絶対王政を打倒したフランス革命の意義とは何か

たった2代の間で、天国から地獄へ

「フランス革命」とは、フランスのルイ16世の王政が民衆によって打倒され、王のいない共和政に移行する一連の事件を指す言葉です。

ひと言で「王政が民衆によって打倒され」というものの、ルイ16世の少し前の王は「太陽王」のルイ14世です。

かたや絶対君主として権力の絶頂にあったルイ14世と、かたやフランスの民衆の前に引きずりだされ、ギロチンによる公開処刑にあったルイ16世。

たった2代の間に、フランスの王朝は、まさに天地がひっくり返る激変に襲われたということです。

財政難が革命の引き金となる

絶対王政の時代、たび重なる対外戦争や宮廷の浪費はフランスの財政を大きく圧迫していました。ルイ16世自身もアメリカ独立戦争へのアメリカ出兵などを行い、財政は底を尽きかけていました。

こうした財政難を解決するため、民衆へ増税をしようと考えるのですが、平民に対する重税は限界に達し、もうこれ以上絞れないというところまで追い込まれます。

新たな財源は、それまで「特権階級」として税を免除してきた聖職者や貴族階級に税をかけるしかありません。

当然、聖職者と貴族は反発します。国王に文句が言いたい両身分は、ルイ13世以来停止されていた三部会の開催を要求。

ルイ16世は受け入れて三部会の開催を決めます。

そうすると今度は、三部会で今まで重税をかけられてきた平民(第三身分)と、税が免除されていた聖職者(第一身分)と貴族(第二身分)との対立という構図になります。

第三身分の離脱

三部会での議論は、もちろん並行線です。

第一身分や第二身分である聖職者や貴族は税を払いたくないし、第一身分や第二身分に税を払わせたいという第三身分の平民の間で膠着状態になり、話し合いは財政問題よりも「どのように議決するか?」という決め方をめぐって揉めに揉めました。 

ここで第三身分が動きます。三部会を離脱して、新たに自分たちを「国民議会」となのろうとしたのです。

第三身分の動きは武力を伴った「革命」となった

ルイ16世は第三身分の勝手な動きに対し、武力で弾圧しました(ルイ16世自身は「お人よし」な面があり、国民議会を承認するが、王妃マリ=アントワネットや貴族の強硬派は強力に弾圧を進めた)。

これに対し、民衆は実力行使に出ます。

1789年7月、不満を爆発させた民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が勃発。8月、国民議会は人権宣言を採択し、人間の自由と平等などを宣言しました。

オーストリアやイギリスなど、欧州のほかの君主国は革命の波及を警戒して干渉を始め、フランスへと侵攻します。

国家の危機は民衆の猛烈なエネルギーを呼び起こし、革命はかえって先鋭化しました。

バスティーユ牢獄では大砲による砲撃や激しい銃撃戦が繰り広げられ、多くの死傷者が出た。

多くの血を流した革命の帰結

1793年には、ルイ16世とその妻マリ=アントワネットが処刑されました。

フランスで王が民衆の前に引き出され、公開処刑にあったことは周囲の国々の王にとって衝撃的な出来事でした。

そこで、各国ではフランスの共和政を早めに潰し、自らの王政を守ろうとします。

イギリスでは、首相ピットの提唱によって第一回対仏大同盟が結ばれ、フランスは全ヨーロッパを敵に回すことになりました。

こうした危機を乗り切るため、フランス国内では強力なリーダーシップを持つ人物に権力を集中させようという動きが起こります。

そして、強いリーダーシップをもつロベスピエールを中心とした、最も急進的なジャコバン派がジロンド派を追放し、政権を握りました。

農民や下層市民を支持基盤とするジャコバン派は、強大な権限を持つ政府のもと、農奴を解放し、パリの貧しい市民のために最高価格令を定めて食料の価格高騰をおさえました。さらに、それらの政策とひきかえに徴兵制を実施するなどの改革を次々と実施します。

徴兵制の効果は上がり、対仏大同盟の危機は少しずつ去りますが、ロベスピエールはその後も独裁を強め、反対派だけでなく、革命の同志も次々と処刑していき、「恐怖政治」の名をほしいままにしていきます。

最高価格令によって自由な経済活動ができなくなったパリ市民や農民たちの間で次第にこの独裁への不満が高まっていき、ロベスピエールは逮捕され、処刑されてしまいます(テルミドールのクーデタ)。

