大。

大友宗麟や有馬晴信のように戦国大名でありながら洗礼を受ける者も少なからずおり(キリシタン大名)、キリスト教信者は1582(天正10)年の段階で、九州で12万5000人、畿内で2万5000人に達しました。

トルデシリャス条約とサラゴサ条約で定められた子午線

国をむしばむ内なる敵・キリスト教現地信者

伝来から33年でかくも短期間に信者が増えたのは、宣教師たちが行う数々の慈善事業を介して、教えが説く「理想郷」の実現にリアリティを感じたためです。

しかし、宣教師たちには裏の顔がありました。彼らはヨーロッパの放ったスパイだったのです。

ローマカトリックを奉じるポルトガルとスペインは、1494年のトルデシリャス条約と1529年のサラゴサ条約により、世界を勝手に分割支配することを決めていました。

彼らはまず、目星をつけた場所にキリスト教宣教師を送りこみます。

宣教師は領主に取り入って布教許可をもらい、教えを広めるかたわら慈善事業を行い、現地信者を増やしていきます。

キリスト教では世俗権力のうえに神の教えを置くため、現地信者はキリスト教を重んじ、現地の権力に反目するようになるのです。

この空気が醸成された頃を見計らい、ヨーロッパ人商人が強引な商取引で現地経済をマヒさせ、抗争が起こると武力で制圧するのです。

もっとも、自分たちが武力を行使するのは最後の手段です。たいていは現地信者が先兵となって戦いました。

宣教師に吹き込まれた「理想郷」の実現を信じて…。

インドも東南アジアもこの方法で、スペインやポルトガルの植民地となりました。

日本ではキリシタン大名の大村純忠が、宣教師の指示にしたがって領内の神社仏閣を破壊し、領民を強制的に改宗させていますから、内部工作はかなり浸透していたと考えて良いでしょう。

町を歩く宣教師たち

日本でも起こっていた現地信者の武装蜂起

しかし、最終的に彼らの目論見は失敗しました。

豊臣関白政権下の1596(慶長元)年に起こったサン=フェリペ号事件により、スペインの抱く領土的野心が露わになったからです。

海外貿易を優先するあまりキリシタン入信は個人の自由としていた豊臣秀吉も、事が露見すると、宣教師6名と日本人信者20名を長崎で処刑して、禁圧へと舵を切ります(二十六聖人の殉教)。

