情報場をコントロールしよう 「オーダー変更瞑想」

解説

私のオフィスの近くに、よく食事をする飲食店Aがあります。

そのお店は、メニューを見ればパスタやピザがあったり、ワインが数種類あったりするので、イタリアンレストランっぽいお店です。

でも、実際にはカフェとして営業しているし、やってくるお客さんもカフェとして利用している人ばかりです。

その証拠に、お客さんは店に入るなり、自分で勝手に空いている席を探して座ります。

もし仮にイタリアンレストランとして認識しているなら、きっとスタッフが席に案内してくれるまで入口で待つはずです。

つまり、日本人のお客さんにとって、飲食店Aは「カフェ」として存在しているのです。

ところが、アメリカからやってきた数人の友人と飲食店Aに行ったときのことです。

彼らはお店に入っても、入口に立ったまま、席につこうとしません。「どうして席につかないの?」と私が聞くと、こう言い返してきました。

「ここはレストランだよね。レストランならば、ホールスタッフが席に案内してくれるはずでしょ?スタッフがなかなか来ないから、待っているだけだよ」

つまり、飲食店Aは、アメリカの友人たちにとっては、「イタリアンレストラン」として存在していたのです。

飲食店Aは、ある日突然「カフェ」から「イタリアンレストラン」に変わってしまったのです。

といっても、内装やメニュー、スタッフの接客スタイルなどは何も変わっていません。お店は以前のままです。

では、いったい何が変わったのでしょうか?飲食店Aを、なぜ日本人はカフェだと認識し、アメリカの友人たちはイタリアンレストランだと認識したのでしょうか?

実はこの答えに、物理空間を自由自在に変えるための秘密が隠されています。

物理空間を直接的に変えるのは大変です。カフェだった空間をイタリアンレストランにするためには、新しいメニューを考案したり、インテリアを改装したり、スタッフのトレーニングをしたり、やらなければならないことはたくさんあります。

ところが、情報空間から働きかければ、カフェはあっという間にイタリアンレストランに変わります。

飲食店Aは、いうなればただの空間です。その空間を人々がどのように認識するかによって、空間の存在が決まるのです。

あなたの認識では、カフェはどのような空間ですか?イタリアンレストランはどのような空間ですか?

それぞれ三つぐらい考えてみてください。……思いつきましたか。 それがあなたにとっての「カフェの情報場」「イタリアンレストランの情報場」です。

あなたが考えたのと同じように、多くの日本人の認識には、「カフェはこういうところ」という情報場と、「イタリアンレストランはこういうところ」という情報場が、それぞれ存在しています。

わかりやすいように、記号を使って説明しましょう。

日本人の認識には、カフェはa、b、cという条件を満たしている空間 イタリアンレストランはx、y、zという条件を満たしている空間という情報場があるとします。

それぞれの情報場は、ほとんどの日本人に共有されているため、日本人にとっての常識となり、ただの空間である飲食店Aに入った日本人は、

「a、b、cを満たしているから、飲食店Aはカフェだ」「x、y、zを満たしているから、飲食店Aはイタリアンレストランだ」と瞬時に認識します。

こうして飲食店Aはカフェ(もしくはイタリアンレストラン)として物理場に現れるのです。

飲食店Aがカフェであるかイタリアンレストランであるかは、物理場が備えている機能ではなく、日本人が共有する情報によって決まるのです。

では、仮に飲食店Aがa、b、cを満たしており、「カフェ」として存在していたとします。

この飲食店Aを、イタリアンレストランに変えるにはどうすればいいでしょうか。

答えは簡単です。

情報場の因果関係を変えてしまえばいいのです。自分が認識している情報場の因果関係を書き変えて、カフェとはx、y、zという条件を満たしている空間、レストランとはa、b、cという条件を満たしている空間、とすれば、a、b、cを満たし飲食店Aは「イタリアンレストラン」として存在することになります。

実際はそれほど単純ではありませんが、仕組みはこういうことです。

自分がもっている情報場によって、物理場が定められています。

自分の情報場が書き変えられれば、自分や世界の認識が変わり、認識が変わることで自分や世界の物理空間におけるあり方も変わります。

情報場の因果関係が、物理場を作り上げているのです。

自我から脱出しよう 「自分が生まれて死ぬ瞑想」

解説

まず最初に「あるともいえるし、ないともいえる」という世界観が、どういうものかを認識していただくための瞑想トレーニングを行います。

その前に、ある一本の木にまつわる短いストーリーをお話しします。

今、あなたの目の前に、一本の木があります。

その木から種が地面に落ちました。種からは芽が出て、大空に向かって幹が太く大きく育ち、枝が伸び、葉を茂らせて、やがて立派な一本の木に成長しました。

一方、種を落とした木は、年月が経つにつれて、幹がもろくなり、強い風雨にさらされて枝や葉を落とし、ある日根元から折れてしまいました。

枯れ倒れた幹はコケに覆われ、微生物によって分解され、やがて森と一体化して消えてしまいました。

さて、種から生まれた新しい木は、この世界に新たに生じたものでしょうか?

……違いますよね。前の古い木が落とした種から生じているのですから、もともとあったのです。

では、枯れて目の前から消えてしまった古い木はなくなったのでしょうか?