次に成立した総裁政府は5人の総裁の合意により運営される政府でした。

独裁の心配はないものの、権力の分散に重点が置かれたため、リーダーシップに欠け政権は弱体化してしまいました。

ナポレオンのクーデターが新たな局面に導く

独裁を行ったロベスピエールの次は、リーダーシップに欠ける総裁政府となり、フランス革命は迷走を始めます。

この混乱を見て周辺諸国も第二回対仏大同盟を結成し、フランス革命潰しを図ります。

再び全ヨーロッパを敵に回してしまうフランスですが、弱体な総裁政府ではまったく対応できそうにありません。

そこで、民衆の期待を集めた人物が、イタリア遠征やエジプト遠征で名声を上げていたナポレオンです。

オーストリア軍やイギリス軍を次々に撃破する姿を見て、人々は熱狂し、フランスの危機をナポレオンに託そうとするのです。

総裁政府の5人のうちのひとり、シェイエスがナポレオンに軍事クーデタを勧めます。

シェイエスは、当初、ナポレオンをクーデターに利用するだけしておいて、ナポレオンをおさえて自ら権力をふるう意思があったものの、ナポレオンのほうが一枚上手でした。

クーデタと同時に先手を打って自ら第一統領を名乗り、統領政府を樹立。フランスの実権を握ることに成功します。

ナポレオンは第二回対仏大同盟を打ち破ると、民法典としてのナポレオン法典を発布します。

そして、民衆の権利を守って国民の人気を獲得すると、国民投票により皇帝になります。

フランス革命は、当初の理想を大きく逸脱し、多くの血を流した。しかし、革命で生み出された自由や平等といった理念は、ナポレオン戦争を経て欧州各地に広まることになる。

ピューリタン革命と名誉革命はなぜイギリスで起こったのか 

国王の専制への不満が爆発

生涯未婚を通したため「処女王」と呼ばれたエリザベス1世が死去すると、スコットランド王がイギリス王を兼ねるようになり、1603年にステュアート朝が始まりました。

ステュアート朝のジェームズ1世は専制政治を行い、イギリス国教会の立場からピューリタン(清教徒、カルヴァン派の一派)を排除したため、議会との対立が深かった。

その結果、ピューリタンを中心とする議会派が国王に抵抗したのがピューリタン革命の始まりです。

1642年から国内は内乱状態になったが、クロムウェルの指導により議会派が勝利。

議会派の中からクロムウェルが登場し、ジェームズ1世やチャールズ1世に禁止され、不満をもっていたカルヴァン派(ピューリタン)のリーダーになると、鉄騎隊を編成し、王党派たちを打ち破ってチャールズ1世を降伏させます。

