異質な文明が融合したことで縄文文化が成立した

縄文時代の始まり

2万年前に地球の気候が温暖化し始め、両極の氷が溶けて海進が始まり、日本列島はユーラシア大陸と切り離されました。

列島内では植生の変化が進み、変化に適応できない大型草食動物は絶滅しました。 そして、シカやイノシシなど、小さくて動きの素早い小動物が山野を駆け巡り始めます。

列島内に住んでいた人々もこの環境に適応すべく、試行錯誤を繰り返しました。

その結果、土器を製造して採取した植物を貯蔵・調理し、原始的農耕を営み、小動物を狩ることができ、海の幸を得られる集団が生き残りました。

これらの人々が担った時代を、使われた土器の縄目文様をとって「縄文時代」と呼んでいます。

亀ヶ岡遺跡の渡来物からわかること

亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶

青森県つがる市にある「亀ヶ岡遺跡」は、縄文時代晩期の集落跡です。

ここにはかつて「亀ヶ岡文化」とも呼ぶべき、独特な文化が栄えていました。

この遺跡から出土し、現在は東京国立博物館に所蔵される「遮光器土偶」は、亀ヶ岡文化の独自性を物語っています。

この遺跡からは、大陸から渡来したガラス製の小玉も見つかっています。

このような品が本格的に日本に伝わるのは弥生時代に入ってからですから、亀ヶ岡の縄文人は、それより早くに手に入れていたのです。

南方と北方の文化が混在していた古代の日本

じつは縄文人たちは、当時から卓越した航海術を駆使して、盛んに海外と交流することで、文化的な影響を受けてきました。

もっとも大きな影響を受けたのは、中国大陸南方、長江下流域に繁栄した長江文明です。

日本で縄文文化が栄えていた頃、長江文明では玉器の精工な加工が行われていました。この影響を受けて、縄文時代の日本で行われたのが、ヒスイの加工です。

ヒスイの産地は日本列島内に複数ありますが、宝石加工に堪えうる美しさを持つのは、糸魚川流域で採れるものだけでした。

しかしこの糸魚川流域産のヒスイが、北は北海道から、南は九州の縄文遺跡までの広範囲で見つかっています。

日本の各地域には交流があり、交易を通じて文化的な交流を行なっていたことがうかがえます。

そのほかにも、けつ状耳飾りなど、長江文明由来の遺物が縄文遺跡から出土しています。縄文文化がいかに長江文明の影響を受けていたかがうかがえます。

また一方では、北方からの影響も無視することはできません。

たとえば、深鉢型の縄文土器が挙げられます。

底が深いのは保温の良さと、加熱のしやすさに由来するもので、寒冷地にふさわしい土器の形式です。

半地下構造の竪穴式住居も、寒冷地特有のものであり、縄文文化が北方の影響を受けていることを示しています。

また、青森県の三内丸山遺跡や石川県のチカモリ遺跡から見つかった巨大掘立柱遺構は、北方特有の巨木信仰との関連性が指摘されています。

具体的にいえば、トーテムポールの類です。これらも南方文化と北方文化の交流があったことを示しています。

チカモリ遺跡で発見された環状木柱列(復元)

神話にも見られる南方文化の影響

日本の記紀神話に、東南アジアやポリネシアの神話の影響が見られるのは、多くの神話学者が指摘していることです。

たとえば、「古事記」には次のような話があります。

ー天上世界から下ったニニギノミコトは、美しいコノハナノサクヤビメとの結婚は承諾した。

しかし、姉のイワナガヒメは容姿が醜いことを理由に結婚を拒んだ。

姉妹の父オオヤマツミノカミは激怒し、「イワナガヒメを受け取ればお前たちの生命は岩の如く永らえたが、コノハナノサクヤビメだけを受け取ったため、天孫の命も散る花のようにいつか潰える」と宣告したー

このタイプの話は神話学上「バナナ型」と呼ばれる死の起源神話で、ポリネシアやメラネシアなどの南洋世界に幅広く分布しています。

南洋世界の死の起源神話と同じ類型がなぜ、日本の記紀神話に見られるのか?

