白村江での敗戦が日本を律令国家に変えた

激動の東アジア情勢と唐の登場

東アジアは6世紀末から激動期に入ります。

先ず、581年、分裂していた中国を統一し、隋王朝が誕生します。しかし、わずか37年で滅んでしまいます。

代わって中国大陸を統一したのは唐王朝でした。

唐は律令(法律)を整備して国家体制の基礎を確立するいっぽう、対外的にも積極策をとり、世界的大帝国へと膨張していきます。

新たなスーパーパワーの出現に朝鮮半島は激震しました。

高句麗では淵蓋蘇文(えんがいそぶん)が対唐穏健派を排除し、対外強硬策を採ります。

同半島の百済では、義慈王が反対派を多数追放して権力を強化し、積極策に打って出ました。

クーデターによる蘇我氏の打倒と法の制定

こうしたなかヤマト政権は、遣唐使を派遣して唐との外交に積極的に取り組むも、内政面では最大実力者・蘇我氏の専横に頭を抱えていました。

蘇我氏の専横に関しては「帝位を狙う野心があった」云々と解説されることもありますが、これは後世に生きる人の理屈です。

当時、「帝位を狙ってはいけない」という規定はなかったのです。

じつは古代日本は長いこと、地縁・血縁の結びつきで社会が成り立っており、法律は未制定でした。

かつて推古女帝の甥・厩戸聡耳皇子(聖徳太子)が「憲法十七条」を制定したことがありましたが、これは役人の道徳に近いもので、罰則規定はなかったのです。

法律がないのは、船に動力や舵がついていないのと同じこと。

先行き不透明なことこのうえありません。

ましてや、東アジアは激動期。法が未制定で国家の方針が定まらないことには、国の存亡に関わってきます。

しかし、法を定めるには地縁・血縁で最大勢力となった蘇我氏が、抵抗勢力となることは確実でした。

645年6月12日早朝、飛鳥・板蓋宮で蘇我入鹿が暗殺され、蘇我蝦夷が自害へと追い込まれます。

この「乙巳の変」の首謀者は、中大兄皇子と中臣鎌足でした。

古代日本を法治国家とするため、蘇我氏を排除したのです。

このクーデターを受けて皇極女帝は退位し、女帝の実弟・軽皇子が皇位を継承して孝徳天皇が誕生します。

政府内人事も一新され、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣として政権に参画し、大化の改新を断行します。

これにより「公地公民」「元号制定」「班田収授法」などの諸制度が定められました。

この改新は古代日本を東アジアの強国とし、激動の東アジア情勢に即応できる国とするためのものでした。

同時にヤマト政権が有力豪族連合を脱し、中央集権体制へと歩みだした第一歩となったのです。

乙巳の変で蘇我入鹿が首をはねられるシーンを描いた絵画(『多武峯縁起絵巻』)

白村江での手痛い敗北

しかし、一朝一夕で国が変わるはずもありません。ヤマト政権はこのことを、663年の白村江での大敗北で思い知らされます。

この戦いは、百済の救援要請を受け、軍を朝鮮半島に派遣し、唐・新羅連合軍と激突して起こりました。

ここでヤマト政権軍は完膚なきまでの敗北を喫するのです。

勝敗の決め手は軍勢の形式でした。

唐帝国軍は国によって徴兵され、軍事訓練を受けた兵士で構成されています。

いっぽうの日本国軍将兵は、これといった基準もないまま、各地の豪族が集めた混合部隊編成だったのです。

プロの軍団と寄せ集め集団。これでは勝負になりません。

国の行政・業務などすべてが、法律に則って行われる律令体制の唐帝国と、法や制度の制定が始まったばかりの古代日本の差が出たのです。

敗戦を知った中大兄皇子は、唐の侵攻に備えて国の守りを固めるいっぽう、都を飛鳥の地から内陸部の近江大津宮に遷都し、668年に正式に即位して天智天皇となりました。

初代天皇・神武天皇から数えて38代目の天皇です。

天智天皇(中大兄皇子)

