世界最古の宗教ゾロアスター教がその後の宗教に残したこと

超自然的な神の存在を意識し始めた人間は、素朴な太陽神や大地母神信仰を経て、自然の万物に神の存在を意識するようになり、原始的な多神教の時代へと進みます。

その後、後世の宗教に多大な影響を与えた人類初の世界宗教が生まれました。ゾロアスター教です。

BC1000年頃、古代のペルシャ、現代のイラン高原の北東部に、ザラスシュトラという宗教家が生まれました。ザラスシュトラの英語読みがゾロアスターです。

ザラスシュトラは古代社会には珍しく具象的な思考能力を有した人物であったらしく、ゾロアスター教の教義はまことに論理的で明快でした。

その内容はペルシャの地に移住したアーリア人の民族的な信仰を基本において、ザラスシュトラが創始したと考えられています。

ペルシャの古代王朝といえば、世界帝国となったアカイメネス朝が有名ですが(BC550〜BC330)、この王朝の創始者キュロス2世(在位BC550〜BC530)の時代には、すでにゾロアスター教が広く信仰されていました。

ゾロアスター教はペルシャを中心に、中央アジアを経て唐の時代には中国にまで広まりました。中国では祆教 (けんきょう)と呼ばれました。

ペルシャの王朝はアカイメネス朝がアレクサンドロス大王に滅ぼされた後、セレウコス朝、パルティア王国と支配者が変わります。そしてパルティア王国を倒したサーサーン朝の初期には、ゾロアスター教の経典も整備されました。

