哲学の誕生

BC5世紀前後、世界に数多くの考える人が登場してきました。そして今日まで残るようなさまざまな思考の原点が、草木が一斉に芽吹くように誕生しました。

この時代を、20世紀のドイツの哲学者カール・ヤスパース(1883〜1969)は「枢軸の時代」と呼びました。世界規模で“知の爆発”が生じました。

BC5世紀前後には、鉄器がほぼ世界中に普及していました。そこに地球の温暖化が始まります。鉄製の農機具と温暖な太陽の恵みを受けて、農作物の生産力が急上昇します。   その結果、余剰作物が大量に生産されて、豊かな人と貧しい人の格差が拡大しました。

財産にゆとりのできたお金持ちは、自分は働かず、使用人に農作業をやらせるようになります。

それと同時に、中国では“食客”と呼びましたが、お金持ちの家では、ある種の人々を何も仕事をさせず、食事を与えて遊ばせておくようになります。笛をたくみに吹く人や、星の動きに詳しい人、要するに現代の芸術家や学者のような人たちです。

社会全体が貧しければ、みんな農作業で手一杯です。歌う時間も夜空を見つめる余裕も生まれないし、人生について考えているひまもありません。生産力が向上し、有産階級が生まれたことで知識人や芸術家が登場してきたのです。そしてその過程で知の爆発が起こったのです。それはギリシャで始まり、ほぼ時を同じくしてインドや中国でも知が爆発しました。

哲学の祖タレスと自然哲学者が考えた「アルケー」とは

ギリシャでは、BC9世紀からBC7世紀にかけて、偉大な叙事詩人であったホメロスやヘシオドスが、ギリシャ神話を体系づけて『イリアス』や『オデュッセイア』、そして『神統記』を記しました。

それらの内容は、エーゲ文明の諸神話を融合させながら完成させたものです。こうしてギリシャ神話の世界が生まれました。

この時代の人々は、世界は神がつくったものだと固く信じていました。この時代を「ミュトスmythos(神話・伝説)の時代」と呼んでいます。

ミュトスの時代を経て、枢軸の時代に登場してきた学者たちは、まさか世界を神様がつくったはずはないだろうと考え始めます。

「何か世界の根源があるはずだ。それは何だろう」そのことをミュトスではなく、自分たちの論理で、すなわちロゴスlogos(言葉)で考え始めたのです。

そして、その「万物の根源」となるものをアルケーarcheと呼びました。ミュトスではなくロゴスによってアルケーを考えること。  そのことに最初に答えを出したといわれる哲学者がタレス(BC624頃〜BC546頃)です。

タレス(BC624頃-BC546頃)

タレスはエーゲ海の東海岸(現トルコ)、イオニア地方の都市ミレトスの出身です。そのために彼につながる初期の哲学者たちを、「イオニア派」と呼びます。

また自然を探求する自然科学の立場を取っていたので、後世になると自然哲学者たちとも呼ばれました。

タレスは、この世のアルケーは何であると考えたのでしょうか。答えは水です。    今日では人間の身体の約7割が水であることも、地球上の生命の根源が水であることも判明しています。

タレスはたいへん多才な人物でしたが、エピソードもたくさん残した魅力的な人物でもありました。

あるとき、学問をいくらやっても人生の役には立たないじゃないかと、笑われたことがありました。

すると天文学に通じていたタレスは、ある年、星座の運行がオリーブの豊作を告げていることを知ると、近在の村里からオリーブの実を搾って油を採る圧搾機を、オリーブの花が咲く前に、全部買い占めてしまったのです。

そしてオリーブの実が大豊作になったとき、みんながタレスに圧搾機を借りにきたために、彼は大儲けをしました。学問がお金儲けにも役立つことを、自ら証明したわけです。

「アルケーは水だ」というタレスの学説に刺激されて、実にさまざまなアルケー論が登場してきます。

タレスの次はヘラクレイトス(BC540頃ーBC480頃)です。彼は「万物は流転する」(パンタ・レイ)という言葉を残しています。

ヘラクレイトス

本人の言葉かどうかの確証はありませんが、プラトンがヘラクレイトスの言葉として書き残しています。

「アルケーは水だとか火だとか数字だとか言っているけれど、万物は流転するのだよ。どんどん変化していくんだよ」それがヘラクレイトスの思想でした。

もっともヘラクレイトスは、変化と闘争を万物の根源とみなし、その象徴を火としました。ここには近世になってドイツの哲学者、ヘーゲル(1770〜1831)が提唱した、正反合の弁証法の理論につながっていく発想がすでに芽生えています。

その後に、火・空気・水・土の4元素をアルケーとしたエンペドクレス(BC490頃〜BC430頃)が続きます。

彼はシチリア島のアクラガス(現在のアグリジェント)の出身です。医者であり詩人であり政治家でもありました。

エンペドクレス

彼は4元素説を唱えました。万物の根源、アルケーは火・空気・水・土の4つであるという説です。

この4つの元素を結合させるピリア(愛)があり、分離させるネイコス(憎)があって、その働きによって4元素は集合と離散を繰り返すという理論です。

エンペドクレスは、後に述べるピュタゴラス派の影響を受けています。

この4元素については、後にアリストテレスが取り上げます。ただアリストテレスは、元素として取り上げるというよりは、4つの材料として取り上げます。

万物の根源を追求した哲学者の最後にくるのは、デモクリトス(BC460頃〜BC370頃)です。

デモクリトス

年齢からいえば、デモクリトスはソクラテス(BC469頃〜BC399)よりも、10年近く後の人物です。

彼は自然科学や倫理学、さらには数学や今日でいうところの一般教養も深く学んでいました。そしてエジプト、ペルシャ、紅海地方、さらにはインドまで、学究の旅に出ました。膨大な著作があったという記録が残されています。

デモクリトスは、アルケーはアトム(原子)であると考えました。物質を細分化していくと、これ以上分割できない最小単位の粒子(アトム)となり、そのアトムが地球や惑星や太陽を構成していると考えました。