律令の制定に邁進していた天智天皇は即位から2年後、「庚午年籍」を作成します。

これは日本初の全国的戸籍であり、徴兵と徴税をスムーズに行うために作られました。

戸籍成立の翌年、天智天皇は没したため、実子の弘文天皇を経て、実弟の大海人皇子が天武天皇として即位します。

天武→持統→文武と代を重ねるなかで律令制度制定が精力的に進められ、奈良時代の初期に「大宝律令」、のちに「養老律令」が制定されるのです。

ところで、日本は現在までに3回の敗戦を経験しています。

1回目がこの白村江の敗戦で、2回目は幕末維新期です。

幕末維新期については、武力を背景とした恫喝外交で開国に追い込まれたのは、敗戦に等しい出来事です。

3回目は、太平洋戦争での敗北です。

興味深いことに日本は敗戦のたびに、戦勝国の政治・制度を採り入れて復興してきました。

太平洋戦争後には自由と資本主義を、明治維新後には欧米の政治・制度を、白村江の敗戦のあとは、唐帝国の律令国家体制を採り入れたのです。

その意味において白村江の敗戦は、幕末維新期の開国、太平洋戦争での敗北に等しい出来事だったと言えるでしょう。

「日本」「天皇」という名称は隋に対抗するために生まれた

天皇と日本という名が制定される

私たちが現在当たり前に使っている「日本」「天皇」という名称は、689年に施行された本格的法律「浄御原令」において正式に決まりました。

それ以前は、天皇は「治天下大王 (あめのしたしろしめすおおきみ)」を称し、国名は「倭国」としていました。

中国王朝が日本を「倭」と呼んだことから自称したのです。

「日本」「天皇」の名称の決定には、天智・天武・持統の三天皇が深く関わりました。

ただ、この三天皇の代になって、急に切り替わったわけではありません。変更に向けた長い準備期間があったのです。

隋の煬帝

中国の冊封体制下からの離脱

日本は長いあいだ、中国王朝の冊封体制下にありました。

冊封体制とは、中国王朝に朝貢して臣下の礼をとる代わりに、中国の皇帝の権威で王権を保証してもらう政治システムでした。

しかし、6世紀の中ごろから、ヤマト政権は冊封体制下からの離脱と、自主独立の道を模索し始めました。

そして7世紀初頭には、次のようにしたためた国書を隋帝国に送るのです。

「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」

これは『隋書』東夷伝倭国条に記された文面です。

この書を読んだ隋帝国皇帝・煬帝は、「無礼な書なり」と強烈な不満を露わにしたといいます。 

煬帝がそのような反応をしたのは、倭国の王が「天子」を称していたからです。

中国では「天子は地上にただひとり」と考えられています。

その点を承知しながら、まるで対抗するかのように、「日出る処の天子」と自称したために、煬帝は怒ったのです。

「治天下大王」から「天皇」へ

煬帝にとっては非礼な国書ではありましたが、倭国にとっては成果がありました。

倭国は、隋王朝から冊封を受けなかったのです。

こうして倭国の大王は、中国王朝から独立した君主であることが認められました。

その後隋帝国は煬帝の失敗もあって、建国からわずか37年で滅亡し、唐帝国が誕生します。

これを受けて倭国では、中央集権化と富国強兵が叫ばれます。そうしなければ、唐帝国をはじめとする東アジア情勢の激動に飲み込まれてしまう危険性があったためです。

こうしたなか大化の改新が断行され、白村江の敗戦があり、天智・天武・持統の三帝により、律令国家体制作りが進められるのです。

政権のトップたる「天皇」の称号も、この動きのなかで決められました。

天皇とは道教(中国固有の民衆宗教)の最高神格で、皇帝と比較して何ら遜色がありません。

また、この動きのなかで「日本」という国号も制定されました。

天皇号と日本の国号は、激動化する東アジア情勢を受けて、国の基盤を強固にするために制定されました。

国の存続と繁栄をかけたものだったのです。

仏教で中華思想に対抗した蘇我氏と推古天皇

仏教の伝来で生じた対立

紀元前6世紀に古代インドで誕生した仏教は、東南アジアや中央アジアに伝播したあと、シルクロードを通って中国に伝わり、6世紀に朝鮮半島を経て、日本に伝来します。

日本に定着したのは、欽明・敏達・用明の3天皇を経てのことです。

定着まで3代を要した理由については、「仏教の受容を主張する蘇我氏と、日本古来の神道を重視する物部氏の対立」があったためです。