西日本の縄文人が、海外との交易を通じて日本にもたらした可能性が考えられます。

いずれにしても縄文文化は、海外の異質な文明を融合させることで成立していました。

日本人の特性として、さまざまな文化・宗教を受けいれ取捨選択し、融合させるという点が指摘されますが、これらはすでに縄文時代に萌芽していたようです。

日本で巨大集落が誕生した頃世界で文明が興った

約1万年続いた縄文時代

2万年前に氷河期が終了して温暖化に転じると、日本列島の環境も変化します。

針葉樹林が姿を消し、東日本では落葉広葉樹林が、西日本では常緑広葉樹林が現れるようになりました。

動物もナウマンゾウなどの大型動物は姿を消し、動きの速いシカやイノシシが主体となりました。

こうした環境の変化に合わせて、人の生活も変わり、縄文文化が始まります。

縄文文化は約1万2000年前に始まり、約2400年前に終焉するまで、約1万年も続きました。この縄文文化が日本列島の文化だった時期を「縄文時代」と呼びます。

巨大集落の跡からわかる縄文人たちの豊かな生活 

縄文時代については、長く「粗末な竪穴式住居に住み、小集団で移動しつつ、狩猟・採取中心の生活を送っていた閉鎖的で未開の時代」という見方が常識化していました。

しかし、こうした縄文観は、近年のさまざまな発掘調査によって、完全に覆りました。

縄文時代の早い時期から人々が定住していたことが、鹿児島県霧島市の上野原遺跡から分かったためです。

当時からすでに相応の建築技術があったことは、青森県青森市の三内丸山遺跡での調査から分かりました。

広さが東京ドーム8個分もあり、約1500年の長きにわたって集落が営まれたこの遺跡から、長さ最大32メートルの大型竪穴式住居10軒、直径1メートルの栗の木柱を6本使った「掘立柱建物」の跡が見つかったのです。

またこの遺跡からは、縄文人たちの豊かな食生活も分かってきました。

ゴミ捨て場からは50種類以上の魚の骨が見つかりました。三内丸山の縄文人たちは、眼前に開けた陸奥湾の海の幸を堪能していたのです。

魚以外にも野ウサギ、キジ、アザラシなどの肉が食卓をにぎわせていました。

エゴマ、ヒョウタン、マメ、ゴボウといった植物もふんだんに食べていました。 

DNA解析により、栗栽培をしていたことも分かっていますし、果実酒を楽しんでいたことも確実視されています。

縄文時代から人々は定住し、周囲の環境を生かしつつ生きていたのです。

古代メソポタミア・礼拝者の像(紀元前2700〜前2600年)

各地で興りはじめた文明

このように日本で縄文文化が花開いていた時代、世界各地でも文明が誕生していました。

東地中海世界では、クレタ島に金石文化が興って、エーゲ文明が誕生します。

エジプトでは、メネス王が上・下エジプトを統一し、エジプト第一王朝が樹立されます。

メソポタミア地方では、シュメール文明が興り、ウル、ウルク、ウガシュなどの都市国家が形成されました。

定住、大規模建物、活発な交易の3点を有する縄文文化も、これらの文明誕生と連動すると考えて良いでしょう。

縄文時代は原始文明の時代だったのです。

日本人はどこからやってきた?