そしてアトムによって構成された物体と物体の間の空間は、空虚(ケノン)であると考えました。すなわち真空であると。

彼は天上界を地上の世界と区別せず、そこもまた通常の物質世界であると喝破したのです。

すでに現代の唯物論に近い発想が生まれていることに驚かされます。

もう2人、自然哲学者ではありませんが、後世に大きな影響を与えた偉大な哲学者を挙げておきます。

一人は、ピュタゴラス(BC582〜BC496)です。

ピュタゴラス

ピュタゴラスはタレスと同じくイオニア地方の出身ですが、青年期に学問のため、古代オリエントの地を遍歴しました。

諸国を遊学した後、故里に戻ってきますが、やがてイタリア半島の南部にあったギリシャの植民都市クロトーンに移住し、その地でピュタゴラス教団を創設します。クロトーンは現在のクロトーネです。

ピュタゴラスとその教団は、数学的な原理を基礎にして宇宙の原理を確立することを目指しました。

彼は万物の根源は数であると考えたのです。

ピュタゴラス教団の才能ある数学者たちは、数々の現代に残る数学の定理を発見しました。

またピュタゴラスは一絃琴を用いて、音程の法則を発見しています。そのことによって、音階を数字で表すことを可能にしました。

ところでピュタゴラス教団は、学問の集団であっただけではなく宗教的な集団でもあったようです。

彼自身が教祖のような地位に祭り上げられ、その神秘化な側面が強調されていました。

彼自身の著作物で現存するものはなく、弟子たちが書いたものや数学関係の書物の注釈によって、彼の学説や思索が残されています。

ピュタゴラスが宗教的に信じていたのは、インドの輪廻転生思想でした。その信仰のために彼は故郷のサモス島を離れて、イタリアに渡ったと考えられています。

哲学と宗教は、その誕生から発展の過程において、多くの類似点があるといわれているのですが、ピュタゴラス教団はその好例であるように思われます。

また、ピュタゴラスの死後、プラトンが輪廻転生の思想に興味を抱きました。

そしてわざわざイタリアを訪れ、ピュタゴラスの弟子であった哲学者フィロラオス(BC470頃〜BC385頃)の著作を買い求めたと伝えられています。

もう一人はパルメニデス(BC520頃〜BC450頃)です。

パルメニデス

南イタリア(当時はマグナ・グレキアと呼ばれたギリシャの植民地)の都市エレア出身のパルメニデスは、「あるは、ある。ないは、ない」という詩を遺しました。

これは、世界は始めも終わりもない永遠不滅の一体的な存在であるという一元的な存在論です。

したがって、世界は変化や運動を被ることなく生成消滅は否定されることになります。

パルメニデスはエレア派の祖となりました。

エレア派は、感覚よりも理性に信を置いて、理性が把握する不生不滅の「有る」べき世界と人間が感覚で把握する生生流転の現実世界という二重構造を示しました。

英雄アレクサンドロスが世界を駆け抜ける

“漁夫の利”を得たマケドニア

ペロポネソス戦争(紀元前431年 – 紀元前404年)で混乱するギリシア世界の北に、マケドニアという国家がありました。

ペロポネソス戦争の混乱は、このマケドニアに「漁夫の利」をもたらします。

マケドニアはギリシア人の一派でしたが、ポリスをつくらないなどの生活スタイルの違いにより、ギリシアからは異民族とみなされ、格下扱いを受けていました。

ところが、マケドニアの王フィリッポス2世は軍事力の増強に努め、ペロポネソス戦争の混乱につけいって、カイロネイアの戦いでアテネとテーベの連合軍を破ります。

カイロネイアの戦いは、紀元前338年、ボイオティアのカイロネイアにおいて、アルゲアス朝マケドニア王国とアテナイ・テーバイ連合軍の間で戦われた会戦。この戦いは前年から始まった両軍の間の戦争における一大決戦であり、マケドニアに決定的な勝利をもたらした。

そして、フィリッポス2世はギリシアのポリスを「コリントス同盟」という形で統合し、支配下におさめることに成功したのです。

コリントス同盟の加盟国は自由な自治が認められ、相互不可侵の平和条約が締結された。しかし、現存政体の変更、負債の帳消し、土地の再配分、奴隷解放は不可とされるなど、この同盟はギリシア北方のマケドニア王国がギリシア南部を支配しやすくするための同盟でもあった。

コリントス同盟により、ペルシア戦争でギリシアに多大な損害をもたらした復讐としてペルシア討伐が決議され、各ポリスはそのために兵士をマケドニア王国に派遣した。この兵士たちは人質の役目も果たした。フィリッポス2世が暗殺された後は、その息子であるアレクサンドロス大王がコリントス同盟の盟主を引き継いだ。

「ヨーロッパからインドまで」支配した巨大帝国

フィリッポス2世の子が、ヨーロッパからインドにまたがる巨大帝国を築いた、歴史上に名をとどろかせることになるアレクサンドロスです。

哲学者アリストテレスを家庭教師として教育を受けた彼は、ギリシアの知識や哲学を学んだ教養人でもありました。

アレクサンドロスはギリシア世界にとっての脅威だった、東方のアケメネス朝ペルシア帝国を倒すため、マケドニアとギリシアの兵を率いて東方遠征に出発します。

「重装歩兵で敵の主力を足止めし、自身は騎馬隊を率いて大きく迂回し敵の心臓部をつく」という機動戦を得意にしたアレクサンドロスは、イッソスの戦いやアルベラの戦いでペルシアを破り、さらにインド北西部に侵攻して、破竹の勢いで大帝国を築きました。

ところが、ギリシアから遠くインドまで行軍してきた軍隊の疲労はピークに達し、インダス川流域まで侵攻したところで快進撃は止まってしまいます。

そして、故郷マケドニアに帰る途中、アレクサンドロスは、バビロンの地で32歳の若さで死去してしまいました。

後継者争いが起きて分裂

このアレクサンドロスの突然の死が、新たな争いの種をまいてしまうことになります。

アレクサンドロスは「最も強き者が我が後を継げ!」と、なんとも曖昧な遺言を残していたために、後継者争いが始まってしまうのです。

この後継者(ディアドコイ)争いの末、アレクサンドロスの帝国はアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトという3カ国に分裂してしまいました。