国王チャールズ1世は処刑されました。

名誉革命で議会派が勝利する

その後のクロムウェルは、議会派内で反対派を追放し独裁権を確立。

厳格な政策は民衆の反感を買い、クロムウェルの死後に王政は復古しました。しかし、専制的な国王と議会の対立は続きます。

王が議会を無視して独裁を行い、共和政になっても独裁者が登場するという悪循環が続き、イギリス議会も考えました。

独裁を防ぐために「海外から王を招き、議会を尊重するという条件で王位についてもらおう」

1688年、議会は国王ジェームズ2世の追放を決議し、メアリ2世とウィリアム3世の夫妻を共同統治王として迎えました。

両王は議会の提出した「権利の宣言」を認め、「権利の章典」として発布しました。

ジェームズ2世はアイルランドで反撃に転じたが、流血の戦いの結果、ウィリアム3世軍が勝利しました。

この「名誉革命」によって、議会が政治を主導するイギリスの立憲王政が確立しました。

なぜ産業革命はイギリスから始まったのか

産業革命を可能にした条件

18世紀後半より、イギリスで新たな機械や動力が発明され、産業のあり方が大きく変わりました。

この変化は技術革新と交通革命にもつながり、社会や生活のあり様にも影響して産業と呼ばれています。

アジアやアフリカに広大な植民地を築いたイギリスは貿易で巨額の富を得て、産業革命の資金を備えていました。

また、アメリカ大陸から綿花を輸入し、アフリカに綿織物を輸出するというように、原料供給元と製品の輸出先を同時に確保していました。

そのため、港湾都市リヴァプールに近いマンチェスターに工場がつくられ、綿織物工業が発達しました。

工場での労働力も確保される

さらに、イギリスでは人口急増に対処するために新農法が導入され、食料の増加を図る産業革命が起こりました。

産業革命では、ワットが蒸気力による上下運動を回転運動に転化することに成功。 これにより、蒸気機関が完成しました。

そのほかにも、1779年にはクロンプトンがミュール紡績機を、そして1785年にはカートライトが力織機(自動で織物を織る機械)を発明するなど生産力が向上しました。

19世紀には蒸気船や蒸気機関車に応用され、人々の交通手段や運輸の方法が大きく変化しました(交通革命)。

労働者を保護するために生まれた「工場法」

技術革新は、良質な製品の大量生産を可能にしました。多数の工場の立ち並ぶ工業都市が生まれ、都市の人口は急増します。

一方、工場労働者は劣悪な環境下に置かれるようになりました。

機械による生産では熟練を必要としないため、成人男性だけでなく女性や子供なども低賃金で長時間働かされました。

1833年、ロバート=オーウェンらの尽力によって工場法が成立、児童の労働禁止などが定められました。

その後には女性や年少者を保護する規定が加えられ、世界の労働者保護の先駆けとなりました。

なぜ太陽の沈まぬ国スペインはイギリスに敗れて没落したのか

新大陸の銀に頼ったスペイン

16世紀に覇権を握ったのは、大航海時代を主導したスペインだった。

最盛期の王フェリペ2世は、1571年のレパント海戦でオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取する。

1580年には王家が断絶したポルトガルを併合。

広大な植民地を手中にし、「太陽の沈まぬ国」となった。

アメリカ大陸からの銀を背景に、スペインは繁栄を極めた。

しかし、16世紀後半、新教と旧教の宗派対立が強まるなかで始まったオランダ独立戦争での戦費増大と新大陸での銀産出の減少が原因で、スペインは没落に向かった。

スペイン王 フェリペ2世(1527〜1598)
イギリス女王 エリザベス1世(1533〜1603)