日本列島最初の住人は旧石器時代人

日本列島で縄文文化が営まれる前の時代を、私たちは「旧石器時代」とよんでいます。

この時代は気候が寒冷だったため海岸線が低く、日本列島はユーラシア大陸と地続きでした。

そのため、多くの大型草食動物が日本列島に流入しました。オオツノジカ、マンモス、ナウマンゾウ、ヘラジカ…。

人類もこうした動物たちを追って、日本列島にやってきました。つまり、旧石器時代=原日本人というわけです。

彼らの流入ルートを知ることは、日本人のルーツを知ることになります。

日本人のルーツについては、「二重構造」がほぼ定説となっています。

南方アジアから流入した人の集団が縄文人となり、北方アジアから流入した集団と融合し、日本人となったという説です。

沖縄の遺跡が語る古代人の足取り

DNAによる調査も、これに近い結果を得ています。

近年、生物学を含む科学の大きな進展により、DNA解析によって遺伝子レベルでの情報を得ることで、古代人類の足取りをたどることができるようになってきました。

旧石器時代人のDNA解析に関しては、沖縄県石垣市にある白保竿根田原洞穴遺跡で出土した、同時代の人骨を使った結果が注目を集めています。

旧石器時代人たちが、死者の葬送儀礼を行っていた痕跡が発見され、大きな話題となった遺跡です。

2013年、同遺跡から発見された人骨10点をDNA解析にかけたところ、反応を得られた4点から、南方アジアから北上したものであるという結果が得られました。

複数の集団によって形成された縄文人

ただ、旧石器時代のすべてがそのまま縄文人になったわけではなさそうです。

縄文人に関しては、全国の縄文遺跡から出土した縄文人骨でDNA解析が行われています。

その結果、人類が南方アジアから北上してきたことは間違いないものの、日本国内の中でも、集団によって、母方のみから伝えられるミトコンドリアDNAの組成が異なっていました。

つまり、縄文人=均一的な存在というわけではないのです。

おそらく、旧石器時代の集団がいくつも流入し、気候温暖化による大型動物減少など、環境の変化に対応できた集団が、縄文時代を担ったと推定されます。

さて、旧石器時代人が南方から、日本列島に北上したとして、その前はどうなのでしょうか?

この疑問に関しては、遺伝学の研究によって、アフリカであることが有力視されています。有名なミトコンドリア・イブ説です。

日本人はアフリカ大陸から来た

ここでいうミトコンドリアとは、ミトコンドリアDNAのことです。

これは前述した通り、母方だけから受け継がれるのが特徴で、父方の遺伝子は混在しません。

遺伝学者たちはこの利点を活かして人類のルーツを探すため、多くの現代人女性のミトコンドリアDNAを鑑定しました。

すると、ヨーロッパ人、アジア人に関係なく、20万年前のアフリカ系人類を起源としていることが判明したのです。

ただし、ここでいう人類のルーツとは、あくまで新人です。

人類は猿人→原人→旧人→新人という流れで進化しました。

さまざまな猿人がいるなかで、現世人類誕生のきっかけとなったのは約230万年前に出現したホモ=ハビリスです。

このホモ=ハビリスから原人ホモ=エレクトスが生じ、さらに古代型ホモ=サピエンスたる「新人」が生じました。

現世人類の祖先はこの新人であり、15万年から10万年前に、アフリカ大陸で誕生しました。

6万年前、私たちの祖先はアフリカ大陸から旅立ちました。人類学上でいう「出アフリカ」です。

彼らは定住と移動を繰り返しつつ、ゆっくりとユーラシア大陸全域、オーストラリア大陸、南北アメリカ大陸へと拡散。

その途中で環境の影響を受け、混血と融合を繰り返しつつ、広がっていきました。

スペインのアルタミラ洞窟の壁画や、フランスのラスコー洞窟の壁画は、出アフリカを果たした新人たちの痕跡です。

また、1868年に南フランスのヴェゼール渓谷で発見されたクロマニヨン人は、進化した石器を製作・使用しており、生活能力が高かったことが分かっています。

そして、5万年前に南方アジアに到達しました。この集団が東アジアへと北上し、このうち日本列島に到達した新人が、最初の日本列島の住人となったのです。

誠実さを貫く

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真実を恐れない人は嘘をつく必要がない。誠実さは揺るぎのない職場関係をもたらし、それがエグゼクティヴとしての成功に結びついていきます。

企業側が誠実な姿勢を貫いていると信頼できれば、取引先も前向きな姿勢になります。

社員も、経営側が公明正大に接してくれていると感じたならば、忠誠と信頼をもって応えようとするでしょう。

消費者もその会社の製品が期待を裏切らないとわかると、その社名ブランドに対して信頼を寄せるようになります。

株主は、会社が誠実な経営を貫いていると知れば、たとえ業績不振でもすぐには株を手放そうとはしません。

今のビジネス界では、企業は誠実さを失うと、まず広告業界に駆け込み、「売るための技術」にすがり、企業の真実の姿を華やかな外見の陰に隠したまま、ひたすら市場に売り込みをかける。