アレクサンドロス大王は前334年より、マケドニアから遠征に出発。各地で武力衝突をしながら、領地を拡大した。

イッソスの戦いをテーマにしたモザイク画に描かれたアレクサンドロス大王。愛馬に乗って戦いに臨む姿が表現されている。

仏像誕生のきっかけになった「ヘレニズム文化」

アレクサンドロスの東方遠征によって、ギリシアの文化は大きく東に伝播する。

ギリシアとオリエントの文化が融合して生まれたのが、「ミロのヴィーナス」に代表されるヘレニズム文化です。

国内ではポリスの枠にはまらない生き方を理想とする世界市民主義や、個人主義の風潮が高まり、自然科学が発達しました。

遠くパキスタンのガンダーラ様式の仏像にも、ギリシア彫刻の特徴がみられることから、ヘレニズム文化が、ガンダーラ美術を生み出すきっかけとなったことがわかります。

【ギリシャの繁栄】    都市国家ポリスが繁栄しアテネに民主政が敷かれた

民主政治の礎となったアテネ

前8世紀頃になると、ギリシア人はポリスと呼ばれる都市国家を形成し始めました。

多数のポリスのなかで、特に有力だったのがアテネです。

アテネでは、当初は貴族政が敷かれていました。しかし、交易などによって裕福になった平民も、武器を買って国防に参加するようになります。

そして、貴族の独占的な政治への不満を背景に平民たちの発言力が強くなり、民主政治が発展していきました。

対照的に、アテネと並ぶ有力なポリスだったスパルタは、市民の強い結束のもとで軍国主義的な体制をつくりあげており、現在でも、「スパルタ式教育」として名を残しています。

アテネの民主政治 貴族が独占する従来の選出法に対し、市民から抽選を行うことで民主化を図った。

アテネの最盛期と衰退

アテネの転機となったのは、東方の大国アケメネス朝ペルシアの侵攻から始まるペルシア戦争でした。

ギリシア諸ポリスはアテネを中心に団結し、ペルシアの大軍を退けました。

この戦争では、無産市民も軍船の漕ぎ手として貢献し、発言力を高めることになります。

ペルシア戦争後、将軍ペリクレスのもとで、アテネの民主政治は最盛期を迎えます。

ところが、アテネの隆盛を警戒したスパルタとの対立が深刻化。

前431年ギリシア諸ポリスがアテネとスパルタの陣営に分かれ、ペロポネソス戦争がはじまります。

ギリシア世界の混乱は長引き、衰退に向かいました。

政治に悪影響をもたらした「デマゴーゴス」      

ギリシア世界が、アテネ率いるデロス同盟とスパルタ率いるペロポネソス同盟の2陣営に分かれて戦ったペロポネソス戦争(前431年〜前404年)。

アテネ側は最終的に敗北するが、その背景にはデマゴーゴス(扇動政治家)の存在があるとされる。

戦争中、好戦的な主張で人気を得ようとする政治家が出現し、アテネの民主政は堕落していき混乱をきたすことになった。        

指導者として立ったクレオンは、和平案を拒否するなど、デマゴーゴスの典型例とされている。

アテネのアクロポリス 「ポリスの高所」という意味をもつアクロポリスには神殿が建てられ、市民の精神的なよりどころとされた。

ペルシア時代の勢力図

前500年〜前449年、ペルシア支配のイオニア植民市でのギリシア人による反乱から、ペルシア戦争が起こる。


「軍隊は強力」なのに「経済は貧弱」だったスペインの末路

1492年にコロンブスが新大陸に到達してから約100年間にわたり、スペインは想像を絶するほどの幸運を手に入れました。

インカ帝国とマヤ帝国の支配者から略奪した金銀が底を尽きかけた1545年には、ボリビアのポトシで史上最大規模の銀鉱が発見され、それから1年もたたない1546年9月8日、スペイン人と先住民で構成された小さな探検隊が、メキシコのサカテカスに豊かな銀脈があることを確認しました。

幸運はこれで終わりではありませんでした。1540年にイタリアの技術者ヴァンノッチョ・ビリングッチョが『火工術』という論文の中で、水銀を使って鉱物から金属を抽出するという非常に効率的で新しい手法を提示します。

この革新的技術が、スペインにとっては渡りに船でした。これによってスペイン南部シエラ・モレナ山脈の北麓に位置するアルマデンの豊かな水銀鉱山を活用することができました。

巨大な鉱山の発見と革新的な製錬技法のおかげで、スペインは莫大な富を手に入れることができました。

銀の採掘量は、ポトシ鉱山だけでも年間50トン、多いときには280トンにもなりました。

しかしこれはスペインにとっては逆に災いともなりました。海外から流入した金と銀が経済にどう影響するのか、まったく予想できなかったからです。

莫大な富が貧困を招いた?

世界にAとBという二つの国しかないと仮定してみよう。

あるとき、A国(=スペイン)が金鉱を発見し、通貨量が急激に増加したとしたら?   もちろん、A国の生産能力が高く、貨幣の供給量が増えた分だけモノを迅速に生産できるなら問題はありません。

しかしA国の生産能力に限界があると、通貨量の増加によって物価は上昇し続けるだろう。物価が上がり、物資の供給不足が続くと、A国では必然的にB国(=オランダ)の製品に人気が集まることになります。

B国の衣類や食料品などが輸入されるに伴い、A国の貴金属はB国に流れていきます。

これは典型的な「オランダ病」の構図です。オランダは1959年、北海で大規模なガス田を発見し、その後天然ガスを輸出して毎年数十億ドルを稼いでいました。

ところが輸出代金が国内に流入すると、オランダの通貨ギルダー(グルデン)の価値が大きく上昇し、1970年代に入ると天然ガス以外の輸出業者は海外競争力を失うことになりました。

このように、資源が開発されたあとで、むしろその国の経済が沈滞する現象を「オランダ病」といいます。

16世紀のスペインも同じ問題にぶつかりました。アメリカ大陸の巨大な植民地を運営するためには、多種多様な生活必需品を途切れることなく船で送り届ける必要がありました。

小麦粉、オリーブ油、酢などを供給するのは難しくなかったが、毛織物、靴、絨毯、家具、絹織物、時計などの需要を満たすことは困難でした。このような状況を目の当たりにした当時のスペインの知識人は、次のように嘆いています。

“我が王国はアメリカ大陸から流入した金と銀によって世界で最も豊かな王国になることができた。ところが、金と銀を我われの敵である他の王国に送るための架け橋に転落したため、最も貧しい国になってしまった。”

現代の経済学を学んだ人なら、すぐに一つの処方箋を思いつくでしょう。

通貨量が急増して手の付けられないほどのインフレーションが発生した場合、金利を引き上げて経済全体の需要を抑えることが何よりの対策です。

しかし当時のスペインには中央銀行がなかったので、金融政策を取る方法がありませんでした。

さらに、当時のスペインを支配していたハプスブルク家の王たち(カルロス1世とその息子フェリペ2世)は通貨緊縮をするどころか、大規模な戦争を次々と起こして、事態をより悪化させました。