宗教改革による対立が背景に

中世のイギリスは、フランスとの百年戦争、内乱であるバラ戦争と戦乱が続き、疲弊した封建貴族が没落。

代わって国王の権力が強まる。

1534年ヘンリ8世は自らの離婚問題でローマ教皇と対立し、イギリス国教会をつくってカトリックと断絶した。

イギリスでの宗教改革により敬虔なカトリック王国スペインとの関係は悪化した。

女王エリザベス1世のもと、毛織物工業などで経済が発展したイギリスは、プロテスタントの立場からオランダ独立を支援。

1588年にはアルマダ海戦でスペインの無敵艦隊を破り、覇権交代の契機となった。

日本から旅立った慶長遣欧使節

1613年、仙台藩主の伊達政宗は家臣の支倉常長らをヨーロッパに派遣した。

その目的はスペイン領だったメキシコとの通商を求めることにあった。

使節はメキシコを経てスペイン・ローマに至り、スペイン王フェリペ3世やローマ教皇パウロ5世に謁見する。

しかし、江戸幕府の禁教令の情報がヨーロッパに達していたこともあり、目的は果たせなかった。

交渉のために洗礼まで受けた常長だったが、帰国時には禁教令が敷かれており、不遇の晩年を過ごした。

中国から伝わった天然痘対策を進化させた日本の医師

恐ろしい伝染病「天然痘」

中国武漢発のウイルス蔓延を見ても分かるように、伝染病に国境はありません。

日本で「疱瘡(ほうそう)」と呼ばれていた天然痘は、長いあいだ人類を苦しめてきました。

天然痘ウイルスが体内に入りこむと、40度前後の高熱が続き、発疹発生→水疱→膿疱と推移し、膿疱が乾いた頃回復します。  

老若男女を問わず、虚弱体質の人は命を落としました。ただ、運よく回復しても、かさぶた痕で苦しみました。

戦国武将の伊達政宗が、幼少期に天然痘で右目を失い、自身の容貌に深く悩んだのは良く知られています。

江戸時代から始まっていた種痘

古代より日本でも、周期的に天然痘が流行しました。

科学が未発達の時代、有効な治療法などあるはずなく、多くの人たちが命を落としました。

天然痘対策としての「種痘」は江戸時代の中ごろ、中国から伝えられました。

これは人間の天然痘の膿やかさぶたを健康な人のからだに移植し、軽い天然痘を起こさせる方法です。

一度でも天然痘にかかると、2度とかからなくなることを経験的に知った上での対策でした。

しかし、真正の天然痘を発生させてしまう危険もあるため、この「人痘法」はなかなか普及しませんでした。

江戸時代後期に入ると、イギリスのエドワード・ジェンナーが開発した、「牛痘法」が伝来します。

牛痘では重症化することがないため、人痘法よりはるかに安全でした。

この牛痘法の普及に尽力したのが、佐賀藩の医師・楢林宗建(ならばやし そうけん)でした。

オランダ商館医師シーボルトのもとで、牛痘法の実演を見た宗建は、牛の痘痂(かさぶた)をオランダ商館経由で入手します。

牛痘による種痘はまず佐賀で行われ、次いで佐賀藩江戸藩邸で行われました。

佐賀藩での成功を受けて、牛痘法は急速に広まっていき、各地に除痘館、有信堂などの種痘専用の施設が開設されました。

種痘所は、設立から2年後、幕府直営となり「西洋医学所」と名前を改めました。

これが東京大学医学部の前身となります。

牛の姿が描かれた「種痘之図」

天然痘の根絶が宣言される

この迅速な対応と協力体制の構築からは、医師たちの使命感がうかがえます。

この強力なスクラムによって、種痘は次第に普及し、天然痘の罹患率は低下していきました。

日本での患者発生は1955年が最後です。

1980年、WHO(世界保健機関)が天然痘の根絶を宣言しました。

牛痘法が発明されて以来、長期間にわたって種痘が行われたことで、この戦いは終結しました。

日本な江戸時代からこの戦いに参戦し、人類の勝利に貢献したのです。

ナポレオンが日本の蘭学を発展させた

オランダを介して伝わる西洋の知

江戸時代の日本は、ヨーロッパ諸国中で唯一通商関係を結んでいるオランダから西洋の情報を得ていました。

情報をもたらしていたのは、長崎の出島にあるオランダ商館長です。

西洋の先進的学問や文化はオランダ語を介して伝えられたため、西洋の知識は「蘭学」と呼ばれていました。

蘭学を学ぶにはオランダ語を習得しなければなりません。

日本人のオランダ語学習は江戸時代中頃、8代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として、医官・野呂元丈と儒学者・青木昆陽に学ばせたのが最初です。 

ナポレオンの登場によるオランダの窮地

1772年、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周といった医師・蘭学者の4人が、ドイツの解剖書をオランダ語に訳した『ターヘル・アナトミア』の邦訳作業を開始しました。

そして悪戦苦闘の1年半の末に、1774年に『解体新書』として刊行します。

『解体新書』の表紙

これにより蘭学の基礎は築かれましたが、オランダ語修得に必要な辞書が不備だったため、蘭学はまだ一部の人の学問でした。

ところが、『解体新書』刊行から15年後の1789年、日本の蘭学発展を促す人物がヨーロッパに登場します。ナポレオン=ボナパルトです。

フランス革命にともなう動乱のなかで頭角を現したこの風雲児は、優れた軍事的才能を武器に地位を確立。

1799年に政府を樹立し、1804年にはフランス皇帝に即位します。

このフランスの動きに危機感を募らせたヨーロッパ諸国が1805年、3度目となる対仏大同盟を結成すると、ナポレオンは大陸制覇に向けた動きを加速させ、周辺諸国と軍事的衝突を繰り返します。  

この動乱の中でオランダはフランスに制圧され、独立を失うのです。

これにより、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフは帰国できず、立ち往生する事態になってしまいました。

『ドゥーフ・ハルマ』と蘭学の発展

ドゥーフは156代目のオランダ商館長であり、1799年から1817年まで日本に滞在しました。

1年交代が原則のなか、17年ものあいだ日本に留まり続けたのは、ヨーロッパの動乱によりオランダ船の来航が途絶えたことによります。

1815年、ナポレオン没落を受けて開かれたウィーン会議でオランダは主権を回復。

この2年後にドゥーフは帰国します。

17年という長期滞在中、ドゥーフは文化交流の一環として、日本人オランダ通詞11人の協力のもと蘭和辞書の編纂を行いました。

編纂はドゥーフ帰国後も日本人通詞達によって続けられ1833年に完成します。

辞書は『ドゥーフ・ハルマ(通布字典)』『波留麻和解』などと呼ばれ、オランダ語と蘭学の習得に不可欠の書物となりました。

蘭学者緒方洪庵の適塾で学生たちが同書を奪い合うようにして学問に励んだのはよく知られています。

この『ドゥーフ・ハルマ』により蘭学のすそ野は爆発的に拡大するのです。

幕末維新の激動期、日本が四苦八苦しつつも西洋と対峙できたのは、蘭学によって多くの若者が西洋の知性に触れていたためです。

この知性の習得に大きな役割を果たしたのが『ドゥーフ・ハルマ』であり、ナポレオンがドゥーフを日本に釘づけしたからこそ成立したのです。

絵画でつながっていた江戸期の日本とヨーロッパ

葛飾北斎「神奈川沖浪裏」(1831〜33年)