最近では、広告業界側からは、あえて新しい企画を導入させようとはしないし、顧客企業のレベルアップを図ろうと真剣に考えることもありません。

経営上層部に対して、「営業」をし、ターゲット市場を「調査」します。

それでもしうまくいかなかった場合は対策を講じるが、それには社会の批判をかわして世論を静めるための「ごまかし」の手段も含まれています。

企業と広告業界とのこうした関係によるマーケティング・アプローチで問題となってくるのは、見え透いた嘘をつくことではなく、世間が気づかないように巧妙に真実を歪曲していることが多いという点です。

事業責任者はそれが自分のキャリアに有利になると考えれば、経営陣の期待に応えようとして、どんな契約でもしてしまう恐れがあります。

このようにうわべを飾ってごまかしたり、真実を誇張したりすることは、企業やその事業に取り組んでいる責任者に、多大な問題を引き起こすことになります。

極端な場合、企業は重大な決断を下す際に、スライドや体裁の良い資料だけに基づいて企画を判断するようなこともあります。

ほとんど現実味がないといってもいいような契約がその場で成立したりします。

誠実さは現実の重みに押しつぶされ、やがて期待していた結果が出ないとなると、事業責任者を告発することになります。

ビジネスにおける不誠実さはどこから始まるのだろう?実は、誰もが毎日いろんなかたちで不誠実さを生み出しているのです。

会議中、議案に賛成はしたものの、実はあまりきちんと考えていなかったりします。

退屈なプレゼンテーションに熱心に耳を傾けているかのように真剣な顔をしているが、実は一言も聞いていないこともあります。

社会的儀礼として、ある程度の嘘は必要ということです。

みんなが終始一貫して正直にふるまっていたら、社会秩序はまず成り立たない。だから私たちは真実を隠したりぼかしたりして、その場に合わせ、組織がスムーズに運営されるようにします。