大規模な戦争でスペイン経済を悪化させたフェリペ2世

1517年にマルティン・ルターが95か条の論題を発表して宗教改革が始まりましたが、その流れの中でスペイン国王たちは最も積極的に旧教を擁護し、彼らの信仰心は好戦的な対外介入へとつながりました。

歴史学者の研究によると、1400〜1559年の間に最も好戦的だった国はスペインとオスマントルコ帝国だとされている。

長期にわたる大規模な戦争で財政負担が日に日に増えたのはもちろんのこと、生産に従事すべき若い男性の多くが戦争に動員されたために、スペインの生産能力は極端に低下しました。

「戦闘」に勝って「戦争」に負け続けた好戦的国家スペイン

もちろんスペインは16〜17世紀にわたりヨーロッパ最強の軍事力を誇っていました。

ピサロが率いた200余名の遠征隊がインカ帝国を崩壊させたことからも分かるように、テルシオで武装したスペイン陸軍は恐怖の対象でした。

テルシオとは、約250名の兵士が一つの隊形を組んで敵を攻略するもので、長槍兵が敵の騎兵隊を阻止したあと、銃兵が一斉射撃で敵の勢いをくじき、再び長槍兵を利用することで、再装填に時間のかかる銃兵を保護できるという長所があります。

スペイン領だったオランダにカルヴァン派プロテスタントが広がると、熱心なカトリック信者であったフェリペ2世はオランダにプロテスタントの信仰を禁じ、カトリックを強制します。

宗教の強制と重税に苦しんだオランダの民衆はオラニエ公ウィレムを首領にいただき、オランダ独立戦争を開始します。

当時、スペインをはじめとするヨーロッパの軍隊は「傭兵」制度を採用していたので、莫大な費用を要しました。

昔ながらの騎士団を維持する国もあったが、テルシオに代表される革新的な戦術が開発されたことで騎士団はもはや競争力を失っており、次第に傭兵への依存度が高まりつつありました。

しかし、傭兵は特定の国家に忠誠心を持ってはいなかったので、隊長の選択によっていつでも敵に寝返るという問題がありました。

加えて報酬がきちんと支給されないと、「費用を回収」するために周辺地域で略奪を行うこともしばしばありました。オランダ独立戦争のときに起こった「アントワープ(アントウェルペン)略奪事件」が代表例です。

当時のスペイン王室は、オスマン帝国との戦争が長期化した影響で1575年に破産し、傭兵部隊に報酬をきちんと支払うことができませんでした。すると、オランダに駐屯していたスペイン傭兵部隊は「ヨーロッパで最も豊かな都市」であるアントワープを略奪し、7000人以上の市民を殺害して都市を廃棄にしました。

これに驚いたオランダ南部の商人と知識人はスペインに対する支持を撤回し、結局1年後の76年、スペインを追い出すためにオランダ北部と南部が宗教の違いを問わず協力することを取り決めた、「ゲント講和条約」を締結するに至りました。

もちろん、オランダの軍事的天才、オラニエ公マウリッツがテルシオを打ち破る新戦術を編み出したことがオランダを独立に導く決定打となったのは確かだが、スペインが財政を堅実に運用して新世界の貴金属をうまく活用できていたなら、もっと長く覇権を維持できたとも言えるでしょう。

独立を果たしたオランダは東インド会社を設立、スペインに代わって世界貿易をリードする「栄光の17世紀」を迎えました。

「小国」オランダに足元をすくわれたスペイン

ドイツとスペインで王に君臨したカルロス1世

大航海時代を通じて一躍世界の主役になったのがスペインです。

神聖ローマ皇帝、すなわちドイツ皇帝の座に長くいたハプスブルク家は、巧みな婚姻政策でスペインの王座を手に入れました。

こうして成立したスペインハプスブルク家のカルロス1世は、スペイン王に即位後、ハプスブルク家の伝統どおりに神聖ローマ皇帝にも選出され、カール5世と呼ばれました。

ここに、「スペイン王と神聖ローマ皇帝(ドイツ王)を兼任する」ダブル国王が誕生したのです。

彼こそがスペイン王としてマゼランに世界周航を命じ、ドイツ皇帝としてルターを弾圧したその人物です。

「太陽の沈まぬ帝国」を実現したフェリペ2世

カルロス1世の死後、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国系とスペイン系に分かれました。

このうち、スペイン王を継承したのがフェリペ2世です。

「フィリピン」にその名を残すこの王は、隣のポルトガルの王女を妻にしていたことからポルトガル王も兼任することになりました。

ここに、もとのスペインの植民地に、ポルトガルの植民地を合わせた超大国が出現し、「常に地球上のスペイン領のどこかには太陽がのぼっている」という「太陽の沈まぬ帝国」を実現し、フェリペ2世の威光は世界に満ちました。

オランダの「乞食」たちが、スペインを衰退させる

しかし、絶頂にあった「世界帝国」スペインはオランダという「小石」のような国につまずき、衰退を始めるのです。

スペイン領だったオランダにカルヴァン派プロテスタントが広がると、熱心なカトリック信者であったフェリペ2世はオランダにプロテスタントの信仰を禁じ、カトリックを強制します。

宗教の強制と重税に苦しんだオランダの民衆はオラニエ公ウィレムを首領にいただき、オランダ独立戦争を開始します。(八十年戦争1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して起こした反乱。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある。)

世界第一の大国に挑戦を始めたオランダの道のりは困難でした。

世界の富を集め、美しい鎧に身を固めたスペイン兵にとっては、貧しいオランダの装備は頭に木の桶をかぶり、魚をとるモリを武器にするようなありさまで、「ゴイセン」(乞食)というあだ名までつけられました。

しかし、オランダは20年以上もの抵抗を続け、スペインに勝利をしてネーデルラント連邦共和国として独立を達成しました。

長い戦争に疲弊したスペインは衰退を始めます。

一方、独立を果たしたオランダは東インド会社を設立、スペインに代わって世界貿易をリードする「栄光の17世紀」を迎えたのです。

「世界初の株式会社」がオランダで誕生したのはなぜ?