浮世絵に風景画が登場

江戸時代の半ば頃から、風俗画に新しい流れが起こります。

そう、浮世絵です。

この新しい絵画は、町人文化が成熟するなかで、「つらい世だからこそ、浮き浮きと楽しもう」との意識のもと生まれました。

このため人気役者、美女、芝居小屋、遊里など、享楽生に富んだ情報を発信して大人気となりました。

さらに、人物などの背景にも関心が向けられるようになり、浮世絵のなかに「風景画」という新ジャンルが登場し、葛飾北斎・歌川広重によって確立されるのです。

浮世絵で多用される深いブルー

意表をついた構図、ダイナミックな造形美、超リアリティ、独特な遠近感の表現が葛飾北斎の持ち味です。

代表作『富嶽三十六景』中の「神奈川沖浪裏」には、そのすべてを見ることができます。

天をつかんざかりにそそり立つ波、木っ端のように翻弄される船と人、波間から見える富士山…。一度見たら忘れられないインパクトがあります。

『東海道五十三次』をはじめとする広重の絵には、北斎のような大胆さはありません。

このことについて広重は、「私は自分の目に映った風景を再現するだけ」と語っています。

もちろん、単に見たままを描くのではありません。絵画を通して、その向こうにある真実を伝えるのです。現代の職業に当てはめれば、報道写真家となるでしょうか。

ところで、浮世絵には、ひときわ目を引く沈み込むような深い青色が多用されています。これは「北斎ブルー」または「広重ブルー」と呼ばれています。

江戸時代に「ベロ」「ベロリン」と呼ばれた絵具で、本来の名を「プルシアン・ブルー」という合成化学顔料です。

1700年代の初頭、プロイセン王国(現在のドイツ)のベルリンで製法が発見されました。

浮世絵の青色はベロ流通前、植物を原料とした絵具を使っていました。

しかし、出せるのは爽やかな青色のみでした。それがベロにより、深く沈み込む、奥行きのある青色が出せるようになったのです。

この新絵具の特徴を最大限に活かした最初の大作か、葛飾北斎の『富嶽三十六景』でした。

ヨーロッパで発明された絵具により、浮世絵に新しい潮流が生まれたのです。

歌川広重「名所江戸百景・猿わか町よるの景」(1856年)
モネ「オンフルールのバヴォール街」(1864年)