しかし、「社会的に容認できる嘘」と真実との区別が曖昧になると、問題が起こってきます。

もはや何が本当で何が嘘なのかわからなくなる。そうなるとますます事実を脚色したくなって観客に受けるものを目指すようになります。

会社に認めてもらえるよう事実を違った方向から見せたりする。脚色した事実を少しずつ塗り重ねることで、本当の真実とは遠くかけ離れたところにたどり着く。

こうした不誠実さは、経営陣に「誤ったデータ」を基に決断させるだけでなく、社員同士の信頼関係をむしばんでいくことにもなります。

信頼がなければ組織を束ねていたものが壊れていきます。

 組織をまとめる接着剤の役割を果たすものーそれが人間関係です。

誠実さがなければ、信頼も生まれず、結果として脆弱な人間関係しか育ちません。

この脆い人間関係が、最後には組織全体を脆くすることになるのです。

反対に、誠実さを貫くことで組織の土台が強化されます。

調和した関係が築かれるとたとえ経営上の危機を迎えても、その大変なストレスに耐えることができます。

この誠実さは必ずしも簡単で楽なものではないが、最高の可能性に満ちた企業を作り上げるのに大きな効力があります。

⭐️ “社会的に容認できる嘘”と真実を曖昧にしてはいけない。

部下を信じる

1968年、フレデリック・ハーツバーグは「ハーバード・ビジネス・レビュー」誌に「もう一度部下をやる気にさせるには」と題した論文を発表しました。

以来30年以上たつが、現在でも通用する的確な意見で、わかりやすくてなかなか品も良い。

いわく「ケツに蹴りを入れる」ようなやり方のマネジメントでは、やる気を引き出す効果はない、というのです。

その理由は、社員の自尊心を傷つけ、不満や恨みを抱かせることが、結果的に業績を低下させるからだといいます。

ハッツバーグによれば、悪い結果しか生まれないにもかかわらず、アメリカではこのスパルタ式マネジメント方法が非常に広くおこなわれているといいます。

1987年の改訂版に追記として、依然スパルタ式マネジメントがはびこっているようだ、と彼は懸念を述べています。

従業員の幸福よりも株主への配当金と管理職の報酬を優先する、結果しか見ない圧倒的な考え方こそ、いまだにスパルタ式マネジメントが幅を利かせている原因になっています。

数字で結果を出せ、できないならクビだ。目標を達成しろ、できなければ窓ぎわ行きだ。そんな組織がまだまだあります。

スパルタ式を用いる上司と、不安を克服した上司には決定的な違いがあります。

スパルタ式上司には教育者的一面があり、いい成績をとれ、試験に合格しろと部下に命じる厳しい教官のようです。

上から部下に睨みを利かせ、各人の業績をつねに査定しています。目標に届かなかった場合は相応の罰を、達成した場合は賞を与えます。

不安を克服した上司は、部下を対等に扱い、目標達成に向けてのサポートをします。

上司は必要に応じてアシスタントあるいはコーチとしての役割を果たします。

一貫して信頼と敬意を持った態度で接し、部下の能力を信頼しています。

部下たちは成績を上げようと苦しむ必要はなく、自分のベストを尽くせば良い。

上司は部下を尊重することで、その仕事ぶりを支えています。

不安を克服すれば、スパルタ式のような小手先の手法は必要ありません。

自分を良く見せようとして他人を踏み台にすることもありません。

無理に目立とうとしなくても、成功に必要な「輝き」は自分の才能がもたらしてくれると自信が持てるのです。

⭐️ 部下の能力を信頼し、尊重することで、その仕事ぶりを支えるよう努める。

ぶれない

成功への道の最終段階にあるのは、ただ不安がなくなった状態というだけではありません。

目指す課題は、まったく新しいスタイルのリーダーシップです。

まちがった思い込みを捨てて不安を静めてしまえば、もう恐れることはありません。

不安に行動を左右されることもなくなります。

社内のライバルに勝つことも重要ではなくなってきます。

些細な日常業務にまで絶対的な支配力を振るう必要もなく、部下を信頼して仕事をまかせることができるようになります。

自分の才能を全面的に信じ、情熱のままに進んでいくことができるようになれば、自信と気力に満ちあふれ、決断力があり、部下を育てる、理想のエグゼクティブになれます。

自分の心の羅針盤がはっきりと見えるなら、進むべき道はわかっているはずです。

自信は、特別なパワーを秘めた魔法のようなものでなく、むしろだれにでも備わっている人間本来の資質です。

不安に支配されないということは、自分の価値観に従って生きるということです。

そのためならどんな努力でもし、自分の信念をしっかり持って、他人や自分自身に抑圧されて耐えるなどということはしない。

大事なのは自分の人生ーそんな姿勢を貫くことが本物の自信だと思います。

勇気あるリーダーになる資質はだれにでもあり、あなたの中で目覚めるのを待っています。

最初にすべきことは、あなたの目を曇らせて行動を抑えつけている不安に正面から立ち向かうことです。

思い込みから生じた不安を見つけて追い払うことができたとき、自分の中に自信とパワーがみなぎっているのがわかるでしょう。

⭐️ “大事なのは自分の人生”という姿勢を貫くこと。

たとえ他人にどう思われても

砂漠での苦労を経験したあとで、自分の才能を活かす「すきま」を発見して成功をおさめた人の話はたくさんあります。

IBMの会長ルー・ガースナーの例を見てみましょう。

1993年、IBMは初めて社外の人材をトップに迎えた。それがルー・ガースナーです。

彼は五年間で、かつて優良企業の典型だった会社を危機から救出しました。そして1999年には、彼の大胆な経営改革によってIBMの市場価値は400億ドル以上にまでなりました。

