宗教が誕生するまで

人間は考えるために言葉を身につけた

通説によると、現世人類の祖先ホモ・サピエンス・サピエンスは、今から約20万年前に東アフリカの大地溝帯で生まれました。

そしてそれから約10万年後、我々の祖先はアフリカを出て世界に旅立って行きました。

その理由は、主たる食糧であった大型の草食哺乳類(メガファウナ)が、少なくなったからだと考えられています。

最近の研究によると、人にはFOXP2という遺伝子があって、これが言語中枢に関わっていることが、明らかになってきています。

そしてこのFOXP2が、10万年前、人類の出アフリカの前後に少し変化をして、言語をもたらしたという学説が有力になっています。

さらに、なぜ言語が必要になったのかといえば、脳が進化して思考するツールを求めたからだと考えられています。

人間の脳が発達して考えることが可能になっても、それをどのようにまとめるのか、言語がなければ思考はまとまらないではないか、という考え方が支配的になってきました。

その考え方の裏づけとなったのが、FOXP2という遺伝子の存在が明らかになったことでした。

考えるツールとしての言語を獲得したことで、人間は世界や自らの存在について、根源的な問いを持つようになったのです。

人間は時間について、どのように考えてきたのか

この空間、自分たちが生きている世界は、どうしてできたのだろうと考え始めた人間は、次に時間の存在について思索を開始しました。

太陽の動きと月の満ち欠け、そして一日の始まりと終わり。人間にとって時間との関係は、まず、時間をいかに管理するかという問題でした。

その結果として生まれてきたのが暦です。 最古の太陽暦の一つはエジプトで、ナイル川の氾濫を予知する目的でつくられました。

ナイル川は一定の時期に増水して氾濫し、そのときに上流から大量の土砂を運んできます。

そして水が引いた後に肥沃な大地を残していきます。この豊かな大地が農作物の豊穣をもたらしてくれるのです。

生きるためには農業がすべてであった時代のことです。人々は、ナイルの氾濫を待ち望みました。

そしてそのときが訪れる頃には、日の出直前の空におおいぬ座のシリウスが出現することを、長い歳月をかけて知りました。

その日がいつ訪れるか?そのことを知るためにエジプト人は、夜空を見つめ、太陽の動きを観察し続けたのでしょう。

太陽が一番長時間、空に輝く日(夏至)を頂点として、一番昼間が短い日(冬至)に向かって衰えていく。それからまた、日射しを伸ばしていく。

そういうサイクルであることを、古代のエジプト人は学んだのです。こうして彼らは、一年という周期を意識するようになった。すなわち地球が太陽を回る周期(約365.24日)を知り、その知識をもとにして太陽暦をつくったのです。

一年という概念に比べれば、一日の変化の意味はより理解しやすかったことでしょう。

朝に東から太陽が昇り、夜になると西に沈み、また朝になると太陽が昇る。この一日を小回転と考えれば、一年は大回転であるなと。

しかし、一日を何回も何回も繰り返さないと、一年という大回転にはなりません。

一日と一年の時間差が大きすぎて、時の流れを十分に把握しきれなかった。そのときに注目したのが、夜空の月です。

月は見えない夜(新月、朔)から始まって、丸くなる夜(満月)となり、また細く欠けていく。

この月が地球を一回転する周期に、およそ29回(約29.53日)の夜を重ねることを学びました。こうして人は一日と一年、一月という概念を身につけたのです。

一週間の起源については、七曜(太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星。肉眼で見える大きな星のことで、中国の五行説と結ばれました)に由来する、あるいは太陰暦の一か月を4等分したものであるなどといわれています。一週間はメソポタミアが起源です。

この月の満ち欠けは日数を知るのに便利でしたので、これを利用してつくられた暦が太陰暦です。

歴史的には太陰暦のほうが早くからメソポタミアで使われていました。太陰暦で一年を構成すると約354.36日となります。

エジプトで最初に太陽暦がつくられた理由は、太陰暦だと、太陽の大回転する日数(約365.24日)に約11日ほど足らなくなります。それでは、農作の恵みをもたらす大氾濫の訪れを、規則的に把握できないことを知り、太陽暦を考えついたのです。

なお、太陽暦の365日に合わせて、日数を調節してつくられたのが太陰太陽暦(太陰暦に閏月を入れて約11日の短さを補った暦)です。

メソポタミアではBC2000年紀には、すでに太陰太陽暦が使用されていました。現代ではイスラーム社会の太陰暦を除いて、ほとんどの国が太陽暦を使用しています。日本は1872(明治5)年に太陽暦へ切り替えるまで、太陰太陽暦を使用していました。

明けない夜はなく、春はまた巡ってくる。

暦を考え出したことで人間は円環する時間を管理するようになりました。

けれど、その円環する時間の中で生きている人間の一生は回転して再生しないことにも気づきました。誕生して歩み始め、大人になり、やがて老いて死んでいく。人間の一生は直線なのです。

自然を司る円環する時間と人生を支配する直線の時間、2つの時間があるという概念を知った人間には、次のような思いが浮かんできたのではないでしょうか。

人生の直線が終わった後はどうなるのか、どこかに行く世界はあるのだろうかと。

あるいは人生が始まる前は、一体どこにいたのだろうかと。

人間の突然の変化、ドメスティケーションと宗教の関係

ドメスティケーションdomesticationという言葉には飼育、順応、教化などの意味があります。

学術用語としては、次のように説明されています。

「 『人間が野生の動植物から、それまでには存在しなかった家畜や栽培植物を作り出す』こと。動物については家畜化、植物については栽培化。ドメスティケーションの起源の問題は、考古学、地理学、人類学、栽培植物学、遺伝学などの幅広い分野において関心を集めている」

人間が植物を栽培したり、動物を家畜化したりするために、欠かせない条件があります。それは人間が定住生活を営むことです。

東アフリカから、より多くの獲物を求めてグレートジャーニーに旅立った人類は、世界中へ移動して行きました。

人類の立場から定住生活を考えてみると、それは必ずしもいいことばかりではありません。

一ヶ所にずっとみんなで住んでいると、排泄物の処理だけでもたいへんです。病気が発生したら感染しやすいです。

なぜ、意識が変わったのか定説はありませんが、人間の意識が移住生活から定住生活に変化したといわれています(移動が自由にできなくなったので、定住せざるをえなかったという説もあります)。

人間が定住生活をし始めたドメスティケーションのときに、人間の脳は最後の進化が終わり、それから今日まで進化していないといわれています。

こうして人間は定住し、世界を支配し始めました。植物を支配する農耕に始まり、動物を支配する牧畜、さらには金属を支配する冶金と、植物、動物、金属、すべてを人間が支配するようになりました。

ドメスティケーションは、狩猟採集生活から農耕牧畜生活への転換であったのです。

ドメスティケーションは、今から約1万2000年前にメソポタミア地方で起きたと推測されています。

周囲に存在するものを順次、支配していった人間は、次にこの自然界を動かしている原理をも支配したいと考え始めたのです。

誰が太陽を昇らせるのか、誰が人の生死を定めているのか、神という言葉も概念も当初はなかったでしょうが、何者かが自然界のルールをつくっていると考え始めたようです。

この推論を有力にした理由の一つが、メソポタミアの古代遺跡から、女性をかたどったとしか思われない土偶が発掘されたことでした。

その用途に、具体的な目的は考えにくく、それに何か特別な意味を込めていたとか、拝んでいたという以外には、考えられないのです。

世界最古の神殿と目されるトルコのギョベクリ・テペ遺跡は約1万2000年前のものです。この時代に、人類は間違いなく大きな転換を迎えたのです。

ギョベクリ・テペ遺跡

以上のような検証から、ドメスティケーションを経て人間は、宗教という概念を考え出したと推論されています。

付言すれば、古代エジプト人が太陽暦を開発したプロセスも、時間を支配するという意味でドメスティケーションの一形態でした。

テミストクレス    

強みだけでは勝てない。  強みを活かせる状況をつくる

前492年 ペルシャ戦争

10倍の大軍・ペルシャ帝国に、ギリシャはなぜ勝てたのか?