日本の浮世絵がヨーロッパの絵画を変えた

日本の美術は開国以前から、ヨーロッパに紹介されており、ジャポニズムという日本美術ブームを巻き起こしていました。

なかでも浮世絵は驚きをもって迎えられ、葛飾北斎と歌川広重の絵は、ともに高い評価を受けました。

ヨーロッパの絵画界では当時、伝統的なサロン絵画が主流でした。

しかし、表現技法などはすべて出尽くしており、それ以上の発展は期待できない状態でした。

そんな最中にジャポニズム旋風が起こるのです。

フィンセント・ファン・ゴッホ、クロード・モネ、ポール・ゴーギャンといった画家たちは、絵画界に新しい流れを起こすべく、浮世絵を収集し、表現技法などを研究しました。

結果、誕生したのが印象派絵画です。   ヨーロッパ発の絵具が浮世絵を変え、浮世絵がヨーロッパの絵画を変えたのです。

モネ「ラ・ジャポネーズ」(1875年)
ゴッホ「タンギー爺さん」(1887年頃)。背後に浮世絵が描きこまれている。

イモがつなぐ東西の名君

享保の改革を推進した徳川吉宗

江戸幕府の第8代将軍は、徳川吉宗です。

紀州藩主を経て将軍職に就いた吉宗は1716年から1745年にかけて幕政改革を行います。改革に着手したときの年号を取って、歴史上「享保の改革」と呼ばれるものです。

吉宗は華美な風潮を戒め、質素倹約を奨励するとともに、新田開発や貨幣の改鋳によって幕府財政の健全化をはかりました。

また、市場経済の活性化や裁判の公正化徹底などを行い、目安箱で庶民の声を拾いあげました。

享保の改革のひとつに禁書令の緩和があります。

それまで幕府はキリスト教思想の流入を警戒し科学技術関連を含む一切の漢訳洋書の輸入を禁止していました。

しかし、西洋天文暦学による改暦を望む吉宗は、キリスト教と無関係な漢訳洋書の輸入を解禁したのです。

これにより西洋の先進的科学が日本にも伝来し、ケプラーの第3法則と同等の発見をしたとされる麻田剛立など優れた科学者が民間から生まれました。

幕末維新期に日本が四苦八苦しながらも欧米世界と対応できたのは、漢訳洋書の輸入解禁により日本にも西洋と同等の“知”が蓄えられていたからにほかなりません。

吉宗が改革の時点で近い将来に起こる西洋諸国との接触を念頭に置いていたかは不明ですが、先例にとらわれない改革に踏みきった点において紛れもなく名君といえます。

徳川吉宗

啓蒙思想を好んだプロイセンの名君

吉宗が将軍職にあった時期、ヨーロッパでも名君が誕生しました。

プロイセン王国のフリードリヒ2世です。

「大王」と称せられたこの君主は理性を重んじる啓蒙思想に傾倒し、「君主は国家の第一の下僕である」と称し、国民の福祉の増進につとめ、啓蒙専制君主のひとりとなりました。

このいっぽうで軍備強化や産業の育成にもつとめ、プロイセン王国をヨーロッパの強国に押し上げています。

フリードリヒ2世

東西の人々を救ったイモ

ところで、この東西両名君にはある共通点があります。それは「イモ」です。

吉宗が将軍に就任したのは、マウンダー極小期と呼ばれる寒冷期が終わった直後で気候はまだ安定していませんでした。

吉宗はここにおいて、蘭学者の青木昆陽にサツマイモ栽培を研究させます。

これによりサツマイモは関東でも栽培が可能になり数々の名産地が生まれました。

埼玉県の川越はそのひとつです。川越産のものは甘みが際立っていたことから、「栗よりうまい十三里」といわれました。十三里とは川越から江戸までの距離です。

ヨーロッパではジャガイモが栽培されました。

緯度の高いヨーロッパでは寒冷化による小麦減産で農業革命が必要となり、南アメリカ大陸からもたらされ寒冷な気候でも栽培可能なジャガイモが着目されたのです。

もちろん、すんなりと移行したわけではありません。

新しい作物を栽培することに嫌悪の念を抱く農民も多くいました。

これに対してフリードリヒ2世は強制栽培の勅命を出してジャガイモを増産します。

これにより今日に至るまで、ジャガイモはドイツ料理の主流となっているのです。

東西の名君が同時期に揃って「イモ」の普及に関わっている点、なんとも言えない歴史の面白味を感じます。

「忠臣蔵」は清の海外貿易と大寒波に助けられて成功した

「仮名手本忠臣蔵 夜討人数ノ内 堀辺弥津兵衛 堀辺弥次兵衛肖像」(歌川国貞画)

赤穂浪士による吉良上野介の殺害

江戸時代の元禄期の終わり頃、大石内蔵助を含む47人の赤穂浪士が、吉良上野介(きらこうずけのすけ)を殺害する事件が起こります。

ことの発端は1701年、大石たちの主人・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城内で吉良上野介に斬りかかり、切腹させられた件にありました。

江戸城内での刃傷は厳禁です。浅野に対する厳罰は当然のことでした。

しかし、当時浅野に仕えていた大石たちはその裁定を不服とし、「亡き殿のご無念を晴らすのが家臣のつとめ」として、主君の死の翌年、吉良上野介を討ち取ったのです。

日本の金銀の流出と資金不足

1701年当時、浅野は江戸城で朝廷からの使者を接待する役にありました。

この指導に当たったのが吉良だったのですが、指導をめぐってふたりのあいだが険悪になった結果、浅野は刃傷に及んだのです。

浅野は刃傷事件の18年前も、吉良の指導で同役をつとめあげていました。

18年前の1度目はうまくいって、1701年の2度目はうまくいかなかったのはなぜでしょうか?