しかし、ガースナーはつねにバラ色の仕事人生を送ってきたわけではありません。

ハーバード・ビジネススクールを卒業後、一流のコンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。

みるみる頭角を現し、28歳で社内で最年少の管理職に昇格、さらに33歳で最年少の取締役の一人となりました。

1978年、マッキンゼーを退社して、自分が担当していた顧客だったアメリカン・エキスプレスに移りました。 ここから彼の勢いは下り坂になります。

アメリカン・エキスプレスでは、クレジットカード事業部を率いる責任者に就任しました。

当時、リボルビング払いを扱う他社のカードに押されてすでに業績は下がり始めていました。

彼は業務改革をおこなって、ある程度の成功をおさめることはできたが、独自の根強い企業風土や「ステイタス」カードという世間一般のイメージが自分には大変なストレスだと感じていました。

そして1981年にシャーソン証券会社を買収合併し、新しいエグゼクティヴが一気に増えたことで、ガースナーは約束されていた経営トップのポジションから遠ざけられてしまいます。

1980年代の大半はガースナーにとって苦悩の時期で、望んでいた成功を実現できずにいました。

結局トップの座に就くことはできないまま、1987年、彼は勝負に出ました。

当時経営不振に苦しんでいたユナイテッド・エアラインのCEOに就任しました。

しかし業績は振るいませんでした。ユナイテッド内部の意見によれば、彼に会社を立て直す力量があるかどうか、その手腕に対して社員たちはあまり信頼を寄せていなかった、といいます。

1989年、彼は再び思い切った行動に出ます。

現場の辞任を届け出た翌日、RJR ナビスコの社長に就任。ここでまた、彼は自分がのっぴきならない状況にいることを知ります。

RJR ナビスコは250億ドルで買収されたあとで、借入資本の負債を抱えており、資本拡大する余裕などはほとんど残されていませんでした。

さらに悪いことに、一番のライバル、フィリップ・モリスがマルボロの値下げをし、タバコの価格競争で収益は悪化、会社の株価も下落しました。

注目してほしいのは、アメリカン・エキスプレスやRJRにいたころのガースナーが、マッキンゼー時代のやり手のルーキーとしても、あるいは現在の敏腕CEOとしても知られていなかったという点です。