……これも違いますよね。たしかに古い木は目の前からなくなりましたが、古い木から落ちた種が新しい木として育っているのですから、古い木もあるのです。

新しい木も古い木もともに「あるともいえるし、ないともいえる存在」です。

「あるともいえるし、ないともいえる存在」として、種から生まれた新しい木と、枯れ果てて消えてしまった古い木の両方が、時空を超えて存在しているのです。

さらにいえば、「ある」というのは機能が連続していることです。 物理的な連続性はその一部に過ぎません。

ワーク

それでは、今度はあなた自身について考えてみます。

ある日、あなたはこの世に生をうけました。

あなたは多くの人に育まれながら順調に成長し、大人になりました。

そして、出会いと別れを繰り返し、やがて年を取り、病気になって息を引き取りました。

さて、あなたが誕生したとき、あなたは何もないところから、新たに生じたのでしょうか?

あなたが老いて死んだあと、あなたはなくなったのでしょうか?

自分が生まれてから死ぬまでを、脳内でビジュアル化しながら瞑想してください。

どんな存在にでもなろう 「三法界瞑想」

解説

自分の心を制御して、自分が何にでもなれることを知り、その上でなりたい自分になるための瞑想法をお教えします。

はじめに一つ、たとえ話をしましょう。

ある凶悪か犯罪を犯した人がいます。テレビや新聞は彼の周辺を取材し、近所の人にコメントをもらいます。

近所の人は犯人について、 「すごく優しい人だったのに、あんなひどい犯罪を犯すなんて…」 「家族と一緒にいるときはすごく穏やかそうな人でした…」 などといかにも「意外だ」といったコメントをします。

さて、このような犯罪行為と矛盾するかのようなコメントを聞いたとき、あなたは犯人についてこう考えるはずです。

「『凶悪な犯罪を犯した彼』が彼の本性なのか、それとも『優しく穏やかだった彼』が本性なのか?」と。

しかし、実はこうした問いかけ自体がナンセンスなのです。

なぜなら、優しさも凶悪性も、どちらもその人自身だからです。

人は誰もがナートマンです。その人がそのつど何を選んだかが、その人のあり方を決めているのです。

その選択の結果、あるときは「優しい人」になり、あるときは「凶悪な犯罪者」になってしまうだけなのです。

「一人の人間の心に相反するすべての人間性があり、心が何を選んだかによってその人の存在や生き方が決まる」という人間に対する見方は、仏教の「六道」や「十法界」という言葉に表れています。

六道とは天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界のことで、この六道の上に声聞、縁覚、菩薩、仏の四界を加えたものが十法界です。

六道や十法界はどちらもナートマン瞑想の方法論です。

十法界瞑想では、瞑想空間のなかで餓鬼になった自分、人間になった自分、菩薩になった自分、仏陀になった自分などを瞑想しながら、

自分のなかには餓鬼もいれば、仏陀もいること 自分のなかにあらゆる可能性が存在していること その可能性のなかから、自分が「何を選ぶか」によって、自分という存在が決まること

をしっかりと認識し、最終的に「じゃあ、自分は◯◯を選ぼう」と、なりたい自分を自分の心 (自分の意志) で選びます。

つまり六道瞑想や十法界瞑想をすることで、「自分という存在はあるけれど、永遠不変の自分が存在しているわけではなく、変化し流転するものとしてある」というナートマンの考え方を体感的に理解することができるのです。

実際、釈迦も六道瞑想や十法界瞑想をしながら、餓鬼になったり、人間になったり、仏陀になったりしていたはずです。

釈迦は自分の心に餓鬼も、修羅も、畜生も、人間も、仏陀も、すべていることを理解していました。

その上で、教えを説く相手に合わせて、自分の心を変えていたのです。これが釈迦の「対機説法」です。

あなたのなかにも釈迦と同じように、ありとあらゆる可能性が詰まっています。

あとは、あなた自身がどの自分を選ぶかの問題です。

餓鬼を選ぶこともできますし、人間を選ぶこともできます。仏陀になることだってできるのです。

本当ならば十法界瞑想や六道瞑想をしていただくのが理想ですが、いきなり10の自分を瞑想するのも大変でしょうし、現代人にとっては「餓鬼」「畜生」「声聞」「縁覚」といわれても、それがどういう存在なのかわからないので瞑想しづらいと思います。

ですから、十法界瞑想をアレンジした「三法界瞑想」をやってみてください。

ワーク

「三法界瞑想」とは三つの世界を瞑想しましょうということです。

この三つの世界は何でもいいのですが、ここでは瞑想しやすいように「貧乏人の自分」と「お金持ちの自分」と「仏陀になった自分」とします。

ステップ1 「貧乏人の自分」を瞑想する

ここでは、預金残高が10分の1になった生活をイメージします。 これからどんな生活をすることになるのかを瞑想してください。

たとえば、「当面の生活費をかせぐために、いくつかの仕事に就き、必死で働く自分」 「日々の生活費を工面するために、サラ金でお金を借りる自分」 「愛想を尽かされて妻(夫)に出ていかれる自分」 「お金欲しさに窃盗や強盗などの犯罪に手を染める自分」 「公園のベンチに寝泊まりしているところを知人に見られてしまった自分」

お金が次第になくなり、ついには尽きたとしたら、自分はどうなるのか。何を考えて、どのように行動するのか、徹底的に瞑想してください。

ステップ2 「お金持ちの自分」を瞑想する

ここでは、預金残高が100倍、1000倍になった生活をイメージします。

今あなたの預金口座には数十億円、数百億円、数千億円のお金があります。あなたはどのように生活しますか。

たとえば、「仕事を辞めて、資産運用で不労所得を得ようとする自分」 「車や家など欲しいものを買い、食べたいものを食べ、世界中を旅して、放蕩三昧の生活をする自分」 「世界中の恵まれない人々のために全額寄付したいと考える自分」