徳川幕府も当初は海外貿易優先のあまりキリシタンを黙認していましたが、次第に禁制を強化し、1624(寛永元)年にはスペインとの国交を断絶。

1636(寛永13)年にポルトガル人を長崎出島に移します。

この翌年、北九州の現地信者が禁教と重税に反抗し、島原の乱が勃発します。

インドや東南アジア同様のことが日本でも起こったのです。

乱を鎮めた幕府は、ポルトガル人を出島から追い出すかたわら、宗門改めを断行します。

この宗教統制策により日本人はみな仏教寺院の檀家となりました。

こうして日本は、宗教を隠れ蓑としたスペイン、ポルトガルの魔手から逃れたのです。

「島原の乱合戦図」に描かれた戦いの様子

金銀がつなげた日本と大航海時代のヨーロッパ

マルコ・ポーロが紹介した「黄金の国」

マルコ・ポーロは13世紀後半から、14世紀初頭にかけて生きた人です。

イタリアから中国大陸の元帝国に渡り、皇帝フビライ・ハーンに17年のあいだ仕えました。

マルコは帰国後、自身の見聞を口述筆記のかたちで『東方見聞録』という書物にまとめます。

この書物は、「ジパングは、東の方、大陸から1500マイルの大洋中にある、とても大きな島である」という書き出しで日本にもふれています。

マルコ・ポーロは日本を莫大な量の黄金を産出する「黄金の国」として紹介しました。

『東方見聞録』が刊行されると、黄金国ジパングの伝説は、ヨーロッパ中に広まりました。

これによりアジア世界の富が注目されるようになり、ヨーロッパは海洋進出の時代へと入っていきます。

大航海時代の到来です。

『東方見聞録』

ヨーロッパ人が日本=ジパングと認識したのは、16世紀に入ってからです。

メルカトルが刊行した『世界図』のなかに、「昔のクリーセ(金島)で、ベネチア人マルコ・ポーロによって、ジパングと名付けられた日本」と注釈がついています。

『東方見聞録』での黄金の国ジパングは、東方世界にある不思議な国にしかすぎません。

しかし、16世紀には明確に「マルコ・ポーロの記した国」と認識されました。これは日本が本当に「黄金の国」となったためです。

16世紀の日本は、群雄割拠の戦国時代にありました。

戦国大名たちは軍資金調達のため、鉱山経営に力を入れました。

新しい金銀精錬法「灰吹法」が朝鮮半島経由で伝わると、金銀の産出量は激増しました。

これが頂点に達したのが、豊臣秀吉の時代です。

その様子は織田信長と豊臣秀吉に仕えた太田牛一が、『大かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』で「太閤秀吉公御出世より此かた、日本国々に、金銀山野にわきいで…」と記したほどでした。

世界経済を動かした日本の銀

日本の銀は朝鮮半島や中国大陸に運ばれ、南シナ海→インド→ヨーロッパ世界へと運ばれていきました。 