紀元前九世紀から繁栄を始めた古代ギリシャ都市。アテネやスパルタなど現代も知られる都市国家は、東方の巨大帝国アケメネス朝ペルシャの侵略に立ち向かう。10倍の規模の圧倒的なペルシャ帝国に、ギリシャ連合はどのように戦い、勝利をつかんだのか?


民主主義国家アテネと軍事国家スパルタ

古代ギリシャでは、紀元前30世紀頃に初歩的な文明が始まります。

人類史で最初の民主主義国家として知られるアテネは、紀元前9世紀の貴族による寡頭政治から、段階的にすべての住民が参加する政治形態となります。

“スパルタ教育”という言葉を残した都市国家スパルタは、紀元前9世紀頃に成立。周辺都市を隷属させて生産活動をさせ、軍事と政治に専念する特殊な国家を築き上げます。

戦時には一人のスパルタ人に七人の隷属民が従ったため、反乱を抑えるためにスパルタ人は常に強くあるべきとして、軍事的な訓練を日夜行う陸軍強国となっていきます。

スパルタ兵は、ギリシャ世界の危機だったペルシャ戦争では常に指揮官の地位で戦いました。

スパルタの市民権を持つ戦士は盾にラケダイモン(スパルタ人の呼称)の頭文字「Λ」(ラムダ)が書かれており、戦場で彼らの存在はすぐにわかったのです。

10倍のペルシャ軍と戦う、ギリシャ世界最大の危機

アケメネス朝ペルシャは、ダレイオス一世の治世に大いに繁栄。エジプトから中東にかけてのオリエント全域へ支配を拡大し、中央集権の巨大君主国をつくり上げます。

紀元前494年、ペルシャが支配するイオニア地方に反乱が起こります。

これをギリシャ都市が支援したことにペルシャは怒り、紀元前490年、エーゲ海を渡りアテネに近いマラトンに上陸します。   これがマラトンの戦いです。

兵力差は約2倍(ギリシャ連合約一万VSペルシャ軍約二万)。

重装備の歩兵を主力とするギリシャ連合は、ペルシャ軍の騎兵が移動した隙を狙い、突撃を開始します。

弓の射程距離に入った瞬間に駆け足で接近。ペルシャ兵が弓を十分射る前に白兵戦に持ち込みます。

さらにギリシャ連合は両端の兵士がペルシャ軍を突破。ぐるりと迂回してペルシャ軍の背後から挟み撃ちを行い、ペルシャ軍の中央は混乱をきたして潰走しました。

ギリシャ連合は、ペルシャ軍の特徴だった騎兵と弓を使う戦法を封じ、白兵戦へと持ち込みました。

重装備のアテネ陸軍は、白兵戦になれば圧倒的に有利となります。また、数の上では完全に負けていた相手に対して、背後からの挟み撃ちによって大軍を混乱させることに成功したのです。


マラトンの戦いから10年後、第二次ペルシャ戦争が勃発します。今度はギリシャ連合の少なくとも10倍(一説には30倍以上)のペルシャ軍が派遣されます。

未曾有の危機にギリシャさ団結、スパルタ王レオニダスも300人隊を率いて参戦します。

映画『スリー・ハンドレッド』でも有名なテルモピュライの戦いが行われたのは、狭い通路状の戦場で、ギリシャ連合が少数でも不利になりにくい地形でした。

陸戦は、ギリシャ連合の有利で始まりますが、二日目の夜、かペルシャ軍はスパルタ軍の後方に出る抜け道を地元ギリシャ人から聞き出し、闇夜に精鋭部隊を急行させます。

翌日、決死のレオニダスと兵士たちは奮戦。しかし、後方に回ったペルシャ軍が参戦すると不利になり、ギリシャ連合は丘に上がり最後まで勇戦しながらも、ついに全滅します。

ペルシア戦争 B.C.500〜B.C.449

アケメネス朝ペルシアとギリシャの諸ポリスとのあいだの戦争。3回にわたるペルシア軍の進攻をギリシャが撃退した。前449年カリアスの和約で両国は不可侵を約し、戦争は集結した。

敗戦後、圧倒的なペルシャ陸軍の脅威に、ギリシャ連合は陸戦の放棄を決断します。

指揮官のテミストクレスはマラトンの戦いで陸戦の限界に気づいたアテネ軍人で、すでに海軍力を強化していた人物でした。

彼はペルシャにギリシャ海軍の居場所を密告して誘い込み、ギリシャ連合の海軍が、敵を迎え撃てるように仕向けたのです。  これがサラミスの海戦です。

大規模な兵員を輸送するためにつくられたペルシャ艦隊に比べて、ギリシャ艦隊の船団は突撃型の強固な船体として設計されていました。

その強みを最大限に活かせるように、サラミス海特有の追い風を利用して、ギリシャ艦隊はペルシャの大船団へ突入して破壊します。こうしてギリシャ連合は、再び劇的な勝利を実現したのです。

「強み」は活かさなければ意味がない

よく「強みを活かす」という言葉がビジネスでも使われます。この言葉で注意したいのは、「強み」だけでは勝利できない点です。

ペルシャ軍の強み 

●圧倒的な大軍 ●弓と騎兵を中心にした戦術

ギリシャ連合の強み

●アテネ陸軍は重装歩兵 ●スパルタ軍は精鋭戦士団による白兵戦 ●突撃力を極度に高めた設計のアテネ海軍

これらの強みは、勝敗を左右する大きな武器となります。特に軍隊における数的有利は直接戦力の増大につながります。

しかし実際には、兵力で劣っていたギリシャ連合が、マラトンの戦いとサラミスの海戦で勝利しています。これは、強みがあるだけでは勝てないことを歴史が証明しているともいえます。