お金持ちになった自分を、そしてお金持ちになったことで自分が何を考え、どのように行動するかを、強い臨場感で徹底的に瞑想してください。

ステップ3 「仏陀になった自分」を瞑想する

三つ目の「仏陀になった自分」は、これまでの二つよりも抽象度が高く、金額そのものをまったく気にしません。

「仏陀」といわれると難しそうですが、実はこれがいちばん簡単です。

数字をまったく気にしない人ですから、預金通帳のゼロが増えようが「それが何?」と思い、ゼロが減ろうが「それが何?」と考えます。

そして、預金通帳の金額が多いか少ないかにかかわらず、自分がどんな生活を送りたいかを考えて、そのとおりの生活をします。

今、あなたはどのような生活を送りたいですか?まずは自分の心を決めてください。

ここまでのステップ1、2では、預金残高の多寡に合わせて自分の行動を決めていたはずです。

ところが、自分で「お金を気にしない」と決めれば、実際まったく気にならず、自由気ままに好きなことができます。

もちろんお金がなければできないことはありますが、できないことに不満や苛立ちを感じることはなく、「だったら、自分のやりたいことのなかで、できることをやろう」と気軽に思えます。

また、自分のやりたいことをやってみたら、意外にお金がかからなかった場合などは、「自分にお金なんて別に必要ない」と気づくことができたり、「余ったお金は寄付しよう」と今まで考えもしなかった”やりたいこと”が見つかったりします。

お金に束縛されない、自由な感覚を感じることができるはずです。

以上が三法界瞑想です。

三法界のそれぞれの自分に対して臨場感が強まれば強まるほど、「瞑想した自分」が「現実の自分」であるかのようなリアリティを感じるはずです。

お金にまつわるさまざまな欲望に駆られるあなたも、どんな状況でも他人のことを思いやることができるあなたも、お金なんて関係なく自由気ままに生きるあなたも、すべてあなた自身なのです。

「自分はこんな人間だ」「自分を変えることはできない」と思い込んでいるのは、自我にとらわれている証拠です。

どんな状況でもけっして変わることのない永遠不変の自我があるのではなく、まわりの状況があなたという人間のあり方を絶対的に規定しているわけでもありません。

あなたという人間を形作っているのは、「あなたの心」です。

あなたのまわりにはさまざまな人やさまざまなもの、さまざまな事象やさまざまな出来事が存在しています。

それらとあなたとの間には深い関係性があります。あとは、その関係性に対して、あなた自身がどう振る舞うか。

言い換えれば、あなたの心がその関係性をどう「見る(認識する)」のか。

そのことが結果的に「あなた」という人間を決定します。

未来永劫変わらない自分はありません。

「自分」を決めるのはあなた自身の心であり、あなたは自分の心のあり方を自由自在にコントロールすることができます。

いうなれば、あなたはあらゆる可能性をもつ存在であり、なりたい自分に自由になることができるのです。

自我から脱却する「ナートマン瞑想」

自我を離れることができれば、情報空間の場の因果関係を、自由自在に見ることができるようになります。

「ナートマン」とは、「アートマン」の否定形で、仏教の本質的、中心的な考え方です。

ちなみに、ナートマンもアートマンもどちらもサンスクリット語です。

サンスクリット語では言葉の先頭に「n」をつけると否定形になるので、「atman(アートマン)」が「natman(ナートマン)」になるわけです。

アートマンは、バラモン教におけるもっとも重要な概念の一つで、宇宙の根本原理であるブラフマンと対になる存在であり、よく「真我」と訳されます。

人間がどれだけ輪廻転生を繰り返してもつねに続くもののことであり、人間の肉体の生滅にかかわらず、未来永劫変わらない、永遠不変の存在と考えられています。

釈迦はアートマンを否定しました。人間の自我は永遠不変の存在ではなく、雲のように変化しつづけるという「非我(ナートマン)」の思想を説きました。だからこそナートマン瞑想は、仏教の基本となっているのです。

ナートマンは「自我が存在していない」と言っているのではありません。

「自我は存在している、しかし変化し流転するものとしてある」、つまり「あるともいえるし、ないともいえる」と言っているのです。

ナートマン瞑想は、つまり「空の瞑想」です。

空の解釈として「この世界のすべての存在をダイナミックかつ多次元的にとらえ、それらすべての関係の中心に自分の心があり、自分の心がすべての存在、すべての事象を生み出していると考えること」