“踊る宗教家”マニの登場とゾロアスター教との関係

ザラスシュトラの没後、およそ千数百年後の3世紀に入って、ゾロアスター教の経典が編纂・整備されました。

経典の名前は『アヴェスター』です。

ザラスシュトラの言葉と彼の死後につけ加えられた部分によって構成され、全部で21巻あったといわれています。

現在はその約4分の1が残存しています。

ゾロアスター教は、サーサーン朝4代バハラーム1世の時代(在位273-276)に国教に近いレベルまで引き上げられました。

時のゾロアスター教の大神官カルティール(キルデール)が、バハラーム1世を強引に説得したようです。そこには次のような事情がありました。

名君、シャープール1世(在位241-272)の時代に、バビロニア地方からマニという宗教家が登場します。

マニはゾロアスター教の善悪二元論をさらに徹底させ、壮大な二元論の教えを創造しました。

またマニはユニークな宗教家で、自分の教えを舞踏にして伝道しました。踊る宗教の元祖のような人だったのです。

寛容なシャープール1世の下でマニの教えは、またたくまにペルシャに広まります。

さらに東方では中央アジアを経て中国へ(明教)、西方は北アフリカにまで広まりました。

北アフリカが生んだ古代キリスト教の最高の神学者、アウグスティヌス(354-430)も元はマニ教の信者でした。

アウグスティヌス

けれどもマニ教は、シャープール1世の死後、カルティールの攻撃によって衰え、マニ自身も刑死させられます。

そしてゾロアスター教が引き上げられたのです。新興宗教に対する既成宗教の弾圧は、昔も今も同じように存在していたようです。

サーサーン朝は651年にイスラーム帝国によって滅ぼされ、それ以後ペルシャの地はイスラーム教が支配的となり、今日のイランに至っています。

ゾロアスター教は、今日ではインドや中東に少数の信者を抱える小さな規模の宗教になっていますが、世界の宗教に残した影響には多大なものがあります。

ゾロアスター教が考えたこと① 善悪二元論と最後の審判

ゾロアスター教の最高神はアフラ・マズダーです。

彼が世界を創造したのですが、世界には、善い神のグループと悪い神のグループが存在します。

そしていつも争っていると、ゾロアスター教は教えます。

善い神のグループは、人類の守護神であるスプンタ・マンユを筆頭にして七神

悪い神はすべての邪悪と害悪を司る大魔王アンラ・マンユ(別名アフリマン)を筆頭にして、こちらも七神。どちらのグループにも個性豊かな神々が揃っています。

ゾロアスター教では宇宙の始まりから終わりまでを1万2000年と数えます。それを3000年ずつ4期に分けました。

そしてザラスシュトラは、「今の時代は善い七神と悪い七神が激しく争っている時代なのだ」と説くのです。

苦しい日々が続くのは悪い神の親分アンラ・マンユが優勢なとき、楽しい日々が続くのは善い神の統領スプンタ・マンユが勝利を続けているときなのだと教えたのです。

アフラ・マズダー像

やがて善悪の神が戦う混乱の時代が終わる1万2000年後の未来、世界の終末にアフラ・マズダーが行う最後の審判によって、生者も死者も含めて全人類の善悪が審判・選別され、悪人は地獄に落ち、すべて滅び去ります。

そして善人は永遠の生命を授けられ、天国(楽園)に生きる日がくるのだと、ザラスシュトラは説いたのです。

だからこそ、現世では三徳(善思、善語、善行)を積む必要があるのです。

このようにザラスシュトラは時間を直線的にとらえる(天地創造から最後の審判まで)、劇的な善悪二元論を展開しました。

宗教の世界における善悪二元論は、この世を説明するときに、強い説得力を有します。

仮にこの世を、一人の正義の神がつくったとすると、正義が世界中にあふれていることになります。悪い君主も殺人鬼も存在しない理屈になります。

清く正しく生きていれば、誰もが幸福になれるはずです。それなのになぜ、人生には苦しみがあるのか。神がいるなら救ってくれてもいいじゃないか。そう考えて悩むことになります。

作家、遠藤周作の小説『沈黙』は、キリシタン禁制下の日本に潜伏したポルトガル人の司祭が、日本人信徒に加えられる拷問を見て心を痛め、ついに自分も背教の瀬戸際に追い込まれていく物語です。

なぜ神は自分を救ってくれないのか、一神教を信じる人間は、現世に生きる苦しみをどのように考えればよいのか。『沈黙』はこの問題に真正面から取り組んでいます。

逆に一神教が持つ矛盾(全能の神がなぜ現世の苦しみを解決できないのか)が、人間の思考を深くするという側面があるのかもしれません。

その証拠に、アウグスティヌスをはじめとする後世の哲学者がこの問題に真剣に取り組んでいます。

しかし宗教の教義という点から考えれば、善悪二元論は現世で生きる苦しみと来世との関係を、時間軸を挿入することでわかりやすく説明できるのです。

ゾロアスター教が考えたこと② 守護霊と洗礼

ゾロアスター教は精霊の存在を信じます。

精霊とは、この世の森羅万象に宿る霊的存在のことで、当然のこととして人間にも宿っています。

精霊をフラワシと呼びます。そして祖先のフラワシは、生きる人々の守護霊になると信じられました。祖霊信仰の始まりです。

死んだ祖先は、自分と縁がある生きている人たちに、自分の霊を守ってもらいたいと望んでいます。

守ってもらいたいので、その人たちの守護霊となるのだと、ゾロアスター教は説きました。

だからこの世に生きている人はご先祖様を、きちんと拝み、祖霊を大切にまつりなさいと。この祖先をまつる教えも広く伝わっていきました。

たとえば、日本で旧暦の7月15日前後に行われる先祖をまつる盂蘭盆(うらぼん)は、仏教の行事と思われていますが、根源をさかのぼれば、フラワシ信仰に行き着くのではないかと一部では考えられています。

また、ゾロアスター教にはナテジョテと呼ばれる儀式があります。入信の儀式です。 ただ、ゾロアスター教では、ローマ教会のような幼児洗礼はありませんでした。

7歳頃から15歳までが入信の期間で、人間らしい判断力が身につき始めた頃にナオジョテは行われました。

ナオジョテ

入信者が、純潔と新生の象徴である、クスティーと呼ばれる白い)とスドラという白い肌着(シャツ)を授けられる儀式で、バラモン教にも対応するものがあるがバラモン教の場合は男子しか受けられないのに対し、ナオジョテは女子も対象とする。

