仏教で中華思想に対抗した蘇我氏と推古天皇

仏教の伝来で生じた対立

紀元前6世紀に古代インドで誕生した仏教は、東南アジアや中央アジアに伝播したあと、シルクロードを通って中国に伝わり、6世紀に朝鮮半島を経て、日本に伝来します。

日本に定着したのは、欽明・敏達・用明の3天皇を経てのことです。

定着まで3代を要した理由については、「仏教の受容を主張する蘇我氏と、日本古来の神道を重視する物部氏の対立」があったためです。

日本には八百万の神がいます。外来の神の受容に抵抗を示す物部氏サイドの反応は当たり前のことでした。

推古天皇

仏教を受け入れた理由

日本史上「崇仏論争」と呼ばれるこの対立は、単なる宗教論争から政争にまで発展し、ついには武力衝突に至ります。

勝利したのは蘇我氏でした。

これによりヤマト政権では、仏教受容の基盤が整うのです。

用明天皇の死後、皇位は崇峻天皇を経て、推古天皇が継承しました。

日本史上初めてとなる女帝の誕生です。

594年、推古女帝は天皇直々の仏教振興命令となる、「仏教興隆の詔」を出します。

これによりヤマト政権は、総力を結集して仏教の受容を推し進めることになるのです。

ヤマト政権が仏教振興に力を入れたのには、複数の理由があります。

一つ目は仏教が東アジアのグローバルスタンダードになっていた点です。

中国や朝鮮半島では、仏教は仏の力による国家鎮護の法として、さかんに信仰されていました。

仏教を受容しなかったとしたら、古代日本は東アジア世界のなかで大きく後退してしまいます。

そのような事態を防ぐために、固有の神信仰がありながらも、国をあげての外来宗教受容に踏み切ったのです。

2つ目は技術の受容です。仏教は当時最先端の思想であり技術でしたから、大陸の進んだ技術を受容する意味でも、仏教の受容は理にかなっていたのです。

3つ目はアイデンティティの確立です。別の項でも見たように古代の日本は、中国王朝の冊封体制下に入り、中国皇帝の権威で王権を保証してもらっていました。

ヤマト政権もこの路線を踏襲していましたが、欽明朝あたりから冊封体制離脱を模索し始めます。

中華思想に対抗する価値観としての仏教

ただ、そのためには障壁がありました。 中国には古くから「中華思想」があります。

これは自国=世界の中心に位置する文化的国家、周辺国=未開の野蛮国とする考え方です。

中華思想の枠内にある限り、どんなに「我々は文化国家だ!」と主張しても、「所詮は自称」としか見られないのです。

自主独立路線確立のためには、この中華思想の土俵に乗らないことはむろん、中華思想に対抗できるスケールを持つ価値観のうえで対抗するしかありませんでした。

その方法を模索しているとき、もたらされたのが仏教でした。

仏教は古代インドで釈迦が創始した教えであり、中国起源ではありません。

加えて、東アジアのグローバルスタンダードとして中国でもさかんに信仰されています。

東アジア最大の仏教国になることは、仏教という枠組みにおいて、中国王国以上の存在になることを意味します。

これは、中華思想という枠組みでは周辺諸国にすぎなくとも、仏教の枠組みでは中国王朝を周辺諸国に組み込めることを意味します。

ヤマト政権は、世界の中心となるため、仏教の積極的振興をはかったのです。

東大寺の大仏

須弥山と東大寺大仏

時代がくだって斉明女帝の御代になると、飛鳥の地には盛んに須弥山が作られます。

これは仏教が説く「世界の中心に位置する高い山」のことです。

東大寺に座する大仏は、日本の中心化計画の総仕上げともいうべきものでした。

推進したのは、奈良時代に帝位にあった聖武天皇です。

国家鎮護の法を記した経典「金光明最勝王経」を各地に配った天皇は、次いで「国分寺建立の詔」を出し、国ごとに国分寺と国分尼寺を建立。

さらに「大仏造立の詔」を出すのです。

東大寺大仏の開眼供養は、752年に行われました。