アメリカや日本、韓国のような「市場経済国家」の姿を象徴するものは何だろうか。

さまざまなイメージが頭に浮かぶでしょうが、株式会社ほど象徴的なものもないでしょう。

刻々と変化する電光ボードの株価、その株価の騰落に従って歓喜・絶叫する人びと。これほどドラマチックな場面もありません。

株式市場とは一言で言えば、株式などの有価証券を取り引きする場所のことです。

株式とは、ある企業の持分を意味します。 しかし、一般に言う持分とは違います。

株式会社が生まれる前の起業は”命がけ”だった

株式会社というものがつくられる以前は、事業を始めるにあたって「人生を賭ける決意」が必要でした。

事業がうまくいかずに失敗すれば、その事業の負債を最後まで返済しなければならなかったからです。

この伝統は非常に古く、古代社会では債務不履行をすれば大変厳しい処分を受けました。

古代ローマでは、いかに小さな債務であっても、履行しなければ債務者の全財産は没収されて競売にかけられました。

西欧ではこの慣行が19世紀まで続きました。 

そのため、事業は誰にでもできるものではなく、よい事業のアイデアがあってもそれを実行に移すのは相当に難しいことでした。

しかし、社会が発展し複雑化する中で、「無限責任」の原則が事業の障害物になるという認識が広がりました。

特に大航海時代が開かれたあと、1年とか2年という単位ではなく、数年から数十年にわたる事業を行う必要性が生じたため、「有限責任」を基本に長期の事業を営むための新たな制度、すなわち株式会社をつくる必要が論じられるようになりました。

事業に失敗しても、自分が投資した持分だけを放棄すれば、それ以上の責任を追及されないのが「有限責任」の制度です。

「荘園制度」の制約がなかったことの意味

ここで疑問なのは、本格的な大航海時代を切り拓いたのはスペインとポルトガルなのに、なぜオランダで世界初の株式会社「東インド会社」が設立されたのか、という点です。

さまざまな理由があるでしょうが、オランダが中世ヨーロッパ社会の核心である「荘園制度」から脱却していたことが大きく影響したと言えます。

荘園制度とは、領主が自身の封土に属する農奴を直接に支配する制度です。

領主は自分の支配下にある農奴に最小限の安全、すなわち身辺保護と農地の利用権を保障しました。

領主が没落したり戦争で命を落としたりすると、その荘園は他の騎士や領主の手に渡ることになるが、ともかく形式的には「取引関係」によって成立していたと見ることができます。

しかし、アムステルダムをはじめとするオランダのほとんどの州では荘園制度が発達しませんでした。

オランダの陸地のほとんどは海や沼地を干拓した土地なので、教会も貴族もうかつに所有権を主張できなかったからです。

オランダ人たちは他のヨーロッパ諸国の人びととは違って、自ら開拓・干拓した土地を自由に売買しました。

現在のオランダの中枢部に当たるホラント州について言えば、貴族所有の土地はわずか5%にすぎませんでした。

このおかげで、オランダの人びとは伝統と宗教の呪縛から抜け出し、実用主義的な態度を持つことができたのです。

アムステルダムの東インド会社造船所(1726年)

宗教改革も麻薬も売春もオランダから

15世紀後半に宗教改革が始まったとき、マルティン・ルターの意見書(95か条の論題)を印刷し配布した場所もアムステルダムでした。

アムステルダムでは、エラスムスをはじめとする思想家が積極的に自らの意思を表明して論争を繰り広げることができました。

オランダの開放的な風土だけでなく、16世紀末から長らく続いた独立戦争もまた、革新を引き起こす原因として作用しました。

当時オランダ南部を統治していたスペインが宗教の自由を抑圧し、莫大な税金を課していたため、各地で反乱が起きており、政府レベルで海外進出を企てる余力はありませんでした。

オランダ政府は長期にわたる海外市場開拓のための民間資本を育成する必要がありましたが、そのための、この上ない代案が東インド会社でした。

政府に代わって戦争も引き受けた巨大組織

東インド会社は、アフリカ最南端の喜望峰からアメリカ大陸の西海岸に至る広大な地域で要塞を築き、軍事力を行使するなど、オランダ政府の事業を代行しました。

おまけに東インド会社アムステルダム本社の初代株主として登録した人の数は1143人にものぼったので、巨大な資本金を苦もなく集めることができました。

インドネシアのモルッカ諸島を占領して要塞を築き、これを守る傭兵を雇うには莫大な資金が必要でしたが、この問題もうまく解決することができました。

さらに、この巨大組織は勝手な行動をする危険もありませんでした。

というのは、所有権と経営権が分離され、重要か意思決定は選ばれた理事が行っていたし、投資家たちは彼らの決定を受け入れるか、株式を売るか、二つに一つしか選択できなかったからです。

また、株式会社は法的に独立した存在だったので、所有者個人とは分離されており、寿命という制約もありませんでした。

アムステルダムにあるオランダ東インド会社本部

21年で精算する予定だったのに数百年も続いた

東インド会社を設立したオランダ政府も、この会社が長期に存続するとは考えていませんでした。

最初につくられた東インド会社の定款によると、21年後に精算される予定でした。 

東インド会社は数百年にもわたって維持され、アムステルダムに世界初の株式市場がつくられるほど多くの投資家が東インド会社の株式を売買するようになりました。

東インド会社は何度か危機に瀕したものの、配当金を支払いながら、株価が長期的に上昇するに伴い、多くの株主を金持ちにしました。

17世紀の東インド会社の株価推移

世界初の株式会社であるオランダ東インド会社の株価は着実に上昇していきました。

1630年代後半に始まったいわゆる「チューリップ・バブル」の影響で急騰し、その後にチューリップ価格は暴落したにもかかわらず、東インド会社の株価は上昇を続けました。

その理由は、利益増と配当支払いによって内在価値が増え続けたからです。

チューリップ・バブルにも負けず

もちろん、万事が順調なわけではありませんでした。

株式市場が生まれると「財テク」ブームが起こりました。

東インド会社が胡椒をはじめとする貴重な香辛料が取れるインドネシアのモルッカ諸島を占領したおかげで、多額の資金が流れ込みました。

もちろん、海外から資金が多く流入すれば景気はよくなります。しかし、その資金を適切に管理できなければ、さまざまな問題が発生します。

その代表例が「チューリップ・バブル」(Tulip mania)です。

1630年代、オランダではトルコ原産の園芸植物であるチューリップが大人気となりました。

チューリップは球根の状態で取り引きされたので、花の色や形を予測できないという点が特に人びとの射幸心をあおりました。

1630年代中盤には球根1個が熟練工の年収の10倍以上の金額で取り引きされるなど、「価格の上昇が新たな買い手を呼ぶ」典型的な金融投機が発生しました。

しかし、ある時期を境に価格が下落し出すと、売り手があふれてバブルが崩壊しました。

もっとも一部には、このような「チューリップ・バブル」の規模はさほど大きくなく、価格の推移もバブルと呼べるほどのものではないと反論する人もいます(事実、東インド会社の株価は1630年代以降も上昇した)。