彼にはつらい年月で、公私ともに問題が絶えませんでした。

しかしその結果、ガースナーは独自の経営スタイルを築き上げ、それがちょうどIBMが必要としていたものと一致しました。

彼は教科書で習うような経営スタイルなど意に介さない。その手法はダイレクトで、戦略的で、目標が明確です。

社交的なことに時間を費やしたりはせず、同業者との「ネットワーク」を築くこともほとんどありません。

社員の労をねぎらうような言葉は口にせず、優れた業績をあげた社員には褒め言葉のかわりに相応のボーナスを与えました。

他の経営陣は彼の手腕を認めているが、自分自身を売り込むとか自社製品を売り込むといった点ではかなり力不足だと評しています。

ガースナーはIBMのこれまでの経営者とはまったく違う。それでもIBMが必要とするのは彼のような経営者だと、ほぼ全員が口を揃えます。

IBMに来る前の「砂漠」の時期に、ガースナーは自分の才能をよりどころにすることを学び、それが今の輝かしい成功を支えています。

彼のトレードマークともいえる自身と、不安に惑わされずに難しい決定を下す決断力を身につけたのはその時期でした。

そして砂漠から脱出したとき、キャリアの最高峰に位置する仕事をこなす準備ができていました。

当初は彼の能力を疑う声もあったが、大方の予想に反して完璧な実績を上げたのは、砂漠にいるあいだに準備を整えたからです。

ガースナーの例でわかるように、自分の能力への確固たる自信だけが成功をもたらします。

たとえ他人にどう思われようと、自分の人生の使命をまっとうしなければならない。

天職をきわめることで初めて成功を手にできる。

この教訓を学ばないうちは、まだ砂漠から抜け出すことはできません。

この段階を踏んでようやく自分の潜在能力を最大限に発揮できるようになります。

人生における砂漠の時期は孤独で過酷な試練に思えるでしょう。

もがき苦しみながら、迫り来る難題に挑戦し、不安感に立ち向かわなければなりません。

不安を押しのけて自分を信じようという意志を持つまでは、砂漠から脱出することはできないし、人生の使命を果たすために必要な準備も整っていないのです。

⭐️ 自分の能力への確固たる自信だけが、あなたに成功をもたらす。

モーセから学ぶ

旧約聖書には、砂漠でのエピソードがよく出てきます。

まさにその「砂漠」という場所で不安が姿を現し、砂漠から脱出するためには、不安に打ち勝たなければならない状況になります。

旧約聖書によれば、モーセは王宮を追われ、エジプトから追放されたあと、何年間も砂漠の中をさまよいます。

そしてミデアン人という遊牧民とともに、羊飼いとして暮らし始めます。

エジプトを支配する王のそばで過ごしていたころと比べると、あまりに卑しい身分に身をやつしていた。

モーセが自分の不安に直面するのは、そうして砂漠で過ごしていたときでした。

聖書にはこう書かれています。「モーセは神を見ることを恐れて顔を隠した」

そして、神はモーセに言われた。「さあ立ちなさい、あなたをエジプト王のところへつかわします。イスラエルの民をエジプトから導き出しなさい」。 ここで再びモーセの不安が浮かび上がってきます。

モーセは神に言った。「わたしはいったい何者なのでしょう。わたしがエジプト王のところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのですか」

そのあともずっと不安を口にしています。「しかし、彼らはわたしを信じず、わたしの声に聞き従わずに、神はあなたの前に現れなかった、と言うでしょう」

さらにこうも言う。「ああ主よ、わたしはこれまでも、またこうして神の言葉をいただいたあとも、雄弁な人間ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」

これは砂漠での出来事です。モーセの人生で一番苦しい時期であったことはまちがいありません。

この後、彼は不安に打ち勝って、ユダヤの民の偉大なリーダーになることができました。

自分の中にある不安に打ち勝つことで、ようやく自分の運命の力を信じられるようになったのです。

この話に象徴されているように、不安に打ち勝つにあたっては二重の苦しみを味わうことになります。

落ち込み、傷つきやすい状態のときにもっとも困難な問題に直面するのです。

根拠のない不安にもっとも影響されやすい時期に、その不安に身をまかせてしまいたいという誘惑を退けなければなりません。

不安を乗り越えて天職をきわめたいのなら、まさにこの人生の「砂漠」のときこそ、不安をねじ伏せなければなりません。

砂漠にいるモーセの話でもっとも美しい部分は、彼がいかにして不安に打ち勝っていったかというくだりです。

「出エジプト記」では神とモーセの対話でそれが描かれています。

「あなたが手にしているものは何か」。モーセは答えた「杖です」。

神は言われた「それを地に投げなさい」。彼が杖を地に投げると、ヘビになったので、モーセは身を避けた。

主はモーセに言われた「手を伸ばして、その尾を取りなさい」。

そこで彼が手を伸ばしてそれを取ると、手の中で杖となった。

神は言われた「これは先祖たちの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、あなたのもとに現れたことを人々に信じさせるためである」