式典には、皇位を娘に譲った聖武上皇、孝謙女帝ほか多数の官人に加えて、1万数千人もの僧が列席しました。

開眼導師を務めたのは、インドの僧・菩提僊那でした。

「仏教伝来後、これほど盛大な儀式はなかった」とは、『続日本紀』中の記述です。 まさに東アジア最大の仏教イベントでした。

このあと大仏は、東北で発見された黄金により、金メッキを施され、金色燦然と輝きつつ、大和の地にあり続けるのです。

仏教を国造りの中核に据えることで、世界の中心になろうとした古代の日本。

東大寺の大仏は、その象徴なのです。

架空の世界を使って臨場感を強めよう 「スターウォーズ華厳瞑想」

解説

お経や聖書にいまいち関心をもつことができないという人は、マンガや映画を使って瞑想しましょう。

昔の日本人にとってお経は身近なものでした。また、キリスト教の国では今でも聖書はとても身近な書物です。

しかし、日本に住む多くの現代人にとっては、お経も聖書も少々縁遠いものではないでしょうか。

自分や世界を変える力をもっているのは、お経や聖書ではなく、あなた自身の心です。

その大原則さえはずさなければ、どんな道具を使って瞑想してもかまいません。

映画でいえば、個人的におすすめなのは70年代にスタートした大人気SF映画「スターウォーズ」です。

「スターウォーズ」が描いているのは、実は華厳の世界です。架空の銀河を舞台にした壮大な物語のなかに、釈迦の教えがちりばめられています。

ここでは「スターウォーズ華厳瞑想」と名づけて、「スターウォーズ」を使って瞑想する際のポイントをお教えします。

ワーク

「スターウォーズ華厳瞑想」は、お経瞑想と同じく、一つ一つのシーンに描かれている情報に意識を向けて、臨場感を強めることが大切です。

特に、物語の背後にある華厳の世界観に留意する必要があります。

強い臨場感を維持したまま瞑想することができれば、「あなたの情報場」と「華厳の世界の情報場」に関係性が生じて、「あなたの情報場」を書き換えることができます。

それでは、「スターウォーズ」の物語のなかで描かれている華厳の世界観について、いくつかポイントを挙げてみます。

フォースとは「心の力」

主人公をはじめとしたジェダイの騎士たちが使う「フォース」という超能力。あれは「心が生み出す力」のことです。

ダース・ベイダーは「十法界」

帝国軍のダース・ベイダーの描き方。エピソード4〜6では彼はフォースの暗黒面に落ちた悪役として描かれますが、もともとは(エピソード1〜3では)心優しき優秀なジェダイの騎士アナキン・スカイウォーカーでした。

彼は、愛する者を守りたいという情動にとらわれた結果、怒りや憎しみに心を支配されてフォースの暗黒面に落ちてしまいます。

しかしエピソード6で、息子であるルーク・スカイウォーカーが銀河帝国皇帝を自らの手で倒します。

ダース・ベイダーのなかには善の心も悪の心もあったのです。

彼自身がどちらを選ぶかによって彼の生き方が変わるということであり、それは十法界と同じ考え方です。

ヨーダやオビ=ワン・ケノービは「観音様」

エピソード4〜6でルークを導く存在としてオビ=ワン・ケノービやヨーダが登場します。

彼らは物理世界でルークを導くだけでなく、自らが死んだ後も時空を超えてルークに語りかけ、彼を導こうとします。

オビ=ワンやヨーダは、いつでも仏陀になれるのに、人々を導くために現世にとどまっている観音様のような存在です。

エピソード6の最後のシーンでは、善の心を取り戻したダース・ベイダーが、ヨーダ、オビ=ワンとともに観音様のような存在として登場します。

どれだけ悪いことをしても、心を入れ替えれば、すべての人が救われますよという結末は、いかにも大乗仏教的です。

ほかにも、宇宙空間をワープして一瞬でほかの場所へ移動するシーンがありますが、ワープはまさに瞑想のパワーですし、ルークが恐怖に向き合うシーンも仏教的な描かれ方をしています。