あなた自身もこの世界も空だからこそ、自分の心をコントロールすることで、すべてを自由自在に書き換えることができるのです。

ナートマン瞑想を実践すれば、自分や世界の情報因果を自由自在に見ることができるようになります。

これまでと違う情報因果を選ぶことができれば、自分や世界のあり方を変えることができます。

それが、「自分や世界を自由自在にコントロールする」ということです。

スコトーマをはずそう 「写真縁起瞑想」

解説

この「写真縁起瞑想」も、あなたやこの世界を生み出している縁起(因果関係)を正しく見るための瞑想法です。

みなさんの身の回りには、とてもたくさんのものが存在しています。

しかし、みなさんは日ごろ、自分が重要だと思っているもの、興味があるもの、深い関わりがあると思っているものしか見ていません。

そのことはスコトーマの原理で説明できます。スコトーマになっているもの(あなたの脳が重要だと思っていないもの)は認識できていません。

スコトーマの原因となっているのは、あなた自身の過去の記憶、テレビや新聞などのメディアによる洗脳、親や教師による洗脳などです。

ワーク

①背景を広めに入れて、誰かにあなたの写真を撮ってもらう。場所はどこでもいいが、できるだけまわりにいろいろなものがあったほうがいい。

②写真をプリントアウトして、自分とまわりのものとを線でつなぎ、因果関係を書き込んでいく。因果関係は、あまり難しく考えず、思いつきでかまわない。

この「写真縁起瞑想」をやると、自分の身の回りのいろいろなものが認識できる(見える)ようになり、自分や世界が立体的に広がっていきます。

そして、それまでの自分がいかに限られたものしか見ていなかったか、平面的にしか世の中を見ていなかったかが理解できます。

同じ物理空間に存在するということは、情報空間で強い因果が働いているものなのです。

すべてのものの関係を見よう「因果関係瞑想」

解説

この世界はすべて「双方向の因果関係」です。

たとえば「円」をイメージしてください。

円の中心には必ず「点」があります。点の定義は、円の中心であり、円が存在してはじめて点を定義できます。

この場合、円が「因(原因)」で、点は「果(結果)」です。

次に円を描くときを考えてください。

円を描くとき、コンパスを使います。コンパスは中心となる場所(点)に針をおいて、ぐるりと円を描きます。

つまり、点があるから円が描けるのです。この場合、中心となる点があるおかげで円が存在できるので、点が「因(原因)」で、円は「果(結果)」です。

先ほどと因果関係が逆転してしまいました。

さて、ここで一つの疑問がわきあがってきます。

「円が先にあって、その中心として点が存在するのか」

「点が先にあって、その点の周りに等距離で線を引くために円が存在するのか」

もっと単純に言えば、「円のおかげで点があるのか」「点のおかげで円があるのか」

実はどちらの考え方も正しいのです。

この世界のすべての事象は、つねにほかの事象と「双方向的」に関わり合って存在しています。

「AがあるからBがある」という因果関係が成り立てば、「BがあるからAがある」という因果関係も成り立つわけです。

この双方向の関係性をしっかりと認識することも、「正しく見る」ことの一つです。

このワークではいつもの因果関係をひっくり返して見ることで、双方向の関係性を認識するトレーニングを行います。

ワーク

あなたの目の前に、テーブルの上に乗っているコップがあるとします。

この「テーブル」と「コップ」の因果関係を考えてください。

テーブルはコップにとってどんな存在でしょう。また、コップはテーブルにとってどんな存在でしょう。

テーブルはコップにとって上に乗るもの。テーブルがあるおかげでコップはコップとしてあなたの目の前に存在することができます。

今度は逆を見てみましょう。

コップはテーブルにとって上に乗せるもの。

コップが乗っているおかげでテーブルは、作業台や足場としてではなく、テーブルとして存在できているのです。

このように因果関係をひっくり返して見ることを、身の回りのものに対してやってみてください。

たとえば、

  • 仕事机の上にある「パソコン」と「書類」の因果関係 答:パソコンは書類にとって、文書の中身を作成するもの。 書類はパソコンにとって、作成した文書を紙に印字するもの。
  • 食卓の「皿」と「フォーク」の因果関係
  • 公園にいる「犬」と「子供たち」の因果関係

など、何でもいいのです。

このように因果関係をひっくり返して見ることで、普段とは違う角度から身の回りのものを見ることができるようになり、身の回りのものの今まで見えていなかった存在意義や価値を見出すことができ、その結果、世界の見え方が変わってくることを実感できます。

抽象度を上げた視点で見よう 「統合瞑想」

解説

因果関係を逆転して見ることで、認識の抽象度はかなり上がっていますが、さらに上げる方法があります。

それは「AとBの両方を統合する因果を見ること」です。

先ほどのコップとテーブルの例でいえば、「因果関係瞑想」によって、「コップはテーブルの上に乗っかっている」「テーブルはコップを下から支えている」という因果関係が見えました。

このように見ることで、抽象度はすでに大きく上がっています。

しかし、コップとテーブルの両方を統合する因果関係があります。

それはたとえば、「コップもテーブルも同時に地球の引力に引っ張られている」「だから、コップはテーブルの上に乗り、テーブルはコップを支える、という関係が成立している」ということです。

コップとテーブルを統合する因果を見ようとすることで、おのずと一つ上の抽象度、この場合は「地球の引力」という高い視点の因果関係を見ることができるのです。

また時間因果の例でいえば、「時間因果は過去から現在、未来へと流れている」という見かたと「時間因果は未来から現在、過去へと流れている」という見かたがあります。

これらを統合する因果関係を見ようとすれば、「双方向に流れているということは、そもそも時間は流れていないのと同じである。因果関係は『過去→現在→未来』『未来→現在→過去』のどちらの方向にも自由につなげることができる」と一つ上の抽象度、この場合は「時間は流れていない」という高い視点の関係性を見ることができます。