日本には八百万の神がいます。外来の神の受容に抵抗を示す物部氏サイドの反応は当たり前のことでした。

推古天皇

仏教を受け入れた理由

日本史上「崇仏論争」と呼ばれるこの対立は、単なる宗教論争から政争にまで発展し、ついには武力衝突に至ります。

勝利したのは蘇我氏でした。

これによりヤマト政権では、仏教受容の基盤が整うのです。

用明天皇の死後、皇位は崇峻天皇を経て、推古天皇が継承しました。

日本史上初めてとなる女帝の誕生です。

594年、推古女帝は天皇直々の仏教振興命令となる、「仏教興隆の詔」を出します。

これによりヤマト政権は、総力を結集して仏教の受容を推し進めることになるのです。

ヤマト政権が仏教振興に力を入れたのには、複数の理由があります。

一つ目は仏教が東アジアのグローバルスタンダードになっていた点です。

中国や朝鮮半島では、仏教は仏の力による国家鎮護の法として、さかんに信仰されていました。

仏教を受容しなかったとしたら、古代日本は東アジア世界のなかで大きく後退してしまいます。

そのような事態を防ぐために、固有の神信仰がありながらも、国をあげての外来宗教受容に踏み切ったのです。

2つ目は技術の受容です。仏教は当時最先端の思想であり技術でしたから、大陸の進んだ技術を受容する意味でも、仏教の受容は理にかなっていたのです。

3つ目はアイデンティティの確立です。別の項でも見たように古代の日本は、中国王朝の冊封体制下に入り、中国皇帝の権威で王権を保証してもらっていました。

ヤマト政権もこの路線を踏襲していましたが、欽明朝あたりから冊封体制離脱を模索し始めます。

中華思想に対抗する価値観としての仏教

ただ、そのためには障壁がありました。 中国には古くから「中華思想」があります。

これは自国=世界の中心に位置する文化的国家、周辺国=未開の野蛮国とする考え方です。

中華思想の枠内にある限り、どんなに「我々は文化国家だ!」と主張しても、「所詮は自称」としか見られないのです。

自主独立路線確立のためには、この中華思想の土俵に乗らないことはむろん、中華思想に対抗できるスケールを持つ価値観のうえで対抗するしかありませんでした。

その方法を模索しているとき、もたらされたのが仏教でした。

仏教は古代インドで釈迦が創始した教えであり、中国起源ではありません。

加えて、東アジアのグローバルスタンダードとして中国でもさかんに信仰されています。

東アジア最大の仏教国になることは、仏教という枠組みにおいて、中国王国以上の存在になることを意味します。

これは、中華思想という枠組みでは周辺諸国にすぎなくとも、仏教の枠組みでは中国王朝を周辺諸国に組み込めることを意味します。

ヤマト政権は、世界の中心となるため、仏教の積極的振興をはかったのです。

東大寺の大仏

須弥山と東大寺大仏

時代がくだって斉明女帝の御代になると、飛鳥の地には盛んに須弥山が作られます。

これは仏教が説く「世界の中心に位置する高い山」のことです。

東大寺に座する大仏は、日本の中心化計画の総仕上げともいうべきものでした。

推進したのは、奈良時代に帝位にあった聖武天皇です。

国家鎮護の法を記した経典「金光明最勝王経」を各地に配った天皇は、次いで「国分寺建立の詔」を出し、国ごとに国分寺と国分尼寺を建立。

さらに「大仏造立の詔」を出すのです。

東大寺大仏の開眼供養は、752年に行われました。

式典には、皇位を娘に譲った聖武上皇、孝謙女帝ほか多数の官人に加えて、1万数千人もの僧が列席しました。

開眼導師を務めたのは、インドの僧・菩提僊那でした。

「仏教伝来後、これほど盛大な儀式はなかった」とは、『続日本紀』中の記述です。 まさに東アジア最大の仏教イベントでした。

このあと大仏は、東北で発見された黄金により、金メッキを施され、金色燦然と輝きつつ、大和の地にあり続けるのです。

仏教を国造りの中核に据えることで、世界の中心になろうとした古代の日本。

東大寺の大仏は、その象徴なのです。

渡来した文化を取捨選択してつくられていった日本人の特性

ヤマト政権にのみ許された前方後円墳

邪馬台国の女王・卑弥呼を盟主とする、広域政治連合が築かれた時代から、推古天皇の御代までを「古墳時代」と呼びます。

この時代は、日本列島各地に古墳が築造されました。方墳、円墳、前方後円墳、帆立貝式古墳。