ギリシャ連合がペルシャ軍に正面から攻撃を仕掛けたり、アテネで籠城すれば、圧倒的な大軍のペルシャに悲惨な敗北を喫したかもしれません。

数で優位なペルシャ軍が敗北したのは、大軍の強みを活かした戦い方ができなかったからです。

勝利は単なる強みではなく、「強みを活かせる状況づくり」にかかっているのです。

  • 「強み」×「まったく活用できない状況」=敗北
  • 「強み」×「最大限活用できる状況」=勝利

この構造を理解すると、「当社は高い技術力がある」「当店の料理は美味しいです」などの言葉は、活用される状況が整わないと利益を生み出しません。

富士フイルムはかつて写真用の化学フィルムで有名でしたが、2014年のフィルム売上高は全体の1%前後に過ぎません。

化学フィルムの市場は縮小を続けたため、富士フィルムの技術的強みは、化学フィルムに固執していては勝利を生み出せなくなったのです。

近年は、その技術的強みを活用できるように、医療やライフサイエンス、ヘルスケアなどの領域で業績向上を実現しています。

企業にとって強みは絶対に必要ですが、時代の変化や競合との関係により、その活用の仕方は変化していきます。

組織において、強み自体は大きく変化しません。重要なことは、その強みを活かす環境が変わっていくことです。

企業がいかに勝つかを考え、繁栄を続けていくためには、強みと同様に「強みを活かす状況」をいかにつくるかを考えることが戦略思考の第一歩だと、古代のギリシャ戦史は教えています。

置かれた状況を正しく理解して環境変化に対応できるか、自分の強みを活かせる環境を自らつくっていけるか、歴史の勝者は古代から現代まで同じ道を歩んでいるのです。

テミストクレス 前520年頃〜前455年頃

アテネの政治家・軍人・マラトンの劇的な勝利で沸き立つなか、ペルシャ軍の再来襲に備えて海軍力の強化を進める。ギリシャ随一の策士としてサラミスの海戦で劇的な勝利を収めた。


Mental disorders increased by materialism

One dark side of materialism is its effect on our happiness.

Now that it has provided so many millions of us with the basics of material wellbeing, materialism seems unable to also improve our overall wellbeing.

Instead, it increasingly looks like it is doing the opposite.

Rather than making us feel good, materialism is making millions of us feel joyless, anxious and, even worse, depressed.

Material goods, it must be said, can be useful for self-expression and signifying status—the type of shoes or shirt you wear says a lot about you, for instance.

But in our materialistic consumer culture, we have come to rely on material goods too much, and they are letting us down.

In today’s materialistic culture, many people believe material things can solve emotional problems.

But this is a “false promise”.
Retail therapy does not work.

Instead, it is more likely to make your problems worse—by putting you in debt, for instance.

In today’s culture, material goods have become substitutes for deep and genuinely meaningful human desires and questions.

Consumer culture has become a sort of pseudo religion.

Instead of pondering meaningful questions, like “Why am I here?”, “What happens after death?”, “How should I live?”, it is easier to focus on questions like “The blue one or the red one?”, “Will that go with the top I bought last week?”, “What will she think if I buy that?”

Instead of trying to understand who we really are, we reach for the “Real Thing.”

And, brainwashed by the system, when the goods we buy fail to match up to those deep desires, instead of giving up on material goods, we just keep banging our heads against the wall and buying more.

Mass-produced goods, which are the natural product of the system, are the worst of all.

They are so stripped of meaning and novelty that they have little chance of genuinely exciting or inspiring us.

So we become quickly bored with the goods we have and, in the search for novelty, move on to the next thing, and begin the process again.

Even where material goods are helpful, by signifying status, they create more problems than they solve.

Because, in today’s meritocratic society, having goods signifies success and, equally, not having goods says failure.

As a result, we are not only smugly or painfully aware of who is above or below us in the pecking order.

We also know we can clamber up or slip down the rankings at any moment.

It is like living in an immense, stomach-churning session of Snakes and Ladders, where the game never stops and where everybody is a competitor.

To play this paranoia-inducing game—and it is a game we all play—millions of us spend our days and nights worrying about our place in the pecking order, and scheming to get up the ladders and avoid the snakes.

The end result is millions suffering from material-focused status anxiety.

Even worse than giving us status anxiety, materialism is making people depressed, in record numbers and to a record extent.

From the 1970s to the turn of the century, mental illness in children and adults in developed countries doubled.

A quarter of Britons now suffer emotional distress.

Americans are three times more likely to be depressed today than in the 1950s.

Those statistics are so shocking that many try to explain them away by pointing out that people tended to suffer silently in the past, and that doctors are quicker to diagnose and prescribe anti-depressants today.

But those numbers are based on extensive and robust research, on anonymous survey reports from individuals and not from doctor diagnoses.

So there is no doubt that depression is increasing, and at an alarming rate.

This becomes even more illuminating, and concerning, when you make comparisons between countries.

Because, it turns out, emotional illness increases with income inequality, which also tends to be higher in English-speaking nations.

In other words, the more a society resembles the US, in that it becomes materialistic, the higher the rate of emotional distress.

The logical conclusion is one of the darkest sides of materialism: mass production and mass consumption, ultimately, cause mass depression.

That, surely, is not what anyone would call progress.

James Wallman. Stuffocation :Living More With Less.

[全訳]

物質主義によって増える精神疾患


物質主義の暗い側面のひとつに、我々の幸福に与える影響がある。

物質主義が何百万人もの我々に物質的な幸福の基盤を与えてきた今、物質主義が我々のすべての幸福をより良いものにするというのは不可能なように思える。

それどころか、物質主義はますますその反対をいくように見える。

我々を幸せな気持ちにさせるよりも、物質主義は何百万人もの我々を不幸に、不安に、さらに悪いことに憂うつにさえさせている。

物質財が自己表現や身分を示すために役に立つであろうことは言わねばならない。

例えば、あなたが身につける靴やシャツはあなたについて多くを物語る。

しかし、物質主義的な消費文化では我々は物質財に頼りすぎるようになり、それらに失望させられている。

今日の物質主義的文化では、多くの人が物質的なもので感情的な問題を解決できると信じている。

しかし、これは「誤った期待」である。 リテールセラピー(精神的に健康になるため買い物をすること)は効果がない。

それどころか、そういったものは問題をさらに悪化させる傾向にある。例えば、借金を抱えさせたりして。

今日の文化において、物質財は奥深く真に意義ある人間の欲望や疑問の代用品となっている。

消費者文化はインチキ宗教のようになってしまった。

「なぜ私はここにいるのか?」「死後に何が起こるか?」「私はどのように生きるべきか?」などの有意義な問いを熟考する代わりに、「青い方か?赤い方か?」「それは先週買った上着に合うか?」「もし私がそれを買ったら彼女はどう思うか?」というような疑問に焦点を合わせる方が簡単である。

我々が一体何者であるのか理解しようとする代わりに、「実物」を手に入れようとするのだ。

そして、この仕組みに洗脳され、買った物がそのような深い欲望に合わなかった時、我々は物質財に見切りをつけるのではなく、不満がたまりいらいらしつつも、さらに買い物を続けるのである。