すべての行為を意識に上げよう「歩行禅」

解説

正しく見るための力を養う方法の一つは、自分の行為を徹底的に観察して意識に上げることです。

そのもっとも初歩的な方法が「歩行禅」です。歩行禅とは、禅宗の瞑想法で、歩きながら行う禅のことです。

私たちは日ごろ多くの動作、思考を無意識に行っています。それを意識に上げるだけでも、抽象度が上がり、自分や世界を正しく見ることができるようになります。

ワーク

①右足のかかとが地面につくときに、一回息を吸い込む

②右足の爪先が地面につくときに、もう一回息を吸い込む

③左足のかかとが地面につくときに、息を吐く

④左足の爪先が地面につくときに、呼吸を止める

歩行禅は可能な限りゆっくりと行います。ゆっくりと行い、動きと呼吸のタイミングを覚えてください。

また、一歩足を踏み出すごとに「今、爪先が地面についた」「かかとがついた」「右足に体重が乗った」…と一つ一つの体感を意識しながら歩くことを心がけてください。

この歩行禅は、自分の体に対して、自分の意識をもっていく訓練になります。

慣れてきたら、普段歩行をしているときも、自分の動きに意識をもっていくようにしてください。もし呼吸が速くなって苦しいようなら、呼吸は意識しなくても結構です。

さらに、歩行禅ができるようになったら、歩いているときだけでなく、朝起きてから夜寝るまで、日ごろ無意識に何気なく行っている行動一つ一つを意識に上げてください。

意識に上げることが、すなわち「見る」ことになります。

自分の行動や身の回りの事象を一つ一つ意識に上げることを毎日徹底するだけでも、それまで見えてなかった自分や世界の姿が見えてくるようになり、「自分ってこんな一面もあったんだ」「世界にはこんな一面もあったんだ」と自分や世界の見え方が変わってくるはずです。

時間と空間を超えて見よう 「黙って食え瞑想」

解説

「黙って食え瞑想」も、正しく見るための瞑想法です。

方法は、その名のごとく、目の前に食事があったら黙って食べる。 それだけです。

ただし、食べながら、目の前の食事を徹底的に見なければなりません。

ここで言う「見る」とは、時間と空間を超えた存在として見るということです。

時間と空間を超えた存在として見ることで、「縁起」を正しく見ることができます。

縁起とは仏教の重要な思想の一つで、「宇宙のすべての存在・出来事はお互いに関わり合って存在していて、一つも欠けることはできない」という考え方です。

縁起の思想に基づけば、この世界のすべての事象は、つねにほかの事象と双方向的に関わり合って存在しているのであって、単独で存在しうるものはない、ということになります。

どんなものも、ほかのものとの関係性のなかで存在しているのです。

あなたという一人の人間も、単独で存在しているわけではありません。

父がいて母がいて、父母それぞれにも父がいて母がいて、さらに何世代にもわたって先祖の人たちがいる。

また、自分の通った学校があり、職場があり、好きな食べ物、好きな音楽、これまで読んだ本や見た映画などがあり、時間と空間を超えたあらゆるものとの関係性があり、その中心となる点として自分があるということなのです。

同じことが、この世界の出来事・事象一つ一つにいえます。

すべての出来事・事象は、ほかの出来事・事象と網の目のような因果関係を形成し、その結果としてこの世界が生まれているのです。

以上が縁起の世界であり、情報空間に網の目のように広がる無数の因果関係を正しく見るための方法が、この「黙って食え瞑想」です。

ワーク

食卓のご飯を見て、「ご飯を炊くときに、どんな道具で炊いたのかな?」

「どこで栽培されたのかな?」

「そもそも米の栽培はいつ、どこで始まって、日本にはいつごろ伝わってきたんだろう?」などと考える。

豚肉があったら、「どこで育てられた豚なのだろう?」 「この豚はどんな豚だったのだろう?」 「育てた人はどんな人だろう?どんな気持ちで育てたんだろう?」 「豚は殺されるとき、どんな気持ちだったんだろう?」 「豚の命はどこに行ったのだろう?」などと考える。

今自分の目の前にご飯や豚肉が存在しているのは、それを育てた人、運んだ人、売った人などがいたからです。

さらに、育てた人はいろいろな機械や肥料を使ったはずで、その機械や肥料を作った人・売った人がいます。

運んだ人は米を袋に詰めて、袋を車に積み、車で道路を走って運んでくれたはずで、その袋や車や道路を作った人・売った人もいます。

そして、それぞれの人には、あなたと同じように生活があり、家族がいて、その人の人生を生きているのです。

このようにイメージをどんどん広げていくと、今自分の目の前にご飯や豚肉が存在しているのは、無数の因果の結果であることがわかります。

もしその因果の一つでもなくなってしまったら、目の前のご飯や豚肉は存在しなくなるのです。

以上のように目の前のものが存在している因果関係、それも時間と空間を超えた因果関係を見ることが「黙って食え瞑想」です。

「黙って食え瞑想」は、身のまわりすべての物事に対して行うことができます。

たとえば職場のデスクにはパソコンや書類、携帯電話などが置いてあります。

それら一つ一つを見ながら、「なぜこれはここにあるのか」「これと自分にはどんな関係があるのか」を考えるようにしてください。

自分とはまったく関係がなさそうなものでも、「黙って食え瞑想」をやれば、因果関係が広がってゆき、見えていなかった関係性が見えてきます。

この世界を生み出している網の目のような関係性が見えてくれば、あなたはきっと次のことに気づくはずです。

  • この世界には単独で存在しうるものはなく、すべての存在はほかのものとの因果関係(縁起)のなかに存在していること
  • 目の前の一つの存在は、宇宙のすべてと何らかの関係性をもっていること
  • 自分が今ここに存在しているのは、けっして偶然ではなく、宇宙のすべての事象との因果関係の結果であること