このうち前方後円墳は、ヤマト政権の首長、もしくは同政権との同盟者のみが築造を許されました。

この政治システムを「前方後円墳体制」と呼んでいます。

日本列島への渡来人たちの流入が始まる

古墳時代からあとの奈良時代に至るまで、日本列島には中国大陸や朝鮮半島から、多数の人々が流入してきました。

彼らを「渡来人」と呼んでいます。

古いところでは、応神天皇の御代に来た弓月君、阿知使主、王仁がいます。

弓月君は秦の始皇帝の子孫とされ、養蚕と機織を伝えました。阿知使主は後漢の霊帝の子孫とされ、政権内で文筆・財政を担当しました。

そして王仁は論語と千字文(書の手本用の漢詩)を携えて渡来し、古代中国の思想家・孔子が創始した儒学を伝えました。

彼らは大陸の知識や技術を伝えると同時に、率いてきた民とともに日本に根を下ろします。

そして、このなかから「秦氏」「漢氏」といった氏族が出て、ヤマト政権で重きをなすようになるのです。

仏教の流入と同時に進んだ大陸文化の導入

時代が下がって、仏教を受容し、仏教を中核とした国造りを推し進めるようになると、海外からの情報の流入量は飛躍的に増加しました。

仏教は、教えのみで成り立っているわけではありません。

教えを広めるためには、寺院や仏像、経典などの道具が必要になります。

仏教は当時、東アジア最先端の思想でした。ですから、寺院建築、経典作成、仏像制作の技術は、先進の技術になります。

仏教の受容は、同時に大陸の進んだ技術の導入でもありました。

それ以外にも、政治システムや風習、習慣などありとあらゆるものが渡来人によってもたらされました。

古代国家形成期の日本は、外来文化の波にさらされ続けていたのです。

古代の日本の文化は、縄文と弥生の伝統の上に、大陸文化がプラスされて成立したと考えることができるでしょう。

もっとも、古代の日本は、先進的な外来文化といえども、すべてを無批判に受け容れたわけではありませんでした。

たとえば、生贄の風習や宦官(男性を去勢して宮廷に入れること)は、採用しませんでした。

都市をめぐる城壁や、皇帝を祀る宗廟も受け入れませんでした。

外来文化の強い刺激を受けつつも、みずからの価値観を保持していたのです。

巨大古墳の造営で力をアピールした倭国の王

中国の歴史書から消えた「倭国」

邪馬台国の女王・卑弥呼は、『魏志倭人伝』中に、「よく衆を惑わす」とあるため、宗教的カリスマ性を帯びた女性と考えられています。

その卑弥呼が亡くなったあと、邪馬台国は男王を立てましたが、この王には宗教的カリスマ性がなかったため、邪馬台国連合は混乱してしまいます。

そこで、卑弥呼の血筋に属する台与(壱与)を女王に据えて混乱を治めます。

台与は魏王朝を滅ぼした西晋王朝に使者を送りましたが、その頃から中国の歴史書から「倭国」の記述は一時消えました。

中国王朝と倭の五王の関係

その後、中国王朝の歴史書に「倭国」の記述が現れるのは、台与の使者派遣から147年後です。

「倭王・讃」なる人物が、東晋王朝に使者をよこした旨が記されています。

倭王・讃は仁徳天皇、もしくは応神、履中天皇に比定される、ヤマト政権の最高権力者です。

このあと「珍」「済」「興」「武」の四王が使者をよこしたことが、中国の歴史書に記されています。

日本史上にいう「倭の五王」です。

王たちが中国王朝に使者を送ったのは、邪馬台国同様、冊封体制下に入るためです。

ヤマト政権の基盤はまだ弱く、この方法でしか、政権維持の活路はなかったのです。

東晋を建てた元帝
倭の五王の「讃」に比定される仁徳天皇

しかし、王たちも唯々諾々と、中国皇帝の威光を借りていたわけではありません。

対外的にみずからの意志を示すモニュメントを築いていました。それが巨大古墳です。

大仙陵古墳

古墳をつくることで東アジアに存在をアピールする

5世紀に入ると、外交の玄関口たる大阪湾を臨む場所に、巨大古墳群が造営されます。

2019年に大阪府初の世界遺産として登録された、百舌鳥古墳群と古市古墳群です。

古墳群の中で倭の五王と関係があるのは、大仙陵古墳(仁徳天皇陵・墳丘長525メートル)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵・365メートル)、土師ニサンザイ古墳(反正天皇陵墓参考地・300メートル)、市ノ山古墳(允恭天皇陵・230メートル)です。