こうしたなか、スペイン人は日本列島を「プラタレアス群島(銀の島)」と呼ぶようになります。

ポルトガルのリスボンで作成された世界地図には、石見銀山(島根県大田市)が書き込まれ、「ミナス ダ プラタ(銀鉱山)」と記されるほどでした。

南シナ海には船に積まれた日本銀を狙う海賊が横行し、アジアやヨーロッパの経済は、日本銀の動向に大きく左右されました。

16世紀の日本は誇張でなく、世界を動かしていたのです。

スペインの探検家セバスチャン・ビスカイノなどは、日本に上陸したのを機に、奥州の独眼竜こと伊達政宗と親交を結び、「帝国のもっとも強大なる領主の1人たり。

その家甚だ古く、皇帝に次ぐ人物なり」と『ビスカイノ金銀島探検報告』で紹介したほどです。

この金銀島探索は19世紀初期、ロシア海軍によるものを最後に、幕を閉じました。

ペストの流行と香辛料が中世の日本を軍事大国化させた

日本への鉄砲伝来

1543年、中国の密貿易船が、九州の南に浮かぶ種子島に漂着します。

この船に乗り込んでいた2人のポルトガル人は、初めて日本の土を踏んだヨーロッパ人となりました。

ポルトガル人は、鉄砲を携えていました。銃口から火薬と弾丸を込め、火縄で着火させる火縄銃です。

領主の種子島時尭は、2000両(現在の数億円に相当)で、鉄砲2挺を買い取ります。

このうち1挺を刀鍛冶の八板金兵衛に渡して、作り方を研究させました。

この2年後、国産第1号の鉄砲が完成します。

種子島にある八板金兵衛の像

戦国時代の日本は世界一の軍事大国だった

鉄砲が伝来し、国産化された当時、日本は群雄割拠の戦国時代でした。

こうした時代背景もあり、鉄砲は急速に量産化されていきます。

量産化を支えたのは、各地に点在する刀鍛冶でした。刀と鉄砲ではまったく種類が異なりますが、鉄製品である点は共通しています。

部品のかたちや仕組みさえ分かってしまえば、コピーはたやすいことでした。

ところで、戦国時代が本格化する前、日本は世界一の武器輸出国でした。

膨大な数の日本刀を中国の明帝国に売っていたのです。

「倭刀甚だ利あり。中国人多くこれをひさぐ」とは、中国側の物産書『東西洋考』中の日本刀評です。

日本刀の質の高さを支えたのは、刀鍛冶職人の技術力です。

彼らが本格的に鉄砲製造に乗り出したことで、戦国時代の日本はたちまち、本家のヨーロッパ以上の鉄砲保有国になりました。

つまり、世界一の軍事大国になったのです。

日本が戦国時代にある時期、ヨーロッパ諸国は武力を背景に、東南アジア各地を植民地化していました。

しかし、日本の圧倒的軍事力を前にしては、さすがのヨーロッパ勢力も、手を出すことはできませんでした。

スペインなどは、太平洋方面の総督に対し、「わが軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒すな」と厳命を下すほどでした。