以上のような世界観を、天台宗の開祖・智顗は「一念三千」と呼びました。一つの存在を見ることは宇宙全体を見ることです。

一念三千の世界を体感するのが「黙って食え瞑想」の目的です。

あなたも「あなた」という情報場の写像

自分を定義するものは、名前、家族関係、出身地や現在住んでいる場所、通っている学校や会社、職種、趣味、特技、性格など、さまざまな要素があるはずです。

「私の名前は、山田太郎です」 「私には両親と兄・姉がいます」「私は○○大学出身です」 「私は△△銀行に勤めています」 「私は渋谷区に住んでいます」 「私はジョギングが趣味です」 「私はお酒が苦手です」 「私は明るくポジティブな性格です」などでしょうか。

これらの定義はすべて、「自分」と「自分以外の存在(まわりの人、組織、物体、事象など)」との関係性を述べているだけです。

あなたの心が、まわりの世界との関係性のなかで「これが私」と認識している情報が、「あなたという情報場」を形成し、その情報場に臨場感をもつことが、物理空間であなたという人間を生み出しています。

つまり、あなたという人間の存在を正しく見ると、あなたも情報の因果関係によって物理空間に現れた「一つの写像」であることがわかります。

瞑想によって自分や世界を自由自在にコントロールするとは、物理的存在としての自分や世界を直接的に変えることではありません。

まずは情報空間の場の因果関係に働きかけてコントロールすることで、結果として物理空間にも大きな影響を及ぼすことです。

「正しく見る」とは、前頭前野で情報処理をすること

情報場の因果関係をコントロールするための第一歩は「正しく見る」ことです。

情報空間でどのような情報場が形成され、それぞれがどのような関係性で結ばれ、その結果、物理空間にどのような影響を与えているか。

情報空間の場の因果関係を正しく見ることが大切です。

私たちが正しく見ることができないのは、「自我」が邪魔しているからです。

これは機能脳科学の見地から説明すると、海馬と扁桃体が情報をやりとりするときに前頭前野がきちんと介入できていないということです。

扁桃体はもっぱら生体や種の保存にとって重要かどうかという観点で情報の振り分けを行います。

その指標は「恐怖と愛着」。 つまり、情動(煩悩といってもいいでしょう)によって情報を取捨します。

つまり、私たちは、自分の感情によってスコトーマを生じさせてしまうため「正しく見る」ことがなかなかできないのです。

一方、前頭前野は、抽象度の高い思考を司っています。

海馬と扁桃体のやりとりに、前頭前野が介入すると、抽象度の高い思考によって、感情を制御することができるのです。

仏教も正しく見ることを重視する

仏教でも「正しく見る」ことはとても重視され、「正しく見る」能力をトレーニングするさまざまな瞑想法が開発されています。

上座部仏教では、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という二つの瞑想があります。サマタとはサンスクリット語で「止=煩悩を制御し、心を落ち着けること」を意味します。

ヴィパッサナーとはサンスクリット語で「観」を意味しますので、ヴィパッサナー瞑想は文字どおり「正しく見る瞑想」になります。

止観瞑想をすれば「煩悩を制御し、正しく見る」力をトレーニングすることができるのです。

人間は自我にとらわれている

人間の脳は「自分が重要だと思うもの」「認識したいと思うもの」しか認識しません。

重要ではないと判断したことは意識から抜け落ちてしまいます。

つまり、あなたが見ている自分や世界は、「あなたが見たいと思っている自分や世界に」に過ぎず、正確ではないのです。

過去の経験によって培われたフィルターを通して自分や世界を見ているため、実は眼前に広がっている可能性の地平を見ることができません。

見ることができなければ、当然自分の無限の可能性を行使することもできません。

仏教に「無明」という言葉があります。無明とは、人間が根本的にもっている無知のことであり、すべての迷いや苦しみも無明から生まれるとされます。

無明から抜け出し、無限の可能性を拓くためには、自我のスコトーマ(心理的盲点)を徹底的にはずせばいいのです。

抽象度

スコトーマをはずすためには、抽象度を上げたい高い視点から正しく見ることが必要です。

抽象度は「情報空間」における視点の高さのことを指します。

私たちが生きているこの世界は情報の世界です。

一人ひとりの脳や心に存在するさまざまな情報によってこの世界は形作られているからです。

人間は自らが獲得した情報を、自らの脳で処理して、事物や現象や世界を認識します。

つまり私たちにとってこの世界は、どこまでいっても情報だけで構築されている「情報空間」なのです。

この情報空間は、私たちが五感でキャッチした情報によって支えられています。

見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったり、味わったりーそうした体験を通じて獲得した情報を脳が処理することによって、認識が生まれているのです。

この五感で体感できる世界のことを「物理空間」と呼びます。物理空間は、物理法則という秩序が働いている世界でもあります。

つまり、無限に広がる情報空間のなかで、一番下の抽象度に位置するのが物理空間です。

私たちは、抽象度が上がれば上がるほど(視点が高くなればなるほど)、スコトーマがはずれ、より広範な情報にアクセスできるようになり、いろいろなことを正しく見ることができるようになります。