とはいえ、西洋人が作った映画ですから、すべてが仏教的ではありません。

典型的なのが、帝国軍の宇宙要塞デス・スターが星一つを丸ごと破壊してしまうシーンや、共和国軍がデス・スターを破壊してしまうシーンです。

まるで天罰のように一気に人を殺してしまうのは、西洋的といえるでしょう。

これらのシーンを除けば、大筋は仏教的で、華厳瞑想の道具としてはいい映画だと思います。

空を体感しよう 「般若心経瞑想」

解説

抽象度の高い情報空間で強い臨場感を維持するためのトレーニングとして、言語化された物語を使う方法があります。

物語には、古今東西の文学作品のほか、宗教の教典も含まれます。 仏教のさまざまなお教やキリスト教の聖書、イスラム教のコーランなどです。

物語を使った瞑想は、抽象度を上げたときにも強い臨場感を維持しやすいというメリットがあります。

言語によって描かれたストーリーを読むことで、そのストーリーを実際に体験したかのように、同じ効果を脳に与えることができるからです。

また、言語化されているため繰り返し読むことができるので、脳内で何度でも同じ体験を繰り返し、瞑想空間の臨場感を強化していくことができます。

注意しなければならないことは、どのような物語でも臨場感のトレーニングに使えるわけではないということです。

瞑想に適した物語と適してない物語があるのです。瞑想に適した物語の条件は、「他人が作った抽象度の高い情報空間であること」です。

そもそも自分で作った物語では瞑想はできません。自分の作った物語で自分勝手なイメージをいじくりまわすのは、ただの妄想です。

音楽を例にとるとわかりやすいかもしれません。どんな前衛的なことをやる音楽家も、大前提として音楽の基本ルールである楽曲を学ぶ必要があります。

楽曲を学び、音楽の世界の基本的な方法論を理解してはじめて、そのルールを超える前衛を表現できるのです。

自分勝手に音を鳴らしているだけでは、ただの音の連なり、もしくはノイズであり、そもそも音楽にはなりえません。

さらに、「他人が作った」物語のなかでも、「抽象度の高い」ものを選ばなければなりません。

抽象度の低い物語で他人の情報空間を共有してコントロールできるようになっても、瞑想のトレーニングとしてはあまり意味がないのです。

ワーク

お経は釈迦が説いた教えを記録した、あるいはそれを元にしたテキストで、さまざまなお経が現在まで伝わっています。

サンプルとして「般若心経」の一節を使って、情報空間で強い臨場感を維持するための方法をお教えします。「般若心経」は、空の思想を説くものです。

ところで、お経を読むとき、ただ単に「南無阿弥陀仏」などと唱えればいいと思っている人が大勢いますが、それでは瞑想になりません。

一つ一つの言葉、さらには物語全体に、どのような情報(書き手のメッセージ)が込められているのかを、強い臨場感をもって認識できてこそお経瞑想は意味をもちます。

では、どうすればお経に描かれた情報空間を強い臨場感をもって認識できるのでしょうか。手順は次のようになります。

  1. まずは、一つ一つの言葉の意味や、言葉のなかに描かれている世界を瞑想します。
  2. 一つ一つの言葉のイメージができたら、複数の言葉のイメージをつなげて統合します。つなげて統合することで、一つ上の抽象度のイメージを作ることができます。
  3. イメージの統合を繰り返して、抽象度の階級を一段一段のぼっていきます。最終的にお経に描かれている世界全体が、統合された一つのイメージとして瞑想できるまで繰り返します。

それでは、実際に「般若心経」の冒頭の一節を使って説明しましょう。

「般若心経」の冒頭は以下のとおりです。

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」

では、一つ目の文節の意味を見ていきましょう。

「観自在菩薩」

「観」と「自」と「在」と「菩薩」という一語一語のイメージを作っていきます。

「自在」とは、荒了寛大僧正によると、「自分の在るところ」「自由自在」という二つの意味があります。

だから「観自在」は「自分のいるところを見なさい」と「自由自在に見なさい」ということです。

「菩薩」は「悟りに向かって修行中の人」という意味で、自らの悟りと人々の救済のために働くことを同じレベルで実践した人のことです。

観自在菩薩は、止観瞑想に秀でた菩薩だったのでしょう。

観自在菩薩をイメージしながら、先入観、既成概念、知識による思い込みなどをすべて捨て去り、自分自身とその周囲を見つめることが、「般若心経瞑想」のスタートです。

般若心経瞑想を実践すると、止観瞑想に秀でた菩薩が、深い縁起の瞑想に成功して、人間のすべての営みが空であることを見極めたというイメージが、あなたの頭のなかにでき上がってくると思います。