ゾロアスター教徒の子弟にこの儀式がなされるのは7歳から11歳ないし12歳ころまでであるが、儀式の意味を理解できない場合、15歳まで延期できる。ただし15歳になってもナオジョテを受けない場合、とされる。儀式では、クスティーとスドラを身につけ、教義と道徳とを守ることを誓願する。

なお、クスティーとスドラはゾロアスター教徒たる証とされ、入浴時以外は死ぬまで身に着けることが義務とされる。

ゾロアスター教が考えたこと③ 火を祀ること

ゾロアスター教には、偶像崇拝はなく、その代わりに火を信仰しました。そのために拝火教とも呼ばれます。

ザラスシュトラはアーリア人です。彼らはカスピ海の北方に住んでいましたが、BC1500年前後にインドに入り、さらにBC1200年頃にはイランにも入って行きました。

彼らは、この民族大移動の過程で、カスピ海沿岸を南下しました。その途上、彼らはアゼルバイジャンのバクー地方を通ったものと思われます。

あの地方は石油の大産地で、今でも自然発火が見られます。どんな天候でも燃え続ける火に、アーリア人たちは神に対するような敬虔な気持ちを抱いたのでしょう。

その気持ちがインドへ渡ったアーリア人たちに、バラモン教の火の神アグニを誕生させ、イランではザラスシュトラに新しい宗教を創造させる、大きな契機となったのでしょう。

イランのヤズドの地にはザラスシュトラが点火したと伝えられる「永遠の火」が、今も燃え続けています。バクーにもゾロアスター教の「永遠の火」を祀る聖地が残されています。

また、インドでは火の国アグニが仏教に大きな影響を与えました。そして「永遠の火」を信じる教えは中国にも伝わり、さらに日本にも伝わったと考えられています。

その象徴的な存在が、比叡山延暦寺で今も燃え続ける不滅の法灯です。唐から帰朝した最澄が延暦寺に灯してから、一度も消えることなく今日まで燃え続けていると伝えられています。

ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教はゾロアスター教から多くのことを学んだ

ゾロアスター教は最高神としてアフラ・マズダーが存在しますので、一神教のようにも見えますが、善神と悪神と多彩な神々が存在している点では多神教のようでもあります。

このペルシャで生まれた世界最古の宗教に、一番多くを学んだのがセム的一神教でした。ノアの3人の息子(セム、ハム、ヤペテ)の中でセムを祖先とすると伝えられる人々をセム族と呼びます。

セム族は、西南アジア(メソポタミア、パレスティナ、アラビア)の歴史に登場してきた人々ですが、彼らの中から誕生してきた一神教のことです。具体的には、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教を指します。

セム族の一部が信じる唯一神YHWH(ヤハウェ)が人類救済のための預言者として選んだ人物がアブラハムです。

彼はユダヤ人の祖と目され、ユダヤ教やキリスト教そしてイスラーム教の世界でも「信仰の父」として篤く尊敬されています。

そのために、セム的一神教は「アブラハムの宗教」とも呼ばれます。セム的一神教は、天地創造や最後の審判も天国も地獄も洗礼の儀式も、すべてゾロアスター教から学んだのです。

現代社会に影響を与えている宗教は、3つに大別できます。セム的一神教、インドの宗教そして東アジアの宗教です。

インド生まれの宗教の代表的なものはヒンドゥー教や仏教で、東アジアの宗教としては儒教や道教、そして日本の神道などがあります。中国で完成した禅や浄土宗は、必ずしもインド仏教とはいいがたい側面もあり、区別が難しい宗教です。