じつは1度目と2度目のあいだに、大きな変化がふたつあったのです。

ひとつは中国大陸の清帝国が海外貿易を自由化したことです。

これにともなって日本は大量の金銀と引きかえに生糸や漢方薬の原料などを買いこみました。

そのため地金が不足し、金銀の量を減らし質を落とした貨幣が流通しました。   この結果、物価が高騰してしまうのです。

浅野が1度目の接待に用意した予算は400両。

当時はこれで足りましたが、2度目は倍以上の予算が必要となりました。しかし、浅野が用意したのは700両でした。

吉良としては幕府の名誉にかけて事を行いたいのに、予算不足では話になりません。

このことが要因になって、吉良の浅野に対する風あたりは厳しいものとなったのです。

「忠臣蔵十一段目夜討之図」(歌川国芳画)

寒波が幸いした吉良邸への討ち入り

物価が高騰する原因はほかにもありました。

冷夏続きによる「元禄飢饉」で日本は極端なモノ不足だったのです。

冷夏を引き起こしたのは、1645年〜1715年まで続いた「マウンダー極小期」と呼ばれる寒冷期でした。

寒さによってモノが不足している日本では、金銀などの豊富な地下資源を活用するしか道がありませんでした。

この結果、モノ不足の日本を金銀流出が直撃しハイパーインフレが起こり、浅野内匠頭刃傷、そして赤穂浪士討ち入りとなったのです。

もっとも、この寒さは赤穂浪士たちにとってプラスでした。

大石たちが吉良邸に討ち入ったのは、1702年12月15日(旧暦)午前3時頃です。

この日、江戸はこの冬いちばんの寒波に見舞われていました。

また、前日に降り積もった雪が江戸市中をベールのように覆っていました。

大した暖房器具もない時代、寒さ対策といえば、戸を固く閉ざしてすきま風が入るのを防ぎ、家のなかで眠ることくらいしかありません。

うっすらと積もった雪は話し声を吸収し、足音が立つのを防ぎます。

つまり、異常寒波は赤穂浪士47名の動きを隠してくれたのです。

清帝国の貿易自由化と地球の寒冷化は思わぬところで赤穂事件とつながっていたのです。

江戸時代初期の日本は「大進出時代」だった

大航海時代に入ったヨーロッパと日本

15世紀に入るとヨーロッパでは、東南アジアの香辛料や「黄金の国ジパング」伝説、さらに日本産の銀にひかれて、さかんに東洋世界への進出をはかります。

「大航海時代」の到来です。

しかし、大航海時代に入ったのはヨーロッパだけではありませんでした。同じ時期、日本も大航海時代へと入りました。

多くの日本人が商船に乗り込み、ルアン、トンキン、アンナン、カンボジア、シャムなど東南アジアの拠点港湾都市に向かいました。

日本から運ばれたのは銀、銅、鉄など地下資源です。とくに銀の量は膨大でした。

その意味で国力は豊かであり現代でいう産油国のような立場でした。

輸出品を運ぶ商船は、徳川幕府から海外渡航許可証ともいうべき「朱印状」を発給されていました。

このため東南アジアとの交易は「朱印船貿易」と呼ばれています。

中国産の生糸や絹織物,武具用の鮫皮や鹿皮,砂糖などが輸入され,日本からはおもに銀や硫黄,銅,刀などが輸出されました。

朱印船(荒木船)

東南アジアに築かれた日本人町

東南アジアの各所には多くの日本人町が形成されており、日本人たちは滞在先の国内でさまざまな仕事に従事しました。

彼らにとって傭兵はおもな仕事のひとつでした。

過去100年にわたる戦国時代で鍛えられた日本人たちは、軒並み戦闘のプロフェッショナルです。

彼らは持ち前の戦闘力を発揮し東南アジア史に大きな影響を与えました。

東南アジアでは、オランダやポルトガル、中国大陸の明国も貿易を行っていましたが日本の朱印船貿易はオランダや明国以上でポルトガルに拮抗するほどさかんな時期もありました。

1代前の豊臣関白政権時代もヨーロッパとの貿易や日本人の海外進出は盛んでしたが、江戸時代初期は前代をしのぐ大進出時代だったのです。

進出のきっかけを作ったオランダ

朱印船貿易のきっかけを作ったのは、ネーデルラント連邦共和国でした。

一般的にオランダという国名で知られるこの新国家は、オラニエ公ウィレムをリーダーとする独立運動により1581年スペインから独立して誕生します。

誕生後、商業振興に力を入れたため、首都のアムステルダムを中心にヨーロッパ随一の商業国家となりました。

イギリスが東インド会社を設立すると、オランダもアジアとの貿易拠点として東インド会社を設立しました。

ヨーロッパ勢力の貿易拠点がアジアに築かれたことで、東南アジアの海を舞台とした海洋交易は活況を呈するのです。

日本はこの経済圏に参入するため、積極的に東南アジアに進出したのです。

対外貿易に積極的だった家康

対外貿易にことさら力を入れたのは徳川家康でした。

オランダやイギリスとの貿易開始は家康在世中のことです。

家康はまた、途絶えていたスペインとの貿易を再開するため、1601年京都の商人田中勝介をノビスパン(スペイン領メキシコ)に派遣しました。

中世末期から近世初期にかけての日本は、ヨーロッパと並ぶ海洋交易国家となりました。

しかし、家康の死後この路線は変更され国を鎖(とざ)した「鎖国」にシフトしていきます。

結果、最終的には朝鮮国だけと正式な外交関係を持ち、オランダと通商関係のみ、中国大陸の明・清両王朝と民間交易のみ、薩摩藩を通じて琉球王国と、松野前を通じて蝦夷地(現在の北海道)と関係を持つだけになりました。