そのときの菩薩の気持ちはどうだったのか? どのようなことを感じて、何を思ったのか? 空を見極めるとはどのような体感なのか? 具体的に自分の体感を使いながら、細かく瞑想してください。

個々の言葉の臨場感を維持したまま、個々の言葉のイメージを統合していくことで、強い臨場感を維持しながら抽象度の階段を上がっていくことができ、最終的に抽象度の高いお経の世界全体を、強い臨場感で瞑想できるようになります。

ちなみに、お経瞑想をするとき、もし言語だけではうまく臨場感を強めることができないならば、「仏像」「曼荼羅」などの道具を使ってみる手もあります。

仏教には、「仏像」や「曼荼羅」をはじめ、さまざまな道具があります。これらはすべて瞑想するために、つまりお経に描かれた情報空間に強い臨場感をもつために発明された道具です。

たとえば曼荼羅は、お経の世界を絵というビジュアルで描くことで、臨場感を強めようとしたものです。

描かれている絵には一つ一つストーリーがあります。その絵を手がかりに仏や菩薩のストーリーを強い臨場感をもって瞑想していくことが、曼荼羅を使った瞑想法です。

仏像も同じです。目の前に仏や菩薩の姿をかたどった立体的な像があることで、仏や菩薩の存在を強い臨場感をもって瞑想することができます。

また、金剛杵やシンギングボウルなど密教系の法具類も、臨場感を強める道具、心を制御する道具として使うことができます。

お経瞑想で大切なことはお経の世界を強い臨場感をもって瞑想することです。

華厳経瞑想は強烈なアファメーションにもなる

どのお経でも瞑想はできますが、もっともおすすめしたいのが「華厳経」です。

「華厳経」といわれてもいまいちピンとこない人は、有名な奈良の大仏を思い出してください。

この大仏は、正式名を「毘盧遮那仏」といい、実は「華厳経」の世界をあらわす仏なのです。

「華厳経」は、三世紀ごろに中央アジア(西域)でまとめられ、その後日本にも伝来しました。

奈良時代には華厳宗が成立し、奈良の大仏がある東大寺は華厳宗の総本山として今日まで栄えています。

数ある仏教経典のなかでも「華厳経」は、大乗仏教の深い哲学思想を述べたものとして有名で、菩薩行の実践を強調しています。

「華厳経」の内容をひと言で言い表すのは難しいですが、最大の特徴は描いている世界のスケールのデカさです。

時間と空間を超越したものすごく壮大な宇宙サイズの物語は、読んでいると銀河系のすべてのものがまるで豆粒のように感じられます。

科学では宇宙が誕生して一三六億年としていますが、その年月が一瞬のように感じられます。

壮大さ、スケールのデカさでいえば、古今東西のどんな宗教の経典もかなわないでしょう。

「華厳経」が壮大な物語のなかで説いているのは、「事事無礙」「法界縁起」の思想です。

事事無礙の「事」とは現象もしくは現象界の事物、「無礙」とは物質的に場所を占有しないことです。

つまり、「物事は一つ一つお互いに異なって排除しあうのではなく、溶け合ってとどこおるところがない」という意味です。

法界縁起とは、個別的に見える事象と事象は、けっして無関係ではなく、真理の世界(=法界)では相互に依存して助け合いながら存在しているということを意味しています。

「華厳経」を読めば、あなたという一人の個体がこの宇宙のすべてと無限の相互関係のなかにあることがわかります。

こうした壮大な華厳の世界観を「重重無尽」ともいいます。

無限に重なりあう世界は、いうなれば「たくさんのミラーボールの世界」です。

一個の存在は全面反射のミラーボールであり、お互いがお互いの球を映しあっています。

一つのミラーボールに宇宙のすべてが映り込み、その映り込んだミラーボールがほかのミラーボールにも映って……とすべての存在がつながりあいながら、果てしなくはるか彼方まで広がっている世界が、華厳の世界なのです。