特に17世紀に起きた主な戦争でオランダは常に優位に立ち、インドネシアのモルッカ諸島を支配しながら香辛料の供給を独占するなど、全盛期を謳歌したのを見れば、チューリップ・バブルによって崩壊するほどの打撃を受けなかったことが分かります。

軍事力で圧倒的に不利だったイギリスが戦争に勝てた理由

19世紀初め、ヨーロッパ大陸を制覇したナポレオンにとって、最大の脅威はイギリスでした。

イギリスはフランスを牽制するために、7度にわたって対仏大同盟を結成しました。 それだけでなく、フランスの裏庭とも言えるスペインとポルトガルでの反乱(以下「半島戦争」)を持続的に支援しました。

1812年のサラマンカの戦いでフランス軍を打ち破ったのも、ウェリントン公爵率いるイギリス軍でした。

半島戦争で最も目立つ働きをしたのは、なんと言ってもイギリス海軍です。

イギリス海軍は、イギリスからポルトガルに至る海上補給路を維持し、兵糧や火薬などの重要な軍需物資を供給した点で、地理的により戦場に近いフランス軍よりも優位に立ちました。

それが可能だったのは、1805年のトラファルガーの海戦でネルソン提督がフランス・スペイン連合艦隊に完勝して制海権を握ったからです。

イギリスは、どうやって無敵艦隊を育成したのでしょうか?

ホレーショ・ネルソン (1758-1805年)。      トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊に大勝利を収め、ナポレオンの制海権とイギリス侵攻を阻止したが、自身は同海戦で戦死した。イギリス最大の英雄とされる。

圧倒的に有利な相手を打ち負かした「力」の正体

ナポレオン1世はフランス皇帝の座に就いて以来、ロシアとイギリスを除くヨーロッパの大部分を支配しました。

フランスの人口はイギリスよりずっと多かっただけでなく、海軍育成に必要な「経済力」もありました。

1人当たりの所得はイギリスより低かったものの、人口が多かったので、1780年代末の国民総生産はイギリスの2倍以上でした。

海軍力養成の拡大に投入できる財源面で見ると、フランスが圧倒的に有利だったのは明らかに見え、その財源を使ってより多くの戦列艦を建造できたので、局地的な戦闘で負けたとしても、最終的な勝利を収める可能性が高かったです。

戦列艦とは、一列に並んで敵の艦隊に向けて砲撃を加えるように造られた戦闘艦

当時は船に大砲を搭載するのも容易ではありませんでした。

甲板に大砲を載せて撃てばいいと思うかもしれませんが、それではバランスが崩れて船が転覆する恐れがあります。

だから、大砲を喫水線(水に浮かんだ船が水面に接する境界線)近くに位置するように、船体の内部に据え付けて発射してやる必要があります。

それでも問題点はいくつか残ります。一つは船体の両面に防水処理を施した砲門を開けてやらねばならず、もう一つは砲弾が発射されるときの強い反動をうまく処理しなくてはならないという点です。

その問題を解決したのが、オランダとポルトガルで発明・改良されたキャラベル船[主に3本のマストを持つ小型の帆船で、高い操舵性を有する]です。

このタイプの船は優れたバランス能力で大砲発射時の反動を吸収し、車を利用して衝撃を和らげる台車まで備えて問題点を解決しました。

「無敵艦隊」を生み出したイギリスの財布事情

当時の最先端技術が導入された戦列艦は、当然ながら高価でした。

トラファルガーの海戦でネルソン提督が乗船していた旗艦HMSビクトリー号は104門の大砲を搭載していましたが、船を建造するための木材はスウェーデンと北米からの輸入に頼っていました。

HMSビクトリー号を一隻造るだけでも、ざっと6000本の松の木が必要であり、その費用は6万3000ポンドに達しました。

これは現在の価値にしておよそ10億円を超えます。

しかもこの金額は船の建造費用だけであり、大砲の製造費や兵士の人件費などは含まれません(その上、木造の帆船は30〜40年もたつと木材が腐って水が漏れて使えなくなる。高価なわりに寿命が短い代物)。

ネルソン提督が乗船していた旗艦、HMSビクトリー号

では、イギリスはどうやって巨大な艦隊の建造費・維持費を工面したのでしょうか。

ノーベル経済学賞受賞者ダグラス・ノース(Douglass C.North)とバリー・ワインゲスト(Barry R.Weingast)は、1688年のイギリス名誉革命に注目します。

名誉革命を境にイギリスの国債金利が急落したため、フランスなどライバル国家との競争で優位に立てたというのです。

下図は、1688年前後にイギリス政府が発行した国債金利の推移

名誉革命は1688年から89年にかけて、スチュアート朝イングランドで起こったクーデター事件。ジェームズ2世が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)がイングランド王位に即位した。「権利の章典」が発布され、国王の権限が制限され、議会政治の基礎が築かれた。戦闘が小規模にとどまったため「無血革命」とも呼ばれる。

名誉革命以前、イギリスの国債金利は10%をはるかに超えていました。

名誉革命以前に金利が高かったのは、当時のイギリス王室(スチュアート朝)がしばしば「債務不履行」を行ったからです。

1671年にイギリス国王チャールズ2世が債券を引き受けて資産家らに小口で販売していたロンドンの金融業者は致命傷を負いました。

当時のイギリス国王たちがしばしば債務不履行を宣言したのは、国家財政が脆弱だったためです。

1649年にチャールズ2世の父であるチャールズ1世が清教徒革命でオリバー・クロムウェル率いる議会軍に敗れて処刑されたのも、戦艦を建造するために特別税として建艦税を課し、貴族と金融業者の反発を買ったことが原因でした。

清教徒革命によってイギリスは共和制に移行したものの、クロムウェル死後の1660年に王政復古しました。

しかし、チャールズ2世の後を継いで国王の座に就いたジェームズ2世はチャールズ1世の失敗から学ぶことができず、暖炉税(hearth tax)など、さまざまな品目に思いつくまま税金を課しました。