なぜ情報を変えると、物理が変わるのかー物理空間と情報空間の関係

物理空間と情報空間の関係性において、これまでは物理空間のほうに情報がついていると考えられてきました。

たとえば、リンゴであればそのリンゴに「赤い皮」「かぐわしい匂い」「手で持てる大きさ」などなどの情報がついていると考えられてきました。

しかし、実際は逆です。

物理空間に情報が付加されているのではなく、情報空間にある「特定の情報場」の写像として、物理空間に物理的実体が存在しているのです。

つまり、私たちが現実に「ある」と思っているものはすべて「情報場の写像」に過ぎません。

「情報場」とは、情報空間における特定の座標を指す言葉です。 情報空間には、人間の認識の数だけ、無数に「情報場」が存在しています。

たとえば、人間に関する情報が集まっている場が「人間の情報場」 犬に関する情報が集まっている場が「犬の情報場」となります。

まず先に情報空間の因果関係があります。その因果関係によって生まれた特定の情報場が、その写像として、低い抽象度である物理空間に現れるのです。

先ほどの例でいえば、「人間の情報場」「犬の情報場」というそれぞれの情報場が、物理空間に物理的存在としての「人間」や「犬」を現出させているのです。

つまり、みなさんが見ているさまざまな事物は、もっと高い情報次元に広がって存在している情報的存在のごく一部、いうなれば足の裏に過ぎません。

目の前の物理世界を見ているだけでは広大な情報空間に広がる世界の姿をとらえることはできないのであり、もっと高い抽象次元の情報空間を認識してはじめて、世界のあり方を知ることができるのです。

足の裏(物理空間にあるごく一部)ではなく、体全体(情報空間に広がる姿)を認識することが、「正しく見る」ということです。

潜在意識はあなたの”本音”を見逃さない

潜在意識は、受け入れたものをすべて無差別に実現してしまう性質がある。

潜在意識には判断したり、選択したりする能力がありません。

あなたが心の中で、つまり意識する心(顕在意識)の中で、こうだと思ったことは、すべて無差別に実現してしまうのです。

だから、あなたが「私はそうしたいけれど、そうする余裕がない」と言えば、潜在意識はそれを真に受けます。そして、あなたの希望を実現させないようにしてしまいます。

これに反して、「私はそれを買おう。私はそれを心の中で受け入れる」と言えば、潜在意識はそれを引き受け、おそかれ早かれあなたの願望を実現してくれます。

常に積極的な言葉をあなたの潜在意識に話しかけてください。

潜在意識はあなたの言葉を一度引き取ったら、それを実現しないではおかないのです。

積極的な言葉を繰り返しているうちに、あなた自身が変わってきます。

そしてふと気づくと、あなたはいままでよりも、もっと積極的で魅力的な人間に変わり、もっと幸福になっていることに気づくでしょう。

ですからあなたは、自分に正直にならなければなりません。

知人の幸福を聞いて、「あの人はずるいことをやったんだ」と言った場合の本音は何でしょうか。

あなたはその知人の幸福を羨み「その幸福がなかったらよいのに」と言っているのではありませんか。

潜在意識は本音に対してのみ反応するのですから、「幸福がなければよいのに」という心持ちを受け入れ、あなたに幸福がこないようにと働き始めます。

あなたの気持ちを率直に見つめ、そして本当によい思念で満たしてください。

あなたが本当に幸福や富裕や健康を望んでおり、しかもそれを否定する気分がないなら、その願望は必ず実現します。

良い借金とは、より多くの収入をもたらしてくれる借金です。

一方、悪い借金とは、自分の懐からお金が出ていくだけの借金です。

住宅ローンは自分の懐からお金を出さないといけません。 消費者金融も、結局は自分の財布の中からお金が出ていくだけです。

このように、ATMにクレジットカードを入れたり、無人契約機で「お金を借りたいんですけど」と言えばいいだけなので、悪い借金は簡単です。そして簡単だから、あとで苦しい状況に陥ります。

では、賃貸用不動産を借金して買うのはどうでしょう。

ローン返済はすべて入居者の家賃収入でまかなわれますから、自分の懐は痛みません。

それで余ったお金を投資に回せばお金が増える。

全額自己資金で投資するより、銀行からお金を借りて投資したほうが、より多くのリターンを得られます。

でも、良い借金をするにはインテリジェンスが必要です。つまり、学び考え工夫しなければなりません。

たとえば不動産ならば、継続的に収益がもたらされ、問題なく返済が進むように、きちんと入居者をつけられる物件を選ぶこと。

シミュレーションして、多少の変動にはビクともしない状況を維持できる根拠をつくること。

管理会社と一緒に賃貸経営をしていくパートナーシップをつくること。

こうした多少面倒なインテリジェンスを磨くことができた人だけが、良い借金をできて、より多くのお金を手にすることができます。

お金というのは情報に似ているといってもいいかもしれません。

たとえば、ある映画を観てものすごく感動したとき、すぐに友人に電話をして「素晴らしい映画を観たよ」と伝えるタイプの人のところには、「この映画もおもしろいよ」「今こんな映画が流行っているよ」という情報が集まってきます。

食べるのが趣味で、おいしいレストランを見つけるとすぐに自分のブログで紹介する人には、「ウチの店も紹介してください。半額で招待しますから」とたくさんのレストラン情報が送られてきます。