堺の鉄砲鍛冶が鉄砲を量産する様子(『和泉名所図会』)
長篠合戦図屏風

高価な生活必需品となった香辛料

ヨーロッパ人がアジア地域に進出した理由、これをさかのぼると、ペストという伝染病にたどりつきます。

14世紀半ば頃、ヨーロッパではペストがたびたび流行しました。

全身に黒い斑点を浮かび上がらせて悶死するため、「黒死病」と呼ばれて怖れられました。

このペストにより、ヨーロッパは人口の3分の1を失ってしまうのです。

疫病から逃れるため、人々は薬を求めました。このうち「もっとも効く」と信じられていたのが、東南アジア産の香辛料でした。

この香辛料は、塩漬け保存した肉の臭みを消す効果もあり、ヨーロッパでは生活必需品となっていました。

しかし、これらはじつに高価でした。

ヨーロッパとアジアのあいだを支配するイスラム勢力が、アジアで香辛料を買いつけると、莫大な仲介料を課して、ヨーロッパに売りつけていたためです。

「イスラム勢力を介さずに香辛料を手に入れたい」との思いは、ヨーロッパ人のだれもが抱いていました。

この思いがヨーロッパに大航海時代をもたらすのです。

戦国日本が軍事大国化したのは、ヨーロッパのペスト、イスラム勢力、東南アジアの香辛料という要素があったためです。

ひとつでも欠けていたとしたら、歴史はもっと違ったものになっていたでしょう。

明の冊封体制下に入った足利義満

中国大陸で明が建国される

元のフビライ・ハンは、2度の日本攻略(元寇)に失敗した後、3度目の日本遠征を計画していました。

しかし、計画を実現できないまま死去しました。

フビライ・ハン亡きあと、元王朝の勢威は衰えていき、各地で民衆反乱が勃発します。

このうち白蓮教徒による「紅巾の乱」がもっとも大規模なものでした。

これにより元は、モンゴル高原への後退を余儀なくされます。

中国大陸の新しい支配者となったのは、光武帝(朱元璋)が建国した明でした。

明の初代皇帝・洪武帝

権力基盤が脆弱だった室町幕府

中国で明が建国された時期、日本は南北朝の動乱期でした。

本州と四国は、足利義満と室町幕府をトップとする北朝が押さえていましたが、九州は懐良親王と征西府をトップとする南朝が押さえていました。

この頃倭寇はまだ盛んで、洪武帝は甚大な被害に頭を痛めていました。そこで懐良親王に倭寇の禁圧を命じます。

親王はこれを「不遜なり」として黙殺しますが、後に了承。洪武帝から「日本国王」に任じられます。

懐良親王
足利義満

これを知って足利義満は大いに焦ります。

九州南朝が明の勢威を背景に、勢力を伸長させる恐れがあったからです。

ここにおいて足利義満は、九州南朝征討に本腰を入れ、北朝きっての名将今川了俊を、九州探題に任命します。

この了俊の働きにより、九州南朝は形ばかりのものになりました。

ところで、室町幕府は大勢の有力守護のうえに、将軍が担がれるという体制になっており、政治的基盤は脆弱でした。

有力守護が力を持てば、勢力が覆る危険性があったのです。

幕府を安定させるには、磐石な権威が必要でした。義満はここで、明の冊封体制下に入ることを決意します。

明皇帝に王権を保証してもらうことで、政権の安定をはかろうとしたのです。

他の追随を許さない巨万の富を得ることも、義満の視野には入っていました。

天皇・上皇をしのぐ権勢をふるう

明は朝貢し、巨従を誓うものとしか貿易を行わない方針を打ち出していました。

つまり、対等の関係ではないわけです。

外交という点では屈辱的ですが、大きな見返りもありました。

朝貢する相手には、中華帝国のプライドをかけて、貢物をはるかに上回る物品や金銭を下賜し、貿易を許可したのです。

義満は名誉を捨てて、実利をとる道を選びました。

明側は当初、足利義満の申し出を断りました。征夷大将軍は朝廷の官職であり、形の上で天皇の臣下になるためです。

しかし1392年、南北朝が合一します。  この2年後に将軍職を退いた義満は、出家して法体となり、改めて明の冊封体制下に入るために動き始めます。

明も今度は義満の求めに応じました、懐良親王はすでに亡く、日本国王は不在だったからです。

倭寇禁圧を約束した点も、好感を持たれたようです。

こうして日本と明のあいだで貿易が開始されます。

明が貿易統制のために出した「勘合符」を使った貿易のため、勘合貿易と呼ばれています。

義満はこの貿易で莫大な富を得、天皇・上皇をしのぐ権力を誇り、日本国王として振る舞いました。

蒙古襲来がのちの倭寇を生んだ

分裂したモンゴル帝国と2度の蒙古襲来

ユーラシア大陸ほぼ全域を支配したチンギス・ハンが死亡し、そのあとを継承したオゴタイ・ハンも没すると、モンゴル帝国は分裂します。

そのなかで、チンギス・ハンの孫のフビライは、中国大陸に侵攻して王朝を樹立し、国号を中国風に「元」と改めました。

中国大陸の北方に元を建国したフビライは、南方にある南宋王朝の征服を画策します。

この南宋は日本と海上交易を通じて親密に交流していました。

そのため、鎌倉幕府執権・北条時宗は、フビライが親書をよこして友好を求めてきたときも突っぱねました。

フビライの親書に「兵を用いるに至りては、たれか好むところなからん」と、武力に訴える脅し文句があったのに加え、南宋からの情報で、「モンゴル帝国=侵略者」とイメージしていたからです。

たび重なる要求を拒んだ結果、日本は2度にわたる「蒙古襲来(元寇)」を受けることになります。

文永の役(『蒙古襲来絵詞』より)