やがてモーセが手にしていた杖は驚くべき奇跡を起こし、彼はその力によってこの世で最強の国を勝ち取りました。

それは彼が毎日持ち歩いていた粗末な羊飼い用の杖にすぎませんでした。

この杖と同じものを、実はあなたも持っているのです。

自分が手にしている素晴らしい道具を発見するためには、不安を克服しなければなりません。

成功の源になるのは、あなた自身が毎日持ち歩いている「才能」という杖です。

人生の道が砂漠に突入し、不安に直面して動けなくなったときには、その一見何の変哲もない杖を使って離れ業をやってのける方法を学ぶことができます。

⭐️ 不安を克服しなければ、あなたが手にしている素晴らしい道具には気づけない。

不安の声を静める

下積みの仕事をやり遂げ、自分の才能を発見し始めたところで、地盤固めの段階に入ることになります。

ここでの課題は、才能に磨きをかけ、不安を克服することです。

文学作品には、この段階の比喩的シンボルとして「砂漠」が用いられることがあります。

荒涼とした不毛の地で生き残るには本能を働かせ、自分の能力に自信を持たなければなりません。

砂漠の道は苦労の連続で、その行程で手にする見返りは少ないので余計につらさが募ってきます。

砂漠の中で何よりも心を乱されるのは、自分の短所ばかりに目がいき、人生とキャリアを考え直させられることです。

だがそのかわりに、砂漠の向こう側にたどり着いたあかつきには、人生最高のときを享受できます。

不安を乗り越え、才能という力をよりどころにする術を学んだのだから。 最後に手にする結果で、これまでの苦労はすべて報われるのです。

資金不足で先の見通しが立たないと、不安でしかたがないのももっともです。

崖っぷちに立たされ、眼下に広がる真っ暗な海を前にして、もっとお金が、力が、名声があったら、問題はすべて解決なのにとどうしても考えてしまいます。

しかし、お金や力や名声がどれだけあっても、不安がなくなることはありません。

逆にたくさん持っているほうが、不安はますます大きくなります。

お金がなくなるのではないか、力を失うのではないか、取り返しのつかないほど評判が落ちるのではないかと心配は募るばかりです。

不安を静めてくれる薬は、自分の才能を心から信じること。

これが人生の砂漠で学ぶべき教訓です。

⭐️ 人生の砂漠を通り抜けるためには、自分の才能をよりどころにする。

謙虚に学ぶ

ジョンは、ファッション業界のバイヤーになろうと心に決めていました。

デザイン学校で勉強したあと、運良く、アメリカで一番ファッショナブルなデパートの一つに就職することができました。

最初の仕事の肩書はアシスタント・アナリストで、バイヤーが決めた買い付けの注文書の作成から、デパート全体を統括する小売業アナリストに提出するための売上集計まで、まかされたのは細々とした書類仕事ばかり。

かっこよくてファッショナブルな仕事とは程遠いかった(ジョンはバイヤーの仕事はそうでなければと考えていた)。

デザイン学校の先生に、大いに才能があると認められた彼は、自分はもっとできるのにと考えるようになりました。

結局、今の仕事内容は希望どおりというわけではなかったのです。

一年後、彼は退社し、別の販売会社に就職して、流行の最先端からは少し離れることになりました。

その後も数々の会社で経験を積んだあと、ついに大手ディスカウントストアのバイヤーの地位を獲得しました。

その会社は大量販売に重点を置いていて、バイヤーに求められるのは、いかに安く買い付けて大量に売りさばくか、ということだった。

ジョンはこの販売哲学を嫌い、できるかぎりの方法で対抗しました。

しかし売上実績はあまりぱっとしないまま数年が経ち(この店の客は、ジョンが苦心して品揃えした最新流行のものではなく、安い商品を求めて買い物に来る)、解雇されました。

小売業界での仕事に熱意を失った彼は、人材派遣会社で働くようになりました。

もしジョンが下積みの仕事を厭わずに学ぶ姿勢で取り組んでいたら、とても大切な真実を発見していたことでしょう。

第一に、小売業界のバイヤーというポジションは、流行や美意識よりも、売上と収益と市場分析力が問われるという事実を知ることになったはずです。

第二に、それでもバイヤーになりたければ、新製品の専任担当者として起用してくれ、なおかつ数字的なことをすべてまかせられるアナリストをつけてしっかりバックアップしてくれるような会社で働くしかない、と見きわめられたでしょう。

そして最終的には、自分の才能が本当に発揮できるのは、商品企画であることに気づいたかもしれません。

謙虚に学ぶ姿勢を失わずに下積みに取り組んでいたら、ジョンはファッション業界で頭角を現すチャンスをものにしていたでしょう。

おかしなことだと思うだろうが、下積み時代に学ぶべきことを学んでおかないと、いつまでもしつこくその課題につきまとわれることになります。

自分自身の経験をもう一度見直してみましょう。

下積み時代の仕事はあなたにどんなことを教えようとしていただろうか。

そしてあなたは何を学んだだろうか。

下積みの仕事をやり通さなければ、成功へ続く道の次の段階に進むことはできません。

単純だが実に奥の深い課題が待っています。

あなたの才能とは何でしょう?

心から楽しいと感じるのは何をしているときでしょうか?

次に進むためにはその答えを見つけられなければならないのです。

⭐️ 下積み時代に学んでおかないと、いつまでもしつこく同じ課題につきまとわれる。