この仕組みの自然の産物である、大量生産された商品は最も悪質である。

それらは意味も目新しさも剝ぎ取られているため、我々を真にワクワクさせたり感激させたりする可能性がほとんどないのである。

それゆえ、我々は自分が持っているものにすぐに飽きてしまい、目新しさを探し求めながら、次の物へと乗り移り、同じ過程を繰り返すのである。

物質財が有益な場合でさえも、身分を表すことによって解決するよりも多くの問題を引き起こす。

なぜなら、今日の能力主義社会では物を所有していることが成功を意味し、同様に、物を所有していないことは失敗を表すからである。

結果として社会の序列で誰が上か下かということを独りよがりに、もしくは苦しみながら気づいているだけではない。

我々はいつでもその格付けをはい上がったり、滑り落ちたりする可能性があることも知っているのである。

それはまるで戦いが決して終わらず、皆が競争相手である、ヘビと梯子(ボードゲームの一種)の際限がなく吐き気がするような試合の中で生きているかのようである。

この偏執症を引き起こすようなゲームをするために、つまり我々がしているゲームのことであるが、何百万人もの人が昼も夜も社会の序列での位置を気にして過ごし、ヘビを避けながら梯子を上ろうと企んでいるのである。

その最終結果が物質を中心とする地位に関する不安に苦しむ何百万という人々である。 

地位に関する不安を与えることよりもさらに悪いことに、物質主義は史上最多で史上最広域の人々を鬱(うつ)にさせている。

1970年代から21世紀への変わり目までに、先進国の子どもと大人の精神疾患は2倍に増えた。

今日、英国人の4分の1は精神的な苦痛に苛まれている。

アメリカ人は今日、1950年代よりも3倍鬱になる傾向がある。

これらの統計はとても衝撃的で、多くの人々は昔の人々が黙って苦しむ傾向にあったことや、今日の医者がすぐに診断して抗鬱剤を処方することを指摘してそれらの事実を弁明しようとするのである。

しかし、それらの数字は医者の診断によるものではなく、個々の匿名の調査報告という大規模で確かな研究に基づくものである。

したがって、間違いなく鬱は増加している、しかも驚くべき速さで。

これは国家間の比較で顕著になり、そして厄介なことになる。

なぜなら、精神疾患は所得の不平等とともに増加し、それはまた英語圏の国々においてより高い傾向があることが判明するからである。

言い換えれば、ある社会がよりアメリカ合衆国に似る、つまり、より物質主義化すればするほど、精神疾患の割合は増えるのである。

この論理的な結論が物質主義の最も暗い側面のひとつである。

すなわち、大量生産と大量消費が最終的に大勢の鬱病患者を生み出すことである。

それは間違いなく誰も進歩とは呼ばないだろう。



Evolution and existence of humanity

 We are apes that have done very well, I’m not denying that.

It’s extraordinary that a species of ape has managed to be quite so successful.

We create wonderful things, including art, music and literature, as well as technology which improves our chances of survival, reproduction and longevity.

But just as we, as individuals, are not going to live forever (however hard that is to stomach), our species is not going to be here for all eternity, either.

We might have slowed evolution down a bit, taken the edge off the scythe of the grim reaper we know as natural selection, in developed countries, at least, but even in such privileged places where each baby has a very good chance of surviving to adulthood, there will be differences in how many children couples have, and those differences will change the frequency of genes in the population.

Slowly, perhaps, but it’s still evolution.

 It’s possible that no significant changes will occur to us, at least anatomically, while we’re in this exalted state where we can control and maintain the stability of the environment we live in.

We could become living fossils, like horseshoe crabs and coelacanths, while other species rise and fall around us.

We have given ourselves a real fighting chance of surviving local cataclysms by spreading right across the globe, in vast numbers.

But ultimately, it’s likely that a catastrophic change to our environment, which, let’s face it, could even be of our own making, will drastically change the rules of the game.

At that point, our species might be extinguished, or it could be reduced to a few small populations hanging on in places which are still just habitable.

In those refuge, natural selection would sharpen up its scythe and get to work, and the effects of genetic drift could also be profound.

In such circumstances, the future of humanity could look very different from its present incarnation.

 I’m not going to polish up my crystal ball to try to predict the future for our species—there is too much unpredictability in evolution and in the galaxy for that—but I will make some predictions about how humans won’t change in the near future: we won’t grow extra, fully functioning fingers or toes; the pentadactyl pattern is too deeply embedded in our genomes now to make that at all likely.

We won’t grow wings, or extra legs, for the same reason.

As long as we retain some technology to keep us warm in cold places (shelters, clothes, fire), we won’t grow furry again—unless that becomes, inexplicably, something which is considered to be very attractive.

It’s as hard to predict where our evolutionary destiny lies as it would have been to predict, 66 million years ago, that some of the mammals who hid from the dinosaurs would have evolved into monkeys, that some of those would have evolved into apes, and that some apes would have become habitual terrestrial bipeds—very good with their hands and very clever.

I don’t think the happenchance and contingency (which is still there, albeit channeled by constraints) of evolution should make us feel inconsequential or insignificant.

For me, well, I feel extraordinarily lucky to be here.
Just imagine, for a moment, how easy it would have been not to be here.

(Alice Roberts, The Incredible Unlikeliness of Being: Evolution and the Making of Us. )

[全訳]

人類の進化と存在

我々はとてもよくできた猿である、ということを否定しているわけではない。

類人猿という種がなんとかこんなにも成功できたのは並外れたことである。

我々は生存、生殖、長命の可能性を高める技術はもちろん、芸術や音楽、文学を含め素晴らしいものを作り出す。

しかし我々は個々人としては(どれだけ強く願ったところで)永遠に生きることはないので、我々の種が永遠に存在し続けるわけでもない。

少なくとも先進国においては、我々が自然淘汰として知っている死神の大鎌の刃をなまらせ我々は進化を少し遅らせたのかもしれない。

しかし赤ん坊が大人になるまで生きられる可能性を多くもつそんな特権のある場所でさえも、夫婦が何人子供をもつのかという差は出てくるし、その差はその人口の中での遺伝子頻度を変える。

ゆっくりだったり、おそらくだったり、しかしそれでも進化である。

我々が住む環境の安定性を操作し、維持できるという現在の優位な境地にいる間は、少なくとも解剖学的には我々に大きな変化が起こらないということはあり得る。

他の種が周囲で興廃する一方で我々もカブトガニやシーラカンスのように生きた化石になりうる。

我々は膨大な数で地球全体に散らばることで各地の大変動を生き延びるというかすかな成功のチャンスを自ら手に入れてきた。

しかし、自業自得の結果(現実を直視しよう)であるかもしれないが、我々の環境の壊滅的な変化が劇的にゲームのルールを変えてしまうことになりそうだ。

その時点で我々の種は絶滅してしまうことになるかもしれないし、まだかろうじて居住に適した場所にすがりつきながら人口を少数に抑えることになるかもしれない。

そういった退避地では自然淘汰がその鎌を研いで働くようになり、遺伝的浮動が深刻になるであろう。

そんな状況において人間性の未来は現在のありようとは随分と違ったものに見えうる。

進化やこの宇宙には予測不可能なことが多すぎるので私は水晶玉を磨いて我々の種の未来を予測することはしないが、近い未来、人類がどれほど変化することがないかについて少し予測してみよう。