鎖国中にオランダとの貿易の拠点となった長崎の出島

日本が国を鎖した理由とは?

日本が外交を縮小したのには複数の理由がありました。

もっとも大きな理由はキリスト教を警戒したことです。

キリスト教は世俗権力よりも、神の教えを優先させます。徳川はこの点を危惧したのです。

スペインやポルトガルなど、ローマ・カトリックを奉ずる国がキリスト教を隠れ蓑にして、他国を植民地化していることも警戒の一因となりました。

宣教師が乗り込んで現地人をキリスト教徒とし世俗権力と争わせ、隙をついて本国の軍隊が現地に乗りこんでくるのです。

東南アジアなどは、この方法で軒並みヨーロッパ勢力の植民地にされました。

ちなみに、オランダはプロテスタントを奉じていました。

布教活動も一切しないと確約したため、通商に限って関係維持を許されたのです。

このほかにも幕府による貿易と外交の独占、西国大名の経済力増加に対する警戒などの理由により、日本の大航海時代は近世初期に終焉したのです。

異人行列がサポートした「パックス・トクガワーナ」

羽川藤永「朝鮮通信使来朝図」(1748年頃)

平和な江戸時代を支えたもの

1603年、徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。それから1867年の大政奉還まで、徳川幕府は264年存続しました。

初期は豊臣家との戦いである「大坂の陣」や、キリスト教徒が蜂起した「島原の乱」などがありましたが、戦乱といえばその程度で、あとは泰平続きでした。

この泰平の時代を近年では、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」という表現を借りて、「パックス・トクガワーナ(徳川の平和)」と表現することがあります。

さて、この「パックス・トクガワーナ(徳川の平和)」を実現させた徳川幕府ですが、軍事政権であったことは一目瞭然です。

軍事政権が政権を維持するためには、「武力」を示し続ける以外にありません。

しかし、無用な戦争はできません。そこで幕府が考えたのが「武威」でした。

武力の威光を周囲にアピールし続けることによって、「将軍はさすが!」と思わせ、国内体制を維持したのです。

このとき武威の発揚に大きな役割を果たしたのが行列でした。とくに「異人行列」は体制維持のシステムとして有効に作用しました。

異人行列とは文字通り、日本人以外の人々による行列であり、朝鮮通信使行列が代表格です。

朝鮮通信使とは将軍の代替わりごとに派遣された朝鮮国の友好使節です。

1607年〜1811年まで計12回派遣されました。

経費は全額日本が負担しました。    一行は総勢平均440名。このため巨額の資金が必要でした。

一行は海路と河川を使って京都に至ったあと行列を組んで練り歩きつつ江戸へと向かっていきました。

もの珍しさもあって行列が通る沿道には多くの見物客がつめかけました。

オランダ商館長の江戸参府

異人行列は巨額の費用を必要としましたが、朝鮮国からの使者を迎えることは、幕府にとって重要なことでした。

「徳川将軍の威光は海外にまで広まっている」と国内に喧伝できるからです。 

人々が見守るなか将軍のいる江戸へと向かう異国人の行列は徳川将軍家と幕府の威光を被支配者層に実感させるのに抜群の演出です。

異人行列にはこのほかに、琉球王国使節団、オランダ商館一行がありました。

このうちオランダ商館一行は長崎出島にあるオランダ商館長(甲比丹)の江戸参府です。

3代将軍・家光の時代から毎年の春に行われたため、春の年中行事と化しており行列見物は庶民の春の風物詩となっていました。

このオランダ商館長江戸参府について、江戸に出てきたばかりの若者松尾芭蕉が、「甲比丹も つくばはせけり 君が春」という一句を詠んでいます。

意味は「この春も、オランダ商館長一行がやってきて、将軍の前にひれ伏した。じつにめでたい春である」となります。

異人行列はまさに、「パックス・トクガワーナ」の維持にひと役買っていたのです。