美容に関心があり、化粧品のブログを書いている人のところには、メーカーからサンプルや新製品発表会のお知らせが届きます。

自社の商品を宣伝してもらいたいと考えるからです。

テレビ局や出版社を見れば明らかなように、情報は発信するところに集まります。

同様に、お金も使いっぷりのいい人のところに集まります。

なぜなら、企業はそんな人を大歓迎し、貴重な情報や人脈を最優先で提供するからです。

お金持ちがますますお金持ちになるのは、お金を使って周囲に貢献していることを提示できているからです。

たらいの水理論

ある大富豪があるとき、「お金というのは、たらいの中の水のようなものだ」と教えてくれました。

手元に掻き集めようとすると脇からこぼれて逃げていってしまうが、押し出す、つまりお金を使うと逆に集まってくるのだというのです。

家族みんなを投資家にする

お金を有効に使える

お金のすばらしさを家族内で共有する

家族の経済を支えるのは男の仕事、というのはかなり古い考え方。

ただ、何も夫婦共働きをするという意味ではありません。お金に対する意識を家族中で高めるのが大切ということです。

家族でお金の話をするのはタブーのようなところがありますが、それはけっしてよいことではありません。

まず子どもも含めて、お金というものは夢をかなえるすばらしい手段だという認識を持つべきです

しかし、ただ節約を呼びかけるのもよくありません。その節約で貯まったお金をいかに家族にとって有効に使おうかという話こそが大切なのです。

さらに、家族で投資を勉強するということは、お金を増やして夢を手に入れることであり、家族にとって何が幸福なのかを考えることでもあります。

こうした環境で育った子どもが社会に出たとき、お金を儲けることにいささかのためらいも持たないでしょう。

それはお金というものは、自分のすばらしい未来を勝ち取るツールだということをよく知っているからです。

いつかその子どもがあなたを幸福にしてくれるかもしれません。

青春ドラマのように友人と熱く語る

成功を無意識に確信できる

自分の夢を素直に聞いてくれる友人こそが宝

成功者のほとんどには、過去に夢を語り合う友人がいました。

どんなに不遇な時代であっても、将来の夢を語り続け、それを真剣に聞いてくれる友人がいました。

それでも二人はけっしてただ慰めあっていたわけではありません。 将来の成功を真っ直ぐに見据えていたのです。

夢を語れば語るほど、そのイメージは具体的になっていき、目標に向かう闘争心はますます燃え上がります。

特に信頼する友人がうなずきながら聞いてくれていると、喜びも増し、まるでもう半分実現してしまったような錯覚さえ起きます。

これが成功を無意識に確信させてしまう、最良のイメージトレーニングになっていたというわけです。

この正反対が、友だち同士で、不平不満、愚痴、悪口やねたみを語り合うことです。

もしそういうことをあなたがしているとしたら、今すぐにやめてください。

それは夢の実現を最も遠ざけるものです。

そんな場面に遭遇したら、しれっとその場面から離れましょう。 そして熱く語れる友人に一報を。

2つの家計簿を使いこなす

お金の流れが一目瞭然になる

目標達成プロセスを家計簿に活かそう

家計簿をつけるとお金の流れを把握でき、管理することで貯蓄が増える。

一般的にはそういわれますが、現実はそうでもないようです。

家計簿はお金の日記帳ではありません。将来の予想を立てて、計画をつくり、実行して、結果を出す。 まさに、成功へのプロセスそのものです。

ですから、目標達成のプロセスと同じく、長期と短期の家計簿をつくります。

長期は年間の家計簿で、1年分の収支が把握できます。それと毎月のもの。

カテゴリーはできるだけ少なく、「食費」「日用品」「娯楽費」「特別費」くらいにして、絶対に必要な支出とそうでないものが一目でわかるようにします

大切なのはここから先です。目標達成と同じく、計画を立てます。

まずは来月の支出を予想し、1ヶ月分の予算を立てる。3ヶ月経てば今度は年間の予想をして年間の予算を立てる。

そのとき、いくら貯蓄したいかを明確にした上で行えば、1年経ったときに、それは実現しているでしょう。

家計簿は人生の目標達成のための小さな練習場、実験場のようなものです。

財布からお金を出すとき「ありがとう」と唱える

自分へのいたわりとなる

”幸福の呪文”があなたをお金持ちにする

人がお金持ちになるかならないかを見分けるのは簡単です。

それはお金に感謝しているかどうかです。お金を大切にしない、お金に感謝しない人間は絶対にお金持ちにはなれません

世の中には、大切なはずのお金をぞんざいに扱う人がいます。

お札をくしゃくしゃにしてしまったり、小銭を落としても拾わなかったり、友人に借りたお金を返さなかったり。

こういう人たちはまずお金持ちになれない運命にあります。彼らの脳は、お金のことをどこかで「不快」に思っています。

人生はお金じゃない、お金は汚い、というようなイメージです。

お金に感謝をしないと、お金にも感謝されず、まるで生き物のように去っていきます。

ここに一つの「幸福の呪文」があります。財布からお札を出すときに、必ず「ありがとう」と心の中で唱え、さらに「仲間をつれて、もどっておいで」と付け加えます

この呪文によって、本当に大企業の会長になった人がいるのです。

日々消費するお金に対して、その都度意識すること、これがお金持ちになる秘訣です。

お金は神聖なもの困ったときの神頼み

儲ける力が湧いてくる

お金を儲けるという行為は神聖なものである

神社とは文字通り、神様が宿る場所、あるいは神様が降りてくる場所といわれています。

古くは、山や海、大きな岩、大木などには神が宿ると言われ、神聖な場所として人々の信仰の対象となっていました。

時代とともに、そこに神を祭る建物ができ、現在に至ります。

神社にはご利益というものがあり、仕事や金運、縁結び、健康・厄除け、学業・合格など、それぞれ違った効能をもっています。

あの神社にお参りしたら仕事が大成功した、などという話はよく聞きますが、だからといって、他の人が行っても同じようになるとは限りません。

お金を儲けることはけっして卑しいことではなく、いろいろな人を幸せにするために必要なこと。 それを神聖な神社で願うことは理にかなっています。

ただ神様に成功をお願いするだけではなく、夢をかなえてくれるお金に感謝し手を合わせることが大切です。

それがご利益につながるのかは誰もわかりませんが、不思議なことに、素直にお金を儲ける力が湧いてくるというものです。