我々は完全に機能する余分の指や足の指を生やすことはない。

今や五指性はそのようなことが起こりそうにないほど我々のゲノムに深く埋め込まれている。

同じ理由で羽根を生やすことも余分な足を生やすこともない。

小屋や衣服や火など寒い場所で身を暖める何らかの技術を保持できる限り、そして不可解にもそれがとても魅力的だとみなされるものにならない限り、再び毛むくじゃらになることはない。

今後の人類の進化がどのようになるかを予測するのは恐竜なら身を潜めていた哺乳類の一部が猿へと進化し、そのまた一部が類人猿へと進化し、その類人猿の一部が地上を習慣的に二足歩行し、手先が大変器用な賢い動物になるのを6600万年前に予測するのと同じくらい困難である。

私は進化における偶発事象や不慮の事象(制約によってもたらされたにもかかわらず、そこにある)が我々を取るに足らないものやつまらないものであるような気にさせるべきでないと思う。

私は、今ここに存在することができ非常に幸運だと感じている。

想像してみてほしい、ここに「いない」ことがどれほど簡単であろうか。

ひたすら信じる

成功者たちのパワーの秘密は、実は単純明快なものです。自分の才能を全面的に信じること、これに尽きます。

彼らは自分に対処できない状況などないと自信を持っています。いくら険しい道のりでも才能の導きによって乗り越えて行けるのです。

このようなエグゼクティブは、いつも必ず成功しているわけではないし、満点の成績をあげようとしているわけでもありません。

彼らの信念とは、どんな最終目標であれ、自分の才能が最良の結果に導いてくれるとひたすら信じるということです。

たとえ一時的には「失敗」だと思える結果に終わったとしても、最善の決断をしたと自負しています。

自分の才能が道を示してくれると信じているのです。

自分の才能を信じるようになれば、どんな仕事をすることになっても慌てることはないでしょう。

今この瞬間にも、本当に必要な才能はすべてあなたに備わっています。

最高の人生を実現するために必要なものは全部、手にしています。

仕事でも私生活でも、可能性を最大限に引き出すのに役立つ、効果絶大の切り札があなたには与えられています。

才能は天賦のものであり、才能から運命が芽生えてきます。

どんな人生を歩んでいる人でもー裕福でも貧乏でも、頭が良くても教育を受けていなくても、強壮な人も身体に障害のある人も、雄弁な人も内気な人もービジネスで成功をおさめることはできます。

自分はどんな才能を持っているかを理解し、その才能に全幅の信頼を置くこと、これが成功の秘訣です。 ビジネスにおける成功の秘訣とは、いってみれば、これほど単純なものです。

ビジネスの成功というものは、その人の個性的な才能が自然に開花することによってのみもたらされます。

自分の才能を見つけて伸ばしていくようにすれば、生来のリーダーシップのあるべき姿となり、ビジネスリーダーへの道が開けてきます。

他の道とはあまりにも違うかもしれませんが、その人にとっては成功へと続く正しい道です。

しかも唯一の道。最高の結果を成就するためにはこの道しかないのです。

人はさまざまな才能を併せて持っています。

この先も今のまま変わることなく、失われることもありません。

自分に備わった才能を活用して精一杯の成果をあげること、それがあなたに与えられた課題です。

成功のために新たに手に入れなければならないものは何もありません。

他人を真似る必要もありません。

必要なものはすべて手元に揃っています。

⭐️ あなたにはあなただけの個性的な才能がすでに備わっている。

インプリメンテーション(実装)

最後に必要なのは、物理空間での知識

瞑想によって情報場の因果関係を書き換えれば、その情報因果は情報空間から物理空間へと影響を与え、物理空間で現象化します。

情報因果を自らコントロールすることで、世界や自分を思いのままに書き換えることができるのです。

ただし、物理空間で現象化するには、一つの条件があります。

それは「物理空間の制約」をふまえることです。

物理法則の制約がほとんどない場合については、情報因果の影響がスムーズに物理空間へと流れて現象化します。

トラウマが脳神経の傷となり、病気へと発展していくのは、こちらのケースに当たります。

逆に物理法則の制約が大きい場合は、情報因果を物理空間に落とし込むときに、物理空間での仕上げの作業が必要になります。 それが「インプリメンテーション(実装)」です。

情報因果を物理空間に実装するときに不可欠なものは知識です。

物理法則に関する知識だったり、何かものを作るための知識だったり、人間社会の仕組みに関する知識だったり、物理空間の事象に関わる広範で専門的な知識です。

瞑想力は、物理空間のインプリメンテーションとセットになってはじめて、この世界や自分を書き換えるための圧倒的なパワーをもつのです。

インプリメンテーションの重要性については、コンサルティングとコーチングの違いを例に挙げて説明しましょう。

経営コンサルタントは、たしかに瞑想力にすぐれています。

クライアント企業やマーケットの状況(情報)を高い抽象度で分析し、情報因果を組み立て、相手が抱えている問題を解決するための斬新な経営プランを提案できます。

ところが、彼らはあくまで外部の人間であり、クライアントや業界に関する具体的な知識量が足りていません。

たとえば、かつて三菱銀行に来た外資系経営コンサルタントは、三菱銀行のトップに「三菱の名前をやめろ」と提案したそうです。

たしかに社内の人間では絶対に思いつかないような、まさにスコトーマになっていたプランですが、経営陣は決断できなかったようです。

経営コンサルタントは社外の人間ですから、インプリメンテーションを行う具体的かつ実際的な知識が豊富ではありません。だからつねに問題解決ができるわけではないのです。

一方、コーチングの場合は、クライアントのスコトーマをはずしたり、情報因果を組み立てるサポートはしますが、スコトーマをはずすのはクライアント自身です。

なぜならば、圧倒的な知識量をもつクライアント本人のほうが明らかに実装力があり、実際に問題を解決できる可能性が高いからです。

架空の世界を使って臨場感を強めよう 「スターウォーズ華厳瞑想」

解説

お経や聖書にいまいち関心をもつことができないという人は、マンガや映画を使って瞑想しましょう。

昔の日本人にとってお経は身近なものでした。また、キリスト教の国では今でも聖書はとても身近な書物です。

しかし、日本に住む多くの現代人にとっては、お経も聖書も少々縁遠いものではないでしょうか。

自分や世界を変える力をもっているのは、お経や聖書ではなく、あなた自身の心です。

その大原則さえはずさなければ、どんな道具を使って瞑想してもかまいません。

映画でいえば、個人的におすすめなのは70年代にスタートした大人気SF映画「スターウォーズ」です。

「スターウォーズ」が描いているのは、実は華厳の世界です。架空の銀河を舞台にした壮大な物語のなかに、釈迦の教えがちりばめられています。

ここでは「スターウォーズ華厳瞑想」と名づけて、「スターウォーズ」を使って瞑想する際のポイントをお教えします。

ワーク

「スターウォーズ華厳瞑想」は、お経瞑想と同じく、一つ一つのシーンに描かれている情報に意識を向けて、臨場感を強めることが大切です。

特に、物語の背後にある華厳の世界観に留意する必要があります。

強い臨場感を維持したまま瞑想することができれば、「あなたの情報場」と「華厳の世界の情報場」に関係性が生じて、「あなたの情報場」を書き換えることができます。

それでは、「スターウォーズ」の物語のなかで描かれている華厳の世界観について、いくつかポイントを挙げてみます。

フォースとは「心の力」

主人公をはじめとしたジェダイの騎士たちが使う「フォース」という超能力。あれは「心が生み出す力」のことです。

ダース・ベイダーは「十法界」

帝国軍のダース・ベイダーの描き方。エピソード4〜6では彼はフォースの暗黒面に落ちた悪役として描かれますが、もともとは(エピソード1〜3では)心優しき優秀なジェダイの騎士アナキン・スカイウォーカーでした。