そのため議会と納税者の強い反発を招き、ついに市民たちは1688年に名誉革命を起こしてジェームズ2世を追放しました。

イギリス議会はオランダのオラニエ公ウィレムをウィリアム3世として新国王の座に就け、新たな税金を課す際には議会の同意を得ること、国民の財産を一方的に強奪しないことを約束させました。

その後のイギリス政府は、一度も利子と元金の支払いを遅らせることがありませんでした。

思いつきで税金を課したり債券の利払いを遅らせたりすれば、ただちに革命が起こるかもしれないということを、国王が痛感したからです。

オランダの金融制度をイギリスに移入したウィリアム3世

「富める国」が戦争に負けない理由

名誉革命の成果はこれだけではありません。

ウィリアム3世は単身でイギリスに来たわけではありません。

万一に備え、反対派に対抗するための1万4000人の兵士を同行させ、数万人の技術者と金融関係の人材まで引き連れてきました。

233年間にわたる繁栄の末に1995年にデリバティブ(金融派生商品)取引の失敗で破産したベアリングス銀行(Barings Bank)も、彼らの末裔の一つであり、今日の保険グループ世界最大手フォルティス(Fortis)にも、アムステルダムからロンドンへと移ったホープ商会一族の名残がある。

つまり、人と一緒にオランダ式の思考方式と金融制度までがイギリスに持ち込まれたわけです。

イギリスの貴族や資本家がまったく反発しなかったわけではありませんが、「オランダ金融」はイギリスで主流を占めることになりました。

この変化に敏感に反応したのが金融市場です。

1690年まで10%で取引きされていたイギリスの国債金利が、1702年には一気に6%にまで下がりました。

さらに1755年には2.74%を記録したおかげで、イギリスは他のライバル国には思いもよらない低金利で資金を調達できるようになり、これがイギリス陸海軍の戦力増強へとつながりました。

大艦隊の建設はもちろんのこと、実際に火薬を使った実戦さながらの訓練も可能になりました。

他の国では戦争が始まってから訓練が行われましたが、イギリス軍はあらかじめ実戦に近い訓練を受けてから戦場に出たので、少なくとも戦争の序盤で負けるようなことはありませんでした。

半島戦争でフランス軍を破ったウェリントン公爵の例のように、「補給で勝つ」イギリス軍の神話はこのときにつくられました。

フランスがスペインの民を略奪して食糧を補充していたとき、ウェリントン公爵の部隊は貧困のどん底にあったスペイン人たちに食べ物を与えながら、フランス軍をゲリラ戦の泥沼に引きずり込むことができたのです。

金利下落の恩恵を受けたのはイギリス政府だけではありません。

財を成したイギリス人たちは債券、とりわけ満期のないコンソル公債に投資することで、老後の安心を手に入れられるようになりました。

また、信頼に足る資本市場が形成されると、全世界の富豪が投資のため、われ先にとロンドンに押し寄せました。

ヨーロッパで覇権を握ったヴィクトリア時代のイギリス

ヴィクトリア女王(1819〜1901) 63年間、女王として君臨。近代君主政の模範とされる

拡大する参政権

早くから議会政治が定着したイギリスだったが、当初の選挙権は資産家のみに限られていました。

しかし、1832年から数次にわたって行われた選挙法改正により、選挙の不平等は少しずつ解消しました。

また、議会では地主や資本家を支持基盤とする保守党と、新興の商工業者を支持基盤とする自由党の二大政党制が確立しました。

対外的には、国内の産業資本家からの強い要求に応え、自由貿易政策を推進しました。

自国の製品の輸出先を求めて勢力圏を拡大し、清(中国)の開国を求めてアヘン戦争などを引き起こしました。

「世界の工場」の変容

大英帝国はヴィクトリア女王の治世下のとき最盛期を迎えます。圧倒的な経済力・軍事力から「パクス=ブリタニカ」と讃えられました。

政界では保守党のディズレーリが世界に植民地や勢力圏をうちたてる帝国主義政策を進める一方、自由党のグラッドストンは労働組合の合法化や小選挙区制の採用など自由主義改革を実行しました。

一方、19世紀になると、「世界の工場」と呼ばれたイギリスの製造業は、ドイツやアメリカといった工業国に押され始めます。

それでも、イギリスは金融や海運で優位を保ち、「世界の銀行」となりました。

ヨーロッパに近いアフリカ大陸では、古くは奴隷貿易、その後、金、ダイアモンドなどの天然資源が発見され、イギリスはエジプト・カイロから南アフリカ・ケープタウンへ縦断政策、フランスは西アフリカから東海岸への横断政策をとりました。

欧州の勢力均衡のためのウィーン体制が崩壊した理由

ウィーン会議の風刺画

革命前への回帰を目指した

ヨーロッパ中を支配したナポレオンが敗北したことで、ヨーロッパにいったん「リセット」がかかった状態になりました。

そこで、ナポレオン後のヨーロッパを諸国がどのように領土分配するのかについて話し合うためにウィーン会議が開かれました。

各国の利害対立のため、討議がまとまらず「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されました。

しかし、ヨーロッパをフランス革命前の状態に戻すという正統主義の原則のもと妥協が成立しました。

オーストリアの政治家メッテルニヒが主導したウィーン体制は、各国の勢力均衡が図られ、保守反動的な国内政策がとられました。

王政の復活に失望した民衆

フランス革命を経験した民衆にとっては、今さら「王様の世の中に戻す」といわれても、まっぴらごめんです。

国民が自由に政治に参加できて、かつリーダーも自分達で選べ、農奴制もない平等な世の中。

そういったフランス革命の理念が、ヨーロッパ中の民衆にすでに広がっていたのです。

そのため、自由や権利を求める自由主義運動がヨーロッパ中に展開します。

ウィーン会議の2年後には、早くもドイツで学生運動が起き、10年も経たないうちにイタリアでも「炭焼き党」カルボナリの反乱、ロシアではデカブリストの反乱など、ヨーロッパ各地で自由や権利を求める人々が反乱を起こします。

ウィーン体制が成立して王様たちの世の中に戻りましたが、すぐに自由主義運動の反乱が始まったことで、王の支配に不満をもった民衆や他国に支配されている国々は「我々も反乱を起こせば王政打倒や独立のチャンスがあるかもしれない!」と、考えるようになります。