より壮大で抽象度の高い物語のほうが、瞑想のトレーニングには効果的です。その観点からいえば、数あるお経のなかで「華厳経」が最適なのです。

「華厳経」をすすめる理由はほかにもあります。華厳経瞑想は強烈なアファメーション(自分に対する肯定的な暗示)になるということです。

「華厳経」の最後の部分に「入法界品」という物語があります。分量的には「華厳経」の大部分を占めています。

話の内容は、善財童子という少年が五三人の人々を訪ねて、悟りの道を追求するというものです。

五三人のなかには、文殊菩薩や観世音菩薩、弥勒菩薩などのすぐれた菩薩もいれば、釈迦の弟子たち、修行僧や尼僧、少年少女、医師、長者、金持ち、商人、黄金工、船を操る人、仙人、バラモン、国王、隷民、遊女など、さまざまな階級、職業の人々が登場します。

善財童子はその一人ひとりに、「仏の世界とはこういうところ」という話を聞いて回るのです。

たとえば、二五番目に会った尼僧は善財童子にこう語りかけます。

「ここから南方に行くと険難という国があります。その国の宝荘厳という都市に、ヴァスミトゥラーという名前の一人の女人がいるから、彼女のところに行って教えを聞いておいで」

そこで善財童子はその女人を訪ねます。その女人は見事な美しい姿かたちをしていました。

善財童子はその女人にこう問いかけます。 「私は悟りに向かう心を起こしたけれども、どのように実践したらいいのかわかりません。どうすればいいのか教えてください」

すると、女人は「私はすでに「離欲実際」という教えを見に受けて完成しています」と言い、離欲実際のための方法を語りはじめます。

ちなみに「離欲」とは欲を離れること、「実際」は究極の真実という意味です。

このように善財童子は、まるでロールプレイングゲームのように、五三人を訪ね歩き、一つ一つ教えを受けていきます。

「入法界品」は、仏の世界、悟りの世界に入るためのプロセスを描いている物語です。

十法界でいうところの菩薩の世界、仏陀の世界のことです。

餓鬼や畜生といった下のほうの世界についてはほとんど語っていません。抽象度の高い世界を徹底して描いています。

瞑想力を獲得するためには、高い自己イメージをもつことが重要です。

エフィカシー(自分の能力に対する自己評価)が低いまま瞑想をしても、抽象度の高い情報場を臨場感をもって操作することはできません。

その点でも、「入法界品」は、理想的なセルフコーチングになります。

「入法界品」を読む人は、善財童子が悟りの世界に近づいていくプロセスを臨場感をもって瞑想することで、善財童子と同じ教えを五三人の人々から受けることができます。 その教えは、菩薩や仏陀レベルの教えです。

「入法界品」を読み、強い臨場感をもって瞑想することが、「自分は菩薩や仏陀と同じである」という強烈なアファメーションになります。

自我から脱出しよう 「自分が生まれて死ぬ瞑想」

解説

まず最初に「あるともいえるし、ないともいえる」という世界観が、どういうものかを認識していただくための瞑想トレーニングを行います。

その前に、ある一本の木にまつわる短いストーリーをお話しします。

今、あなたの目の前に、一本の木があります。

その木から種が地面に落ちました。種からは芽が出て、大空に向かって幹が太く大きく育ち、枝が伸び、葉を茂らせて、やがて立派な一本の木に成長しました。

一方、種を落とした木は、年月が経つにつれて、幹がもろくなり、強い風雨にさらされて枝や葉を落とし、ある日根元から折れてしまいました。

枯れ倒れた幹はコケに覆われ、微生物によって分解され、やがて森と一体化して消えてしまいました。

さて、種から生まれた新しい木は、この世界に新たに生じたものでしょうか?

……違いますよね。前の古い木が落とした種から生じているのですから、もともとあったのです。

では、枯れて目の前から消えてしまった古い木はなくなったのでしょうか?