彼は、愛する者を守りたいという情動にとらわれた結果、怒りや憎しみに心を支配されてフォースの暗黒面に落ちてしまいます。

しかしエピソード6で、息子であるルーク・スカイウォーカーが銀河帝国皇帝を自らの手で倒します。

ダース・ベイダーのなかには善の心も悪の心もあったのです。

彼自身がどちらを選ぶかによって彼の生き方が変わるということであり、それは十法界と同じ考え方です。

ヨーダやオビ=ワン・ケノービは「観音様」

エピソード4〜6でルークを導く存在としてオビ=ワン・ケノービやヨーダが登場します。

彼らは物理世界でルークを導くだけでなく、自らが死んだ後も時空を超えてルークに語りかけ、彼を導こうとします。

オビ=ワンやヨーダは、いつでも仏陀になれるのに、人々を導くために現世にとどまっている観音様のような存在です。

エピソード6の最後のシーンでは、善の心を取り戻したダース・ベイダーが、ヨーダ、オビ=ワンとともに観音様のような存在として登場します。

どれだけ悪いことをしても、心を入れ替えれば、すべての人が救われますよという結末は、いかにも大乗仏教的です。

ほかにも、宇宙空間をワープして一瞬でほかの場所へ移動するシーンがありますが、ワープはまさに瞑想のパワーですし、ルークが恐怖に向き合うシーンも仏教的な描かれ方をしています。

とはいえ、西洋人が作った映画ですから、すべてが仏教的ではありません。

典型的なのが、帝国軍の宇宙要塞デス・スターが星一つを丸ごと破壊してしまうシーンや、共和国軍がデス・スターを破壊してしまうシーンです。

まるで天罰のように一気に人を殺してしまうのは、西洋的といえるでしょう。

これらのシーンを除けば、大筋は仏教的で、華厳瞑想の道具としてはいい映画だと思います。

空を体感しよう 「般若心経瞑想」

解説

抽象度の高い情報空間で強い臨場感を維持するためのトレーニングとして、言語化された物語を使う方法があります。

物語には、古今東西の文学作品のほか、宗教の教典も含まれます。 仏教のさまざまなお教やキリスト教の聖書、イスラム教のコーランなどです。

物語を使った瞑想は、抽象度を上げたときにも強い臨場感を維持しやすいというメリットがあります。

言語によって描かれたストーリーを読むことで、そのストーリーを実際に体験したかのように、同じ効果を脳に与えることができるからです。

また、言語化されているため繰り返し読むことができるので、脳内で何度でも同じ体験を繰り返し、瞑想空間の臨場感を強化していくことができます。

注意しなければならないことは、どのような物語でも臨場感のトレーニングに使えるわけではないということです。

瞑想に適した物語と適してない物語があるのです。瞑想に適した物語の条件は、「他人が作った抽象度の高い情報空間であること」です。

そもそも自分で作った物語では瞑想はできません。自分の作った物語で自分勝手なイメージをいじくりまわすのは、ただの妄想です。

音楽を例にとるとわかりやすいかもしれません。どんな前衛的なことをやる音楽家も、大前提として音楽の基本ルールである楽曲を学ぶ必要があります。

楽曲を学び、音楽の世界の基本的な方法論を理解してはじめて、そのルールを超える前衛を表現できるのです。

自分勝手に音を鳴らしているだけでは、ただの音の連なり、もしくはノイズであり、そもそも音楽にはなりえません。

さらに、「他人が作った」物語のなかでも、「抽象度の高い」ものを選ばなければなりません。

抽象度の低い物語で他人の情報空間を共有してコントロールできるようになっても、瞑想のトレーニングとしてはあまり意味がないのです。

ワーク

お経は釈迦が説いた教えを記録した、あるいはそれを元にしたテキストで、さまざまなお経が現在まで伝わっています。

サンプルとして「般若心経」の一節を使って、情報空間で強い臨場感を維持するための方法をお教えします。「般若心経」は、空の思想を説くものです。

ところで、お経を読むとき、ただ単に「南無阿弥陀仏」などと唱えればいいと思っている人が大勢いますが、それでは瞑想になりません。

一つ一つの言葉、さらには物語全体に、どのような情報(書き手のメッセージ)が込められているのかを、強い臨場感をもって認識できてこそお経瞑想は意味をもちます。

では、どうすればお経に描かれた情報空間を強い臨場感をもって認識できるのでしょうか。手順は次のようになります。

  1. まずは、一つ一つの言葉の意味や、言葉のなかに描かれている世界を瞑想します。
  2. 一つ一つの言葉のイメージができたら、複数の言葉のイメージをつなげて統合します。つなげて統合することで、一つ上の抽象度のイメージを作ることができます。
  3. イメージの統合を繰り返して、抽象度の階級を一段一段のぼっていきます。最終的にお経に描かれている世界全体が、統合された一つのイメージとして瞑想できるまで繰り返します。

それでは、実際に「般若心経」の冒頭の一節を使って説明しましょう。

「般若心経」の冒頭は以下のとおりです。

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」

では、一つ目の文節の意味を見ていきましょう。

「観自在菩薩」

「観」と「自」と「在」と「菩薩」という一語一語のイメージを作っていきます。

「自在」とは、荒了寛大僧正によると、「自分の在るところ」「自由自在」という二つの意味があります。

だから「観自在」は「自分のいるところを見なさい」と「自由自在に見なさい」ということです。

「菩薩」は「悟りに向かって修行中の人」という意味で、自らの悟りと人々の救済のために働くことを同じレベルで実践した人のことです。

観自在菩薩は、止観瞑想に秀でた菩薩だったのでしょう。

観自在菩薩をイメージしながら、先入観、既成概念、知識による思い込みなどをすべて捨て去り、自分自身とその周囲を見つめることが、「般若心経瞑想」のスタートです。

般若心経瞑想を実践すると、止観瞑想に秀でた菩薩が、深い縁起の瞑想に成功して、人間のすべての営みが空であることを見極めたというイメージが、あなたの頭のなかにでき上がってくると思います。

そのときの菩薩の気持ちはどうだったのか? どのようなことを感じて、何を思ったのか? 空を見極めるとはどのような体感なのか? 具体的に自分の体感を使いながら、細かく瞑想してください。

個々の言葉の臨場感を維持したまま、個々の言葉のイメージを統合していくことで、強い臨場感を維持しながら抽象度の階段を上がっていくことができ、最終的に抽象度の高いお経の世界全体を、強い臨場感で瞑想できるようになります。