この侵略は、1274年の文永の役、1281年の弘安の役の2回起こりました。

1回目は、軍内部で指揮系統を巡っての対立が発生したため元軍が自主的に撤退し、2回目は暴風雨によって壊滅。結局、日本側が元軍を退けた格好になりました。

2回目の弘安の役の際には、元軍に多数の江南人が含まれていました。元によって滅ぼされた南宋の人々です。

生き残った人々のうち、元軍の将兵はひとり残らず首を切られますが、江南人たちは生かされました。

倭寇

倭寇にさらされた高麗王朝

14世紀に入ると、朝鮮半島や中国大陸の沿岸を海賊たちが、荒らしまわるようになります。これが「倭寇」です。

彼らは海の武士団ともいうべき、武装交易商人たちです。北部九州の人々が主体となっていました。

倭寇が略奪行為を働いたのは、2つの理由がありました。

ひとつは物資の必要性です。

日本はこの時期、南北朝の動乱期にあり、大量の軍需物資を必要としていました。

国内ではそれらの供給が間に合わなかったため、大陸に押し寄せたのです。

もうひとつは、蒙古の力を削ぐためです。

とくに北部九州の海の民たちは、2度の経験で、「侵攻を受けたら、真っ先に犠牲になるのは自分たち」と分かっていました。

3度目の侵攻を阻止する意味もあり、交易ではなく、略奪という非常手段に出たのです。

蒙古襲来に加わった朝鮮半島の高麗王朝などは、41年のあいだに394回もの襲撃を受けて、ついには滅びてしまいました。

このとき役立てられたのが、元寇の際に生かされた江南人から仕入れた、沿岸都市に続く海の道、造船術など諸々の情報でした。

倭寇は日本で南北朝合一がなされ、大量の軍需物資が必要なくなるまで続けられました。

蒙古襲来があったから、そのあとの倭寇があったのです。

鎌倉時代の到来とモンゴル帝国の始まり

鎌倉時代の始まり

12世紀中ごろ、日本では平清盛をトップとする平家が政治を独占するようになります。

しかし朝廷はこれを快く思わず、朝廷は平家打倒を画策し、1180年、朝廷の令旨に応じて源氏が挙兵しました。

その結果、源義仲は平家を都から追い、源頼朝は東日本の行政権を獲得します。

再起を図る平家を追い込んだのは源頼朝の異母弟・源義経でした。

合戦の天才だった義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込みます。

このあと源頼朝が征夷大将軍に就任します。

チンギス・ハンの登場

日本が平安時代から鎌倉時代の過渡期にあるとき、ユーラシア大陸のモンゴル高原北東部に、強力なリーダーが出現しました。

モンゴル部のテムジン(鉄木真)です。

強大な軍事力を率いたテムジンは、タタール部、ケレイト部、ナイマン部などの諸部族を支配下に収め、モンゴル高原を統一しました。

そして1206年、クリルタイ(族長会議)で「チンギス・ハン(成吉思汗)」の称号を与えられます。

これによりモンゴル帝国が誕生したのです。

チンギス・ハンに率いられたモンゴル帝国は、モンゴル高原を起点として四方に軍事遠征を行ないます。

これにより黄河上流部、中央アジア、西トルキスタン、イラン高原、中国大陸北東部が、モンゴル帝国の支配下に入ることになります。

ユーラシア大陸を支配したモンゴル帝国

チンギス・ハンは1227年に死亡しますが、その後も一族により遠征は続けられ、1236年には、チンギス・ハンの孫バトゥにより、ヨーロッパ遠征が行われます。

この大征西の結果、東ヨーロッパとロシアがモンゴル帝国の支配下に入りました。

こうして東は中国大陸北東部、西は東ヨーロッパ、南はイラン高原、北はロシアまでがモンゴル帝国の支配下に入ります。

帝国はこのあとオゴタイ=ハン国(西北モンゴル)、キプチャク=ハン国(ロシア)、イル=ハン国(イラン)、チャガタイ=ハン国(中央アジア)、元の5つに分裂しますが、モンゴル人がユーラシア大陸の支配者であることに変わりはありませんでした。