古墳は現在でこそ、樹木がうっそうと生い茂っていますが、造られた当初は石で葺かれており、陽光を浴びて燦々と輝いていました。

はるばる大陸からやってきて、大阪湾からこれを望見した外国使節の驚きは、想像するに余りあります。

同時に、これだけの大工事に民を使役できる、王権の強大さにも舌を巻いたことでしょう。

大阪湾を望む河内平野の巨大古墳は、倭国の威信を対外的に発信する目的で築造されました。

これは倭王が、東アジア地域で存在し続けることの決意表明であると同時に、プライドの発露だったのです。

「三国志」時代の中国の攻防を見つめていた倭国の人々

東アジアを襲った気候の寒冷化

100年前後から80年以上も続いた気候の寒冷化は、弥生時代の日本を「倭国大乱」に追い込み、東アジア全域で猛威を振るいました。

『後漢書』は、107年のこととして、「天下に飢餓が蔓延している。人々は競うようにして盗賊になっている。豫州では食い詰めた人間たちが、万余も盗賊となっている」と記しています。

このあとに記された正史『三国志』にも、「袁紹・袁術といった大軍閥でも、軍糧の支給がままならず、木の実やタニシを食べてしのいでいる」旨が記されていて、当時の惨状を伝えています。

後漢王朝の衰退と三国時代

弥生時代の日本が、邪馬台国連合に代表される広域政治連合を作ることで急場をしのいだのに対し、中国では秩序が完全に崩壊してしまいます。

184年に起こった黄巾の乱を機に、屋台骨が揺らいでいた後漢王朝が機能不全に陥ってしまうのです。

黄巾の乱を収束させたあとも、民衆反乱が続発。

後漢王朝は求心力を失い、中国は群雄割拠の時代に入ります。

このなかから「魏」の曹操、「呉」の孫権、「蜀漢(単に「蜀」とも)」の劉備が台頭し、三国が覇を競い合う時代に入ります。

現代人にもなじみ深い『三国志』の時代です。

最初にリードしたのは魏の曹操でした。

屯田制や兵戸制で経済・軍制の改革に成功した曹操は、農業改革によって食糧の増産にも成功して大軍勢を養う術を得、黄河中〜下流域と河北地域をまたたく間に支配してしまいました。