ちなみに、お経瞑想をするとき、もし言語だけではうまく臨場感を強めることができないならば、「仏像」「曼荼羅」などの道具を使ってみる手もあります。

仏教には、「仏像」や「曼荼羅」をはじめ、さまざまな道具があります。これらはすべて瞑想するために、つまりお経に描かれた情報空間に強い臨場感をもつために発明された道具です。

たとえば曼荼羅は、お経の世界を絵というビジュアルで描くことで、臨場感を強めようとしたものです。

描かれている絵には一つ一つストーリーがあります。その絵を手がかりに仏や菩薩のストーリーを強い臨場感をもって瞑想していくことが、曼荼羅を使った瞑想法です。

仏像も同じです。目の前に仏や菩薩の姿をかたどった立体的な像があることで、仏や菩薩の存在を強い臨場感をもって瞑想することができます。

また、金剛杵やシンギングボウルなど密教系の法具類も、臨場感を強める道具、心を制御する道具として使うことができます。

お経瞑想で大切なことはお経の世界を強い臨場感をもって瞑想することです。

華厳経瞑想は強烈なアファメーションにもなる

どのお経でも瞑想はできますが、もっともおすすめしたいのが「華厳経」です。

「華厳経」といわれてもいまいちピンとこない人は、有名な奈良の大仏を思い出してください。

この大仏は、正式名を「毘盧遮那仏」といい、実は「華厳経」の世界をあらわす仏なのです。

「華厳経」は、三世紀ごろに中央アジア(西域)でまとめられ、その後日本にも伝来しました。

奈良時代には華厳宗が成立し、奈良の大仏がある東大寺は華厳宗の総本山として今日まで栄えています。

数ある仏教経典のなかでも「華厳経」は、大乗仏教の深い哲学思想を述べたものとして有名で、菩薩行の実践を強調しています。

「華厳経」の内容をひと言で言い表すのは難しいですが、最大の特徴は描いている世界のスケールのデカさです。

時間と空間を超越したものすごく壮大な宇宙サイズの物語は、読んでいると銀河系のすべてのものがまるで豆粒のように感じられます。

科学では宇宙が誕生して一三六億年としていますが、その年月が一瞬のように感じられます。

壮大さ、スケールのデカさでいえば、古今東西のどんな宗教の経典もかなわないでしょう。

「華厳経」が壮大な物語のなかで説いているのは、「事事無礙」「法界縁起」の思想です。

事事無礙の「事」とは現象もしくは現象界の事物、「無礙」とは物質的に場所を占有しないことです。

つまり、「物事は一つ一つお互いに異なって排除しあうのではなく、溶け合ってとどこおるところがない」という意味です。

法界縁起とは、個別的に見える事象と事象は、けっして無関係ではなく、真理の世界(=法界)では相互に依存して助け合いながら存在しているということを意味しています。

「華厳経」を読めば、あなたという一人の個体がこの宇宙のすべてと無限の相互関係のなかにあることがわかります。

こうした壮大な華厳の世界観を「重重無尽」ともいいます。

無限に重なりあう世界は、いうなれば「たくさんのミラーボールの世界」です。

一個の存在は全面反射のミラーボールであり、お互いがお互いの球を映しあっています。

一つのミラーボールに宇宙のすべてが映り込み、その映り込んだミラーボールがほかのミラーボールにも映って……とすべての存在がつながりあいながら、果てしなくはるか彼方まで広がっている世界が、華厳の世界なのです。

より壮大で抽象度の高い物語のほうが、瞑想のトレーニングには効果的です。その観点からいえば、数あるお経のなかで「華厳経」が最適なのです。

「華厳経」をすすめる理由はほかにもあります。華厳経瞑想は強烈なアファメーション(自分に対する肯定的な暗示)になるということです。

「華厳経」の最後の部分に「入法界品」という物語があります。分量的には「華厳経」の大部分を占めています。

話の内容は、善財童子という少年が五三人の人々を訪ねて、悟りの道を追求するというものです。

五三人のなかには、文殊菩薩や観世音菩薩、弥勒菩薩などのすぐれた菩薩もいれば、釈迦の弟子たち、修行僧や尼僧、少年少女、医師、長者、金持ち、商人、黄金工、船を操る人、仙人、バラモン、国王、隷民、遊女など、さまざまな階級、職業の人々が登場します。

善財童子はその一人ひとりに、「仏の世界とはこういうところ」という話を聞いて回るのです。

たとえば、二五番目に会った尼僧は善財童子にこう語りかけます。

「ここから南方に行くと険難という国があります。その国の宝荘厳という都市に、ヴァスミトゥラーという名前の一人の女人がいるから、彼女のところに行って教えを聞いておいで」

そこで善財童子はその女人を訪ねます。その女人は見事な美しい姿かたちをしていました。

善財童子はその女人にこう問いかけます。 「私は悟りに向かう心を起こしたけれども、どのように実践したらいいのかわかりません。どうすればいいのか教えてください」

すると、女人は「私はすでに「離欲実際」という教えを見に受けて完成しています」と言い、離欲実際のための方法を語りはじめます。

ちなみに「離欲」とは欲を離れること、「実際」は究極の真実という意味です。

このように善財童子は、まるでロールプレイングゲームのように、五三人を訪ね歩き、一つ一つ教えを受けていきます。

「入法界品」は、仏の世界、悟りの世界に入るためのプロセスを描いている物語です。

十法界でいうところの菩薩の世界、仏陀の世界のことです。

餓鬼や畜生といった下のほうの世界についてはほとんど語っていません。抽象度の高い世界を徹底して描いています。

瞑想力を獲得するためには、高い自己イメージをもつことが重要です。

エフィカシー(自分の能力に対する自己評価)が低いまま瞑想をしても、抽象度の高い情報場を臨場感をもって操作することはできません。

その点でも、「入法界品」は、理想的なセルフコーチングになります。

「入法界品」を読む人は、善財童子が悟りの世界に近づいていくプロセスを臨場感をもって瞑想することで、善財童子と同じ教えを五三人の人々から受けることができます。 その教えは、菩薩や仏陀レベルの教えです。

「入法界品」を読み、強い臨場感をもって瞑想することが、「自分は菩薩や仏陀と同じである」という強烈なアファメーションになります。

情報場の操作の鍵は臨場感

臨場感を覚える世界が「現実」である

小説を読んで泣いたり、映画を見てドキドキすることについて、みなさんは当たり前の出来事だと考えて、日ごろ特別に意識したことはないかもしれません。

しかし、架空の世界に臨場感を感じて影響を受けるということは、脳が進化の過程で獲得したとてつもない機能の一つなのです。

私たち人間は、手でさわれないもの、耳で聞こえるもの、目で見えるもの、つまり物理空間の存在に強い臨場感を感じています。

しかし同じように、手でさわれないもの、耳では聞こえないもの、目には見えないもの、つまり実体をもたない情報空間に対しても、私たちは臨場感を感じ、強い影響を受けているのです。

実は、脳にとってはどちらも同じことです。物理的存在であろうと、情報的存在であろうと、臨場感を感じられさえすれば、脳はそれをリアル(現実)ととらえて、生体が反応するのです。