モンゴル帝国がユーラシア大陸を支配したのは、大陸全体にまたがる貿易圏を獲得するためでした。

この貿易圏の誕生により、東西の情報・物資・人の流れが、それ以前と比べものにならないほどスムーズになりました。

つまり、これまで地域に限定されていたものが、ダイレクトに影響しあうようになったのです。

有史以降初めて「世界史」が誕生した瞬間でした。

バトゥがポーランド軍と戦ったワールシュタットの戦い

唐との断絶が日本独自の文化を生んだ

平安京の始まり

6世紀に伝来した仏教により、一時政治は安定しました。しかし、奈良時代後半になると仏教勢力が政治に介入するようになり、政治の腐敗が進みます。

そこで、政治と仏教勢力を切り離すことを目的として784年、長岡京への遷都が行われましたが、これはうまくいきませんでした。

長岡京造営の責任者・藤原種継の暗殺や、洪水被害などあり、長岡京造営は中止を余儀なくされてしまったのです。

代わって新たな都の候補地に選ばれたのが山背国、つまり、現在の京都府でした。

794年、遷都が行われ、新しい都は「平安京」と名付けられました。これより約390年間を平安時代と呼んでいます。

中国で続いた反乱と唐の衰退

白村江での敗戦以来、日本は唐王朝を手本として国造りを進め、遣唐使を定期的に派遣して、学問・文化・技術の吸収に努めていました。

しかし、唐朝の運命は755年に起こった安史の乱を機に、大きく変転します。

乱は9年にも及んだばかりか、唐朝単独では鎮めることができず、異民族ウイグルの力を借りて鎮圧したのです。

これにより、唐朝の権威は大きく失墜しました。国内でも政治・経済・社会の各方面で大混乱が起こり、下り坂を転げ落ちるように衰亡へと向かい始めるのです。

9世紀も後半に入ると、唐朝の衰退はいよいよ進行し、政治は完全に腐敗。民衆の生活も困窮を極めるようになります。

こうしたなか875年に黄巣の乱が勃発します。

この大反乱によって唐朝は事実上、崩壊。907年には朱然忠によって滅ぼされ、中国大陸は「五代十国」という分裂の時代へと入りました。

遣唐使船

遣唐使の廃止と国文学の発達

日本はこの動乱に巻き込まれるのを警戒し、関係を交易のみに限定し、孤立主義を採ることになります。

894年、菅原道真の建言により、遣唐使の廃止を決め、それが実行されました。

唐帝国は衰亡する一途であり、莫大な費用を投じて使者を送っても意味がないという判断でした。 

このことにより、中国文化の流入が止まり、蓄積された唐文化の消化・吸収が進んで、日本固有の文化と融合し、「国風文化」が生まれることになります。

国風文化のもと、現代につながる数多くのモノや文化が生まれました。

たとえば、日本語を書き表すための文体や文字の工夫があげられます。

平仮名は、主に宮廷の女性が、書状や和歌のやり取りをするのに用いられました。

また、カタカナも、僧侶が漢字で書かれた経典を訓読するために考え出されました。

公的な政治の世界では、漢字・漢文が公用されていましたが、私的な日記などには、正式な漢文とは形式が異なる、日本的な漢文で書かれるようになります。

こうした工夫が進むなか、漢字主体では表現ができなかった日本人の活き活きとした感性が表現できるようになり、国文学が発達します。

この国文学中の白眉が、宮廷に出仕する女性たちによって著わされた女流文学です。

清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』、和泉式部の『和泉式部日記』、菅原孝標女の『更級日記』など、数多くの作品が生み出されました。

神仏習合により生み出された「権現」

宗教面では神仏習合が進みました。これは日本固有の神と、仏教の仏を融合させたものです。

この頃の仏教は世俗化がかなり進んでおり、仏法による国家鎮護と高邁な哲理の追求より、寺院の拡大に関心が集まっていました。

このため唱えられたのが「本地垂迹説」です。これは「日本の神は仏が姿を変えて現れた」とする説です。

もっともよく知られているのが、「天照大御神は大日如来の化身」とするものです。

天照大御神は、日本神話に登場する太陽女神であり、大日如来は密教(インドで生まれた呪術性の濃い仏教)の仏です。

この神仏習合の過程で生まれたのが、「権現」という語です。

権は「仮」の意。仏が神という「権」の姿でこの世に「現」れたから権現なのです。

時代が下ると、熊野権現、愛宕権現、白山権現などさまざまな権現が生まれ、多くの信仰者を集めました。

寺院の参拝も、この権現隆盛のなかで一般化したのです。

神仏習合は、明治政府の宗教政策で解消されていますが、権現の呼称は現在も残っています。

ほかにもさまざまな分野で日本化が進みました。現在の文化のルーツをたどると、等しく唐帝国との断絶にたどりつくのです。

蔵王権現(ギメ東洋美術館)

蔵王権現は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊

アレクサンドロス3世が東方に伝えた文化が日本に伝わる

7世紀の日本に影響を与えたもの

7世紀後半から8世紀初頭にかけて、日本で栄えた文化を「飛鳥・白鳳文化」と呼んでいます。

飛鳥文化は推古天皇の御代を中心に、白鳳文化は天智・天武・持統・文武天皇の御代に花開きました。

この2つの文化に大陸文化の影響が見て取れることは、多くの専門家が指摘するところで、遠いギリシア世界の影響まであるのです。

古代日本とユーラシア大陸をつなげたのは、不世出の英雄アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)でした。