……これも違いますよね。たしかに古い木は目の前からなくなりましたが、古い木から落ちた種が新しい木として育っているのですから、古い木もあるのです。

新しい木も古い木もともに「あるともいえるし、ないともいえる存在」です。

「あるともいえるし、ないともいえる存在」として、種から生まれた新しい木と、枯れ果てて消えてしまった古い木の両方が、時空を超えて存在しているのです。

さらにいえば、「ある」というのは機能が連続していることです。 物理的な連続性はその一部に過ぎません。

ワーク

それでは、今度はあなた自身について考えてみます。

ある日、あなたはこの世に生をうけました。

あなたは多くの人に育まれながら順調に成長し、大人になりました。

そして、出会いと別れを繰り返し、やがて年を取り、病気になって息を引き取りました。

さて、あなたが誕生したとき、あなたは何もないところから、新たに生じたのでしょうか?

あなたが老いて死んだあと、あなたはなくなったのでしょうか?

自分が生まれてから死ぬまでを、脳内でビジュアル化しながら瞑想してください。

どんな存在にでもなろう 「三法界瞑想」

解説

自分の心を制御して、自分が何にでもなれることを知り、その上でなりたい自分になるための瞑想法をお教えします。

はじめに一つ、たとえ話をしましょう。

ある凶悪か犯罪を犯した人がいます。テレビや新聞は彼の周辺を取材し、近所の人にコメントをもらいます。

近所の人は犯人について、 「すごく優しい人だったのに、あんなひどい犯罪を犯すなんて…」 「家族と一緒にいるときはすごく穏やかそうな人でした…」 などといかにも「意外だ」といったコメントをします。

さて、このような犯罪行為と矛盾するかのようなコメントを聞いたとき、あなたは犯人についてこう考えるはずです。

「『凶悪な犯罪を犯した彼』が彼の本性なのか、それとも『優しく穏やかだった彼』が本性なのか?」と。

しかし、実はこうした問いかけ自体がナンセンスなのです。

なぜなら、優しさも凶悪性も、どちらもその人自身だからです。

人は誰もがナートマンです。その人がそのつど何を選んだかが、その人のあり方を決めているのです。

その選択の結果、あるときは「優しい人」になり、あるときは「凶悪な犯罪者」になってしまうだけなのです。

「一人の人間の心に相反するすべての人間性があり、心が何を選んだかによってその人の存在や生き方が決まる」という人間に対する見方は、仏教の「六道」や「十法界」という言葉に表れています。

六道とは天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界のことで、この六道の上に声聞、縁覚、菩薩、仏の四界を加えたものが十法界です。

六道や十法界はどちらもナートマン瞑想の方法論です。

十法界瞑想では、瞑想空間のなかで餓鬼になった自分、人間になった自分、菩薩になった自分、仏陀になった自分などを瞑想しながら、

自分のなかには餓鬼もいれば、仏陀もいること 自分のなかにあらゆる可能性が存在していること その可能性のなかから、自分が「何を選ぶか」によって、自分という存在が決まること

をしっかりと認識し、最終的に「じゃあ、自分は◯◯を選ぼう」と、なりたい自分を自分の心 (自分の意志) で選びます。

つまり六道瞑想や十法界瞑想をすることで、「自分という存在はあるけれど、永遠不変の自分が存在しているわけではなく、変化し流転するものとしてある」というナートマンの考え方を体感的に理解することができるのです。

実際、釈迦も六道瞑想や十法界瞑想をしながら、餓鬼になったり、人間になったり、仏陀になったりしていたはずです。

釈迦は自分の心に餓鬼も、修羅も、畜生も、人間も、仏陀も、すべていることを理解していました。

その上で、教えを説く相手に合わせて、自分の心を変えていたのです。これが釈迦の「対機説法」です。

あなたのなかにも釈迦と同じように、ありとあらゆる可能性が詰まっています。

あとは、あなた自身がどの自分を選ぶかの問題です。

餓鬼を選ぶこともできますし、人間を選ぶこともできます。仏陀になることだってできるのです。

本当ならば十法界瞑想や六道瞑想をしていただくのが理想ですが、いきなり10の自分を瞑想するのも大変でしょうし、現代人にとっては「餓鬼」「畜生」「声聞」「縁覚」といわれても、それがどういう存在なのかわからないので瞑想しづらいと思います。