臨場感が強ければ強いほど、情報場のコントロールが容易になるのです。

過去の体験を利用して臨場感を強化しよう 「臨場感と五感のリンク瞑想」

解説

臨場感を強化するためには、知識と経験が豊富であればあるほど有利です。

いかに強い臨場感で抽象思考しようとしても、まったく知らない世界のことは認識できません。

とはいえ、知識・経験が少ないからといって、あきらめることはありません。

人間には「ゲシュタルト能力」があるので、知らない事象であっても類似の知識や経験を駆使して臨場感を強めることができるのです。

たとえば、「ハワイにいる自分」を瞑想するとします。実際にハワイに行ったことがあれば、そのときの知識や経験をベースにして瞑想してください。

明るく澄みきった青空、広い海で泳ぐ気持ちよさ、街のざわめき、ビーチの開放感などを心のなかで再現するのです。

もしハワイに行ったことがなくても、日本の海で泳いだ経験やハワイに行った友人から聞いた話、テレビや雑誌などで見聞きしたハワイの知識があれば、強い臨場感をもって「ハワイにいる自分」を瞑想することができます。

ワーク

ステップ1 過去の出来事から喜怒哀楽の感情を思い出し、その感情から体感を引っ張り出す

過去の出来事(実際にハワイに行った経験、もしくはそれに類似する経験)からうれしい、楽しい、気持ちいい、面白い、清々しいなどの感情を思い出し、次にそれらをリアルな体感として感じてください。

たとえば、楽しければ身も心も弾みます。

面白いときは笑い過ぎてお腹がよじれそうになります。

清々しいときは心が軽くなるように感じます。

悲しいときは胸が苦しくなります。

怖いときは足がすくむ感じがします。

感情は、必ず何らかの体感を伴います。難しく考えず、感情に伴う体感を素直に思い出すのです。

ステップ2 体感を少しずつ強化する

ステップ1で引き出した体感のままでは抽象度が低く、ステップ3にうまく移行できません。そこでこのステップ2では、体感を少しずつ強化します。

体感や感情をいきなり二倍、三倍にするのは難しいですが、人間の無意識はあまり賢くないので、一割増しぐらいならば簡単にできます。

まずはちょっと一割増しぐらい強めて、それができたらさらに一割増し、と徐々に強めていきましょう。

「うれしい」はもっとうれしく、「楽しい」はもっと楽しく、といった感じです。

体感が一割増しになるたびに、抽象度も少しずつ上がっていきます。

二倍、三倍ぐらいに強化できれば、体感はかなり抽象化されています。

ステップ3 体感を色や音、触感などで表現する

強化した体感を、次は色、音、におい、味、皮膚感覚など別の感覚に書き換えます。

この書き換えには決まったルールはありません。

「楽しくて身も心も弾んでくるような体感は、赤い色」「面白くてお腹がよじれそうな体感は、ピンポン玉が跳ねる音」「清々しさで胸がスーッとする体感は、ミントのにおい」など、自分が感じるままに書き換えます。

このとき、もともとの感情の臨場感も維持するように意識してください。

先ほどの例でいえば、「赤い色を思い浮かべると、身も心も弾んでくる」「ピンポン玉の跳ねる音をイメージすると、お腹が苦しくなるほど笑えてくる」「ミントのにおいを感じると、心がスーッと軽くなる」 というように、臨場感と五感による書き換え情報がリンクするようにするのです。

余裕が出てきたら、ステップ3の状態でさらに臨場感を一割ずつ強めていくといいでしょう。

色をどんどん濃くしたり、音を大きくしたり、香りを強くするだけで、簡単に強めることができます。

このトレーニングを繰り返すことで、抽象度の高い情報空間で強い臨場感を維持するコツを身につけることができます。

情報場をコントロールしよう2

不幸な人、うつ病の人は脳内のセロトニンが少ないことが知られています。

だからといって、物理的にセロトニンの量を増やせばその人がハッピーになるかといえば、一時的にうつの症状は改善されるかもしれませんが、本質的にはハッピーにならないのです。

本気でハッピーになりたければ、情報場を書き変える、つまり情報抽象度の高いところでハッピーになる必要があります。

誰もが、幸せについての自分なりの考え方をもっているはずです。

言い換えれば、「幸せの情報場」です。

たとえば、「家族がいることが幸せ」「恋人のいることが幸せ」「お金があることが幸せ」などでしょうか。

そうした情報場の因果関係があるために、物理空間で家族がいない自分、仕事がない自分、モテない自分、お金がない自分を不幸だと感じ、うつになってしまうのです。

この人をハッピーにする方法は二つあります。

一つは今ある情報場の因果関係に基づいて、物理場を直接変えることです。

たとえば、家族を見つけてあげたり、待遇のいい仕事を見つけてあげたり、彼女や彼氏を紹介したり、たくさんのお金をあげたりすることです。

しかし、物理場を直接変えるのは大変な労力がかかりますし、実現させるのは困難です。

どこまで満たせばいいのかもはっきりしません。

この人がもし「一億円ないとハッピーじゃない」と思い込んでいれば、100万円や1000万円あげたところで幸せになりません。

そこで、二つ目の方法です。

幸せに関する情報場そのものを書き換えてしまうのです。

たとえば、「恋人がいないと誰にも束縛されずに複数の異性と付き合えるから幸せ」「これから新しい魅力的な恋人と出会うチャンスがあるから幸せ」「自分の好きなように時間が使えるから幸せ」というように考えれば、現状は「不幸な境遇」ではなく、むしろ「幸せな境遇」になります。

またさらに、「恋人がいるかいないかは、まったく関係ない。自分の決めた夢に向かって自由に生きることが本当の幸せだ」などと、より抽象度の高い幸せの概念を情報場に書き込むことができれば、その人は、現状のなかにそれまで見えなかった幸せの兆しを発見することができるでしょう。

その結果、幸福感を得て、うつ病から脱却できる可能性もあるのです。

情報場の場の因果関係を正しくかつ自由自在に見ることができれば、情報空間を自由自在に書き換えることができ、自分や世界のあり方を自由自在にコントロールすることができます。

また、より大きな影響力を物理空間に与えようと思うのなら、できるだけ抽象度の高い情報場に仕掛けることがポイントです。

情報場の抽象度が高ければ高いほど、物理空間に働くエネルギーはより強く、より広範になります。

たとえば、仏教やキリスト教などの世界宗教を考えてみてください。

「釈迦の教え」「キリストの教え」という情報場は非常に抽象度が高く、だからこそ何千年にもわたって全世界の人々に影響を与えているのであり、その教えに触れた人々のなかには人生観・生命観の根本を書き変えられるような強烈な体験をする人もいます。

釈迦やキリストの教えに触れることで、絶望の淵に立っていた人が生きる希望を見つけたり、今までとはまったく違う新しい生き方ができるようになるのも、彼らの教えの抽象度の高さゆえ、物理空間へ働くエネルギーの大きさゆえなのです。

自分や世界を劇的に変えたければ、より高い抽象度で情報場の因果関係をコントロールすればいいのです。

ただ、問題が一つあります。

抽象度が高くなるほど、臨場感は弱まり、リアリティも薄れます。 そうなると、情報場をコントロールすることが難しくなります。