この3つに大別された宗教以外に、今も生き残って世界の人々に大きな影響を与えている宗教はありません。

なお、セム的一神教の3つの宗教を合わせた信者の数は、21世紀の現在、世界で50パーセントを超えています。

宗教が誕生するまで

人間は考えるために言葉を身につけた

通説によると、現世人類の祖先ホモ・サピエンス・サピエンスは、今から約20万年前に東アフリカの大地溝帯で生まれました。

そしてそれから約10万年後、我々の祖先はアフリカを出て世界に旅立って行きました。

その理由は、主たる食糧であった大型の草食哺乳類(メガファウナ)が、少なくなったからだと考えられています。

最近の研究によると、人にはFOXP2という遺伝子があって、これが言語中枢に関わっていることが、明らかになってきています。

そしてこのFOXP2が、10万年前、人類の出アフリカの前後に少し変化をして、言語をもたらしたという学説が有力になっています。

さらに、なぜ言語が必要になったのかといえば、脳が進化して思考するツールを求めたからだと考えられています。

人間の脳が発達して考えることが可能になっても、それをどのようにまとめるのか、言語がなければ思考はまとまらないではないか、という考え方が支配的になってきました。

その考え方の裏づけとなったのが、FOXP2という遺伝子の存在が明らかになったことでした。

考えるツールとしての言語を獲得したことで、人間は世界や自らの存在について、根源的な問いを持つようになったのです。

人間は時間について、どのように考えてきたのか

この空間、自分たちが生きている世界は、どうしてできたのだろうと考え始めた人間は、次に時間の存在について思索を開始しました。

太陽の動きと月の満ち欠け、そして一日の始まりと終わり。人間にとって時間との関係は、まず、時間をいかに管理するかという問題でした。

その結果として生まれてきたのが暦です。 最古の太陽暦の一つはエジプトで、ナイル川の氾濫を予知する目的でつくられました。

ナイル川は一定の時期に増水して氾濫し、そのときに上流から大量の土砂を運んできます。

そして水が引いた後に肥沃な大地を残していきます。この豊かな大地が農作物の豊穣をもたらしてくれるのです。

生きるためには農業がすべてであった時代のことです。人々は、ナイルの氾濫を待ち望みました。

そしてそのときが訪れる頃には、日の出直前の空におおいぬ座のシリウスが出現することを、長い歳月をかけて知りました。

その日がいつ訪れるか?そのことを知るためにエジプト人は、夜空を見つめ、太陽の動きを観察し続けたのでしょう。

太陽が一番長時間、空に輝く日(夏至)を頂点として、一番昼間が短い日(冬至)に向かって衰えていく。それからまた、日射しを伸ばしていく。

そういうサイクルであることを、古代のエジプト人は学んだのです。こうして彼らは、一年という周期を意識するようになった。すなわち地球が太陽を回る周期(約365.24日)を知り、その知識をもとにして太陽暦をつくったのです。

一年という概念に比べれば、一日の変化の意味はより理解しやすかったことでしょう。

朝に東から太陽が昇り、夜になると西に沈み、また朝になると太陽が昇る。この一日を小回転と考えれば、一年は大回転であるなと。

しかし、一日を何回も何回も繰り返さないと、一年という大回転にはなりません。

一日と一年の時間差が大きすぎて、時の流れを十分に把握しきれなかった。そのときに注目したのが、夜空の月です。

月は見えない夜(新月、朔)から始まって、丸くなる夜(満月)となり、また細く欠けていく。

この月が地球を一回転する周期に、およそ29回(約29.53日)の夜を重ねることを学びました。こうして人は一日と一年、一月という概念を身につけたのです。

一週間の起源については、七曜(太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星。肉眼で見える大きな星のことで、中国の五行説と結ばれました)に由来する、あるいは太陰暦の一か月を4等分したものであるなどといわれています。一週間はメソポタミアが起源です。

この月の満ち欠けは日数を知るのに便利でしたので、これを利用してつくられた暦が太陰暦です。

歴史的には太陰暦のほうが早くからメソポタミアで使われていました。太陰暦で一年を構成すると約354.36日となります。

エジプトで最初に太陽暦がつくられた理由は、太陰暦だと、太陽の大回転する日数(約365.24日)に約11日ほど足らなくなります。それでは、農作の恵みをもたらす大氾濫の訪れを、規則的に把握できないことを知り、太陽暦を考えついたのです。