ですから、十法界瞑想をアレンジした「三法界瞑想」をやってみてください。

ワーク

「三法界瞑想」とは三つの世界を瞑想しましょうということです。

この三つの世界は何でもいいのですが、ここでは瞑想しやすいように「貧乏人の自分」と「お金持ちの自分」と「仏陀になった自分」とします。

ステップ1 「貧乏人の自分」を瞑想する

ここでは、預金残高が10分の1になった生活をイメージします。 これからどんな生活をすることになるのかを瞑想してください。

たとえば、「当面の生活費をかせぐために、いくつかの仕事に就き、必死で働く自分」 「日々の生活費を工面するために、サラ金でお金を借りる自分」 「愛想を尽かされて妻(夫)に出ていかれる自分」 「お金欲しさに窃盗や強盗などの犯罪に手を染める自分」 「公園のベンチに寝泊まりしているところを知人に見られてしまった自分」

お金が次第になくなり、ついには尽きたとしたら、自分はどうなるのか。何を考えて、どのように行動するのか、徹底的に瞑想してください。

ステップ2 「お金持ちの自分」を瞑想する

ここでは、預金残高が100倍、1000倍になった生活をイメージします。

今あなたの預金口座には数十億円、数百億円、数千億円のお金があります。あなたはどのように生活しますか。

たとえば、「仕事を辞めて、資産運用で不労所得を得ようとする自分」 「車や家など欲しいものを買い、食べたいものを食べ、世界中を旅して、放蕩三昧の生活をする自分」 「世界中の恵まれない人々のために全額寄付したいと考える自分」

お金持ちになった自分を、そしてお金持ちになったことで自分が何を考え、どのように行動するかを、強い臨場感で徹底的に瞑想してください。

ステップ3 「仏陀になった自分」を瞑想する

三つ目の「仏陀になった自分」は、これまでの二つよりも抽象度が高く、金額そのものをまったく気にしません。

「仏陀」といわれると難しそうですが、実はこれがいちばん簡単です。

数字をまったく気にしない人ですから、預金通帳のゼロが増えようが「それが何?」と思い、ゼロが減ろうが「それが何?」と考えます。

そして、預金通帳の金額が多いか少ないかにかかわらず、自分がどんな生活を送りたいかを考えて、そのとおりの生活をします。

今、あなたはどのような生活を送りたいですか?まずは自分の心を決めてください。

ここまでのステップ1、2では、預金残高の多寡に合わせて自分の行動を決めていたはずです。

ところが、自分で「お金を気にしない」と決めれば、実際まったく気にならず、自由気ままに好きなことができます。

もちろんお金がなければできないことはありますが、できないことに不満や苛立ちを感じることはなく、「だったら、自分のやりたいことのなかで、できることをやろう」と気軽に思えます。

また、自分のやりたいことをやってみたら、意外にお金がかからなかった場合などは、「自分にお金なんて別に必要ない」と気づくことができたり、「余ったお金は寄付しよう」と今まで考えもしなかった”やりたいこと”が見つかったりします。

お金に束縛されない、自由な感覚を感じることができるはずです。

以上が三法界瞑想です。

三法界のそれぞれの自分に対して臨場感が強まれば強まるほど、「瞑想した自分」が「現実の自分」であるかのようなリアリティを感じるはずです。

お金にまつわるさまざまな欲望に駆られるあなたも、どんな状況でも他人のことを思いやることができるあなたも、お金なんて関係なく自由気ままに生きるあなたも、すべてあなた自身なのです。

「自分はこんな人間だ」「自分を変えることはできない」と思い込んでいるのは、自我にとらわれている証拠です。

どんな状況でもけっして変わることのない永遠不変の自我があるのではなく、まわりの状況があなたという人間のあり方を絶対的に規定しているわけでもありません。

あなたという人間を形作っているのは、「あなたの心」です。

あなたのまわりにはさまざまな人やさまざまなもの、さまざまな事象やさまざまな出来事が存在しています。

それらとあなたとの間には深い関係性があります。あとは、その関係性に対して、あなた自身がどう振る舞うか。

言い換えれば、あなたの心がその関係性をどう「見る(認識する)」のか。

そのことが結果的に「あなた」という人間を決定します。

未来永劫変わらない自分はありません。

「自分」を決めるのはあなた自身の心であり、あなたは自分の心のあり方を自由自在にコントロールすることができます。

いうなれば、あなたはあらゆる可能性をもつ存在であり、なりたい自分に自由になることができるのです。