アレクサンドロス3世

アレクサンドロス3世が伝えたユーラシア大陸の文化

紀元前4世紀後半、バルカン半島を統べるアレクサンドロス3世が東方への遠征を行い、インダス川流域から西の世界を支配下に収めます。

アレクサンドロス3世は直後に亡くなり、帝国は崩壊してしまいますが、この遠征によってギリシア文化は、ギリシア人の東方移住にあわせて、東方世界へと拡散していきます。

この文化はシルクロードを通ってゆっくりと東漸し、中国大陸を経て日本にも到達しました。

これにより、7世紀前半から8世紀初頭にかけて花開いた飛鳥・白鳳の文化に大陸文化の影響が現れるのです。

まず、エンタシスがあります。

これはギリシア特有の柱の形式であり、柱の中央部にふくらみを持たせたものです。

ギリシアの首都アテネに建つパルテノン神殿のエンタシスは、その代表的なものです。

日本では法隆寺の金堂・歩廊・中門、唐招提寺の金堂の柱で、エンタシスを確認することができます。

アテネの世界遺産パルテノン神殿

法隆寺の柱

仏像の微笑に見られる西方の文化

アルカイックスマイルも同様です。

「アルカイックスマイル」の代表といわれるクーロス像

飛鳥寺の釈迦如来像

古代ギリシアのアルカイク美術の彫刻に見られる人物の表情であり、「古拙の微笑」と言われています。

結んだ唇の両端、つまり、口角がやや上に引き上げられ、微笑んでいるように見えるものです。

飛鳥時代の彫刻では、飛鳥寺の釈迦如来像、法隆寺金堂の釈迦三尊像、法隆寺夢殿の救世観音像などで、アルカイックスマイルを確認することができます。

ペルシア文化やインド文化も流入する

ギリシア文化だけではありません。

ササン朝ペルシアや、インド北部の文化も、古代日本に流入しました。

たとえば、「獅子狩文様」があります。  これは騎馬の人物が振り向きざま、獅子を弓矢で射る図柄です。

この射かたはパルティアン・ショットといい、ユーラシア大陸中央部にいた遊牧騎馬民族特有のものです。

獅子狩文様

法隆寺金堂壁画は、中国甘粛省の敦煌石窟壁画や、インドのアジャンター石窟群の壁画の様式を継承した傑作として有名です。

なお、法隆寺金堂壁画のオリジナルは1949年の火災で焼失してしまいましたが、正確な模写と複写によって復元作業がなされ、現在では現存時と同じものを、法隆寺金堂内部で見ることができます。