なお、太陽暦の365日に合わせて、日数を調節してつくられたのが太陰太陽暦(太陰暦に閏月を入れて約11日の短さを補った暦)です。

メソポタミアではBC2000年紀には、すでに太陰太陽暦が使用されていました。現代ではイスラーム社会の太陰暦を除いて、ほとんどの国が太陽暦を使用しています。日本は1872(明治5)年に太陽暦へ切り替えるまで、太陰太陽暦を使用していました。

明けない夜はなく、春はまた巡ってくる。

暦を考え出したことで人間は円環する時間を管理するようになりました。

けれど、その円環する時間の中で生きている人間の一生は回転して再生しないことにも気づきました。誕生して歩み始め、大人になり、やがて老いて死んでいく。人間の一生は直線なのです。

自然を司る円環する時間と人生を支配する直線の時間、2つの時間があるという概念を知った人間には、次のような思いが浮かんできたのではないでしょうか。

人生の直線が終わった後はどうなるのか、どこかに行く世界はあるのだろうかと。

あるいは人生が始まる前は、一体どこにいたのだろうかと。

人間の突然の変化、ドメスティケーションと宗教の関係

ドメスティケーションdomesticationという言葉には飼育、順応、教化などの意味があります。

学術用語としては、次のように説明されています。

「 『人間が野生の動植物から、それまでには存在しなかった家畜や栽培植物を作り出す』こと。動物については家畜化、植物については栽培化。ドメスティケーションの起源の問題は、考古学、地理学、人類学、栽培植物学、遺伝学などの幅広い分野において関心を集めている」

人間が植物を栽培したり、動物を家畜化したりするために、欠かせない条件があります。それは人間が定住生活を営むことです。

東アフリカから、より多くの獲物を求めてグレートジャーニーに旅立った人類は、世界中へ移動して行きました。

人類の立場から定住生活を考えてみると、それは必ずしもいいことばかりではありません。

一ヶ所にずっとみんなで住んでいると、排泄物の処理だけでもたいへんです。病気が発生したら感染しやすいです。

なぜ、意識が変わったのか定説はありませんが、人間の意識が移住生活から定住生活に変化したといわれています(移動が自由にできなくなったので、定住せざるをえなかったという説もあります)。

人間が定住生活をし始めたドメスティケーションのときに、人間の脳は最後の進化が終わり、それから今日まで進化していないといわれています。

こうして人間は定住し、世界を支配し始めました。植物を支配する農耕に始まり、動物を支配する牧畜、さらには金属を支配する冶金と、植物、動物、金属、すべてを人間が支配するようになりました。

ドメスティケーションは、狩猟採集生活から農耕牧畜生活への転換であったのです。

ドメスティケーションは、今から約1万2000年前にメソポタミア地方で起きたと推測されています。

周囲に存在するものを順次、支配していった人間は、次にこの自然界を動かしている原理をも支配したいと考え始めたのです。

誰が太陽を昇らせるのか、誰が人の生死を定めているのか、神という言葉も概念も当初はなかったでしょうが、何者かが自然界のルールをつくっていると考え始めたようです。

この推論を有力にした理由の一つが、メソポタミアの古代遺跡から、女性をかたどったとしか思われない土偶が発掘されたことでした。

その用途に、具体的な目的は考えにくく、それに何か特別な意味を込めていたとか、拝んでいたという以外には、考えられないのです。

世界最古の神殿と目されるトルコのギョベクリ・テペ遺跡は約1万2000年前のものです。この時代に、人類は間違いなく大きな転換を迎えたのです。

ギョベクリ・テペ遺跡

以上のような検証から、ドメスティケーションを経て人間は、宗教という概念を考え出したと推論されています。

付言すれば、古代エジプト人が太陽暦を開発したプロセスも、時間を支配するという意味でドメスティケーションの一形態でした。