こうして、19世紀のヨーロッパでは、すさまじい数の革命や反乱が起きるようになるのです。

またフランスが革命の中心に

またもや倒されたブルボン朝

フランスはウィーン会議の結果、ルイ18世のもとにブルボン朝が復活しました。

ルイ18世は議会に協力的な姿勢を見せますが、聖職者や貴族を重用したため、国民に失望されました。

その弟シャルル10世は、議会を解散して独裁と絶対主義を強めたために、国民の不満が一層高まります。

1830年のパリでの暴動により国王シャルル10世は国外に亡命してブルボン朝は再び倒れ、自由主義者として知られたオルレアン家のルイ=フィリップが新しい王に迎えられます(この革命を七月革命)。

翌年、イタリア統一を目指す結社、青年イタリアも結成されました。

民衆は「金持ち優遇政策」に失望

七月革命によって王位についたルイ=フィリップの王政は七月王政と呼ばれます。

もとから人々の自由や権利に理解があり、「国民王」といわれたルイ=フィリップなら、善良な政治をしてくれるとの期待が国民にはありました。

しかし、ふたを開けてみれば、ルイ=フィリップは金持ちばかりを優遇します。

選挙権もお金持ちにしか与えず、普通選挙の要求も退けるルイ=フィリップに「株屋の王」というあだ名がつけられ、農民や労働者階級は不満を募らせました。

1848年フランスでは参政権を求める市民が蜂起し、ルイ=フィリップはイギリスに亡命し、共和政が成立します(二月革命)。

この革命によって成立した共和政は、フランス革命期の「国民公会」による第一共和政に対して第二共和政と呼ばれます。

ヨーロッパ中の国民が立ち上がる

二月革命も、七月革命と同様に各地に飛び火して反乱や暴動が起きます。

プロイセンやオーストリアでは三月革命が起きてウィーン体制を指導していたオーストリア外相メッテルニヒが亡命します。

ポーランドでは、再びロシアに対する独立運動、オーストリアでは独立を求めてベーメンやハンガリーで暴動が起きます。

イギリスでは労働者が権利の拡大を求めてチャーティスト運動が起きました。

こうした1848年のフランス二月革命から始まり、ヨーロッパ中に飛び火した反乱、暴動、革命などの運動をまとめて「諸国民の春」といいます。

今まで下の身分に置かれていたり、権利が制限されていたり、他国に従属していたりする民族が一斉に蜂起して世の中をひっくり返そうというムードがヨーロッパに充満していきます。

もはや、ウィーン体制はあとかたもなく崩壊してしまったのです。

ナポレオンがヨーロッパ史に残した多大な影響とは

ナポレオン(1769〜1821) 国民投票で皇帝・ナポレオン1世に即位

ヨーロッパ大陸の大半を支配

1789年にフランス革命が始まるが、外国からの干渉などにより、政情の不安定が続いていました。

イタリア半島の西にある、フランス領コルシカ島出身のナポレオン=ボナパルトは、革命軍で軍才を大いに発揮し名声を高めました。

オーストリア軍やイギリス軍を次々に撃破する姿を見て、人々は熱狂し、フランスの危機をナポレオンに託そうとします。

ナポレオンは1799年のクーデタで独裁権を得て、1804年には国民投票によって皇帝となりました。

革命により疲弊した国民は、強い指導者を望んでいました。

フランス革命は「王を倒す」段階から「王がいない」段階を経て、「みんなで独裁者を選んでその支配をうける」という段階に突入します。

ナポレオンは国民の同意のもと、イギリスが主導する対仏大同盟に対抗し、次々と対外戦争をしかけます。

イギリスにはトラファルガーの海戦で敗れるものの、オーストリアやプロイセンの軍を撃破し、ヨーロッパ大陸の覇権を握ることに成功しました。

ナポレオンの功績は現代へ

しかし、ナポレオンが本当に倒したかったのはイギリスです。今まで何度もフランス革命に介入し、ナポレオンも海戦で敗北していた「最強の敵」でした。

そこで、ナポレオンは、イギリスを苦しめようと、大陸のヨーロッパ諸国にイギリスとの貿易を禁止し、イギリスを「兵糧攻め」にしようとしたのです(大陸封鎖令)。

ナポレオンを恐れ、表面上では命令に従っていたヨーロッパ諸国でしたが、裏でロシアがイギリスに穀物を輸出するという「大陸封鎖令破り」をしていました。

この裏切りが発覚すると、ナポレオンは制裁のためにモスクワ遠征を行います。

ロシア皇帝アレクサンドル1世は、わざと敗北をかさねて退却しながら、ナポレオンを広大なロシアの大地におびき寄せ、冬を待って一気に大反撃を加えるという、ロシアの「広さと寒さ」を十二分に活用した戦略をとりました。

罠にかかったナポレオン軍は、戦死と凍傷により61万の兵が5000人に減るまでの大敗北を喫します。

ナポレオン敗北というチャンスにつけ込むべく、ヨーロッパ諸国は対仏大同盟を結成します。

ライプチヒの戦いやワーテルローの戦いで敗北し、退位したナポレオンは、セントヘレナ島に流されて生涯を終えました。

ナポレオンの野望は挫折しましたが、ナポレオン戦争はフランス革命の理念を全ヨーロッパに広めました。

このことは、19世紀の各国の革命や個人の自由・平等を主張する自由主義、ナショナリズム(国民主義)運動の要因になりました

ほかにも、ナポレオン法典の編纂は私有財産の尊重などが規定され、近代ヨーロッパ法に多大な影響を残しました。

ナポレオンとイギリスの対立 地球儀のヨーロッパ大陸側をナポレオン、大西洋側をイギリスの首相ピットがそれぞれ切りとろうとしており、大陸封鎖令で対立する両者を描いた風刺画

鎖国中の日本に起きたフェートン号事件

ナポレオン戦争は、遠く離れた日本にも影響しました。欧州で唯一交流のあったオランダが、ナポレオンによって一時占領されたためです。

オランダ本国はフランスの影響下に置かれ、イギリスと敵対し、オランダの海外拠点はイギリスの攻撃を受けました。

1808年、イギリス軍艦フェートン号が長崎湾に侵入し、オランダ人を人質にとる事件が起きました。 長崎奉行の松平康英は責任をとって切腹します。

この事件は幕府が異国船打払令を定めるきっかけのひとつになりました。