敦煌莫高窟

白村江での敗戦が日本を律令国家に変えた

激動の東アジア情勢と唐の登場

東アジアは6世紀末から激動期に入ります。

先ず、581年、分裂していた中国を統一し、隋王朝が誕生します。しかし、わずか37年で滅んでしまいます。

代わって中国大陸を統一したのは唐王朝でした。

唐は律令(法律)を整備して国家体制の基礎を確立するいっぽう、対外的にも積極策をとり、世界的大帝国へと膨張していきます。

新たなスーパーパワーの出現に朝鮮半島は激震しました。

高句麗では淵蓋蘇文(えんがいそぶん)が対唐穏健派を排除し、対外強硬策を採ります。

同半島の百済では、義慈王が反対派を多数追放して権力を強化し、積極策に打って出ました。

クーデターによる蘇我氏の打倒と法の制定

こうしたなかヤマト政権は、遣唐使を派遣して唐との外交に積極的に取り組むも、内政面では最大実力者・蘇我氏の専横に頭を抱えていました。

蘇我氏の専横に関しては「帝位を狙う野心があった」云々と解説されることもありますが、これは後世に生きる人の理屈です。

当時、「帝位を狙ってはいけない」という規定はなかったのです。

じつは古代日本は長いこと、地縁・血縁の結びつきで社会が成り立っており、法律は未制定でした。

かつて推古女帝の甥・厩戸聡耳皇子(聖徳太子)が「憲法十七条」を制定したことがありましたが、これは役人の道徳に近いもので、罰則規定はなかったのです。

法律がないのは、船に動力や舵がついていないのと同じこと。

先行き不透明なことこのうえありません。

ましてや、東アジアは激動期。法が未制定で国家の方針が定まらないことには、国の存亡に関わってきます。

しかし、法を定めるには地縁・血縁で最大勢力となった蘇我氏が、抵抗勢力となることは確実でした。

645年6月12日早朝、飛鳥・板蓋宮で蘇我入鹿が暗殺され、蘇我蝦夷が自害へと追い込まれます。

この「乙巳の変」の首謀者は、中大兄皇子と中臣鎌足でした。

古代日本を法治国家とするため、蘇我氏を排除したのです。

このクーデターを受けて皇極女帝は退位し、女帝の実弟・軽皇子が皇位を継承して孝徳天皇が誕生します。

政府内人事も一新され、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣として政権に参画し、大化の改新を断行します。

これにより「公地公民」「元号制定」「班田収授法」などの諸制度が定められました。

この改新は古代日本を東アジアの強国とし、激動の東アジア情勢に即応できる国とするためのものでした。

同時にヤマト政権が有力豪族連合を脱し、中央集権体制へと歩みだした第一歩となったのです。

乙巳の変で蘇我入鹿が首をはねられるシーンを描いた絵画(『多武峯縁起絵巻』)

白村江での手痛い敗北

しかし、一朝一夕で国が変わるはずもありません。ヤマト政権はこのことを、663年の白村江での大敗北で思い知らされます。

この戦いは、百済の救援要請を受け、軍を朝鮮半島に派遣し、唐・新羅連合軍と激突して起こりました。

ここでヤマト政権軍は完膚なきまでの敗北を喫するのです。

勝敗の決め手は軍勢の形式でした。

唐帝国軍は国によって徴兵され、軍事訓練を受けた兵士で構成されています。

いっぽうの日本国軍将兵は、これといった基準もないまま、各地の豪族が集めた混合部隊編成だったのです。

プロの軍団と寄せ集め集団。これでは勝負になりません。

国の行政・業務などすべてが、法律に則って行われる律令体制の唐帝国と、法や制度の制定が始まったばかりの古代日本の差が出たのです。

敗戦を知った中大兄皇子は、唐の侵攻に備えて国の守りを固めるいっぽう、都を飛鳥の地から内陸部の近江大津宮に遷都し、668年に正式に即位して天智天皇となりました。

初代天皇・神武天皇から数えて38代目の天皇です。

天智天皇(中大兄皇子)

律令の制定に邁進していた天智天皇は即位から2年後、「庚午年籍」を作成します。

これは日本初の全国的戸籍であり、徴兵と徴税をスムーズに行うために作られました。

戸籍成立の翌年、天智天皇は没したため、実子の弘文天皇を経て、実弟の大海人皇子が天武天皇として即位します。

天武→持統→文武と代を重ねるなかで律令制度制定が精力的に進められ、奈良時代の初期に「大宝律令」、のちに「養老律令」が制定されるのです。

ところで、日本は現在までに3回の敗戦を経験しています。

1回目がこの白村江の敗戦で、2回目は幕末維新期です。

幕末維新期については、武力を背景とした恫喝外交で開国に追い込まれたのは、敗戦に等しい出来事です。

3回目は、太平洋戦争での敗北です。

興味深いことに日本は敗戦のたびに、戦勝国の政治・制度を採り入れて復興してきました。

太平洋戦争後には自由と資本主義を、明治維新後には欧米の政治・制度を、白村江の敗戦のあとは、唐帝国の律令国家体制を採り入れたのです。

その意味において白村江の敗戦は、幕末維新期の開国、太平洋戦争での敗北に等しい出来事だったと言えるでしょう。