これに続いたのが呉の孫権です。

長江下流域を支配していた孫権は、江南地方の豊かな富を背景に力を伸ばし、最終的には長江中流域も支配下に治めます。

もっとも出遅れたのは劉備です。

軍団長としては優秀であり、戦闘になるとなかなかの力量を見せるのですが、なにをするにも出たとこ勝負なので、勝ちが続きません。

それでも名参謀の諸葛孔明を得ると、水を得た魚のように快進撃を始めました。

三国の攻防を見つめていた倭国の人々

この三英傑は208年、赤壁(現在の湖北省咸寧市赤壁市)において、曹操vs孫権・劉備というかたちで激突しました。

有名な「赤壁の戦い」です。

曹操は数に任せて攻めましたが、地の利が連合軍側にあることや、不慣れな水戦、疫病の発生などにより、惨敗を強いられてしまいます。

しかし、三国中で魏が大勢力であることに変わりはなく、曹操没後は曹丕が名実ともに魏の皇帝となり、曹丕の没後は曹叡が明帝として君臨しました。

三国攻防の様子を日本列島では、邪馬台国連合を含む広域政治連合のトップたちが固唾をのんで見つめていました。

いずれが天下を制するか見極め、新しい権威にみずからの王権を、最高のかたちで保証してもらう必要があったからです。

最初に動いたのは丹後半島に割拠する実力者でした。

京都府京丹後市峰山町の大田南5号墳から、「青龍三年」の銘が入った方格規矩四神鏡が検出されています。

「青龍」は魏王朝が曹叡(第2代皇帝明帝)の代に使用した年号であり、同3年は西暦235年に当たります。

それから4年後の239年(魏の景初3年)卑弥呼の派遣した使者が魏王朝に至ります。

現在の山梨県と兵庫県に割拠した首長は、「呉が天下を制する」と見たようです。

両県からは「赤烏」の年号が入った銅鏡が見つかっています。「赤烏」は238年から251年まで使用された呉の年号です。

この外交戦を制したのは、卑弥呼と邪馬台国連合でした。

『魏志倭人伝』は、明帝が卑弥呼に銅鏡100枚を与え、さらに「親魏倭王」の金印を与えた旨が記されています。

この銅鏡に関しては、各地の遺跡から出土する「三角縁神獣鏡」が有力視されていますが、詳しいことは不明です。

なぜ魏王は東夷を厚遇したのか

中国には古代から「中華思想」という考えかたがありました。

中国を文化的な開明国、周辺諸国を野蛮な未開国とするものです。

東の地域は「東夷」と呼ばれていました。「東の野蛮人たち」という意味です。

この東夷に親魏倭王の称号と、金印・銅鏡を与えたのです。これは破格の厚遇と言っても良いでしょう。

魏国が倭国を厚く遇したのは、呉との関係を考えてのことでした。

魏は曹操の時代に、赤壁の戦いで呉・蜀漢連合軍に敗れています。

しかも、皇帝孫権は名君で侮りがたい相手です。加えて呉は、朝鮮半島に多少の利権がありました。

その利権を奪ったのですから、北伐を敢行する危険性があります。

魏サイドは倭国に呉の背後をけん制する役割を期待した結果、異例の厚遇となったのです。

邪馬台国時代の日本は、東アジアのなかでバランサー的な役割を果たしていたと考えて良いかも知れません。

壮大なスケールで繰り広げられた三国志の世界には、弥生時代の日本も関係していたのです。

世界にデビューした日本

ゆるやかな血と文化の融合

渡来系弥生人の流入により日本列島は、縄文時代から弥生時代へと移行し、文化も弥生文化が主体となりました。

弥生文化といえば水稲耕作や金属器(青銅器)などを想像しますが、これらすべてが大陸由来と限ったものではありません。

弥生文化の多くは縄文文化と融合して生み出されました。

弥生時代中期の安徳台遺跡(福岡県那珂川市)から検出された渡来系弥生人の人骨をDNA鑑定したところ、遺伝的特徴は縄文人に近かったそうです。

緩やかに混血が進むなか、縄文文化が大陸文化を取り込むかたちで、弥生文化が形成されたと思われます。

中国の歴史書に記された弥生時代の日本

弥生時代の日本の状況は、中国の歴史書で語られています。『漢書』地理志には次のようにあります。

「楽浪付近の海に倭人はおり、100ばかりの国に分かれている。倭人はしばしば我が国に来て、皇帝にお目通りを願う」

皇帝に目通りを願ったのは、中国王朝の冊封体制下に入るためでした。

中国皇帝に巨従の礼をとることにより、王権の正統性を権威づけてもらうためです。

国々が分立し、ドングリの背比べをしているような状況下で、国としての基礎を強化し他の国より一歩先んじるには、傑出した権力と結びつくのが確実な道でした。

このため国々の王たちは中国の皇帝に使者を送ったのです。

『後漢書』東夷伝には次のように記されています。

「57(建武中元2)年、倭の奴国の使者が貢物を携えて、我が国に朝貢した。使者は大王の使いと名乗った。奴国は倭国の最南端にあるという。光武帝(後漢王朝初代皇帝)は、奴国王に印綬を与えた」

光武帝が奴国王に与えた印綬が、有名な「漢倭奴国王」の金印です。

光武帝が与えた「漢倭奴国王」の金印

倭国大乱と卑弥呼の登場

『後漢書』東夷伝には、次のような記述も見られます。

「恒霊のあいだ(後漢王朝の桓帝と霊帝の時代のこと。147年〜188年頃に当たる)倭国大いに乱れ、さらに攻めあって、歴代主がいない状態である」

これが古代史上の大事件、「倭国大乱」です。

この動乱が起こったのは、気候の寒冷化にともなって生活の維持が困難になり、社会が混乱したためです。

水稲耕作が普及して、各国が底力をつけていたことも、混乱を大きくする要因となりました。

この状況は約半世紀も続いたため、首長たちはさすがに「まずい」と思ったらしく、事態の収拾に向けて動きます。

結果、彼らは広域政治連合のもとにまとまることになります。

邪馬台国の女王・卑弥呼を盟主とする「邪馬台国連合」はそのうちのひとつでした。

弥生時代になって日本は初めて、中国の歴史書に記されるようになりました。

この頃の国際社会といえば、中国王朝を中心とした東アジア社会でした。

弥生時代は日本人が、国際社会にデビューした時代となります。

始皇帝の圧政から逃れる人々に手を貸した縄文人たち

秦の始皇帝による中国の統一

紀元前221年、秦が中国大陸を統一し、春秋戦国時代の動乱が終結しました。

ここにおいて秦王・政は、「皇帝」という称号を採用し、秦帝国の始皇帝となりました。

始皇帝は、政権批判をする儒学者を穴埋めにし、言論・思想を統制するなどしました。これを「焚書坑儒」と呼びます。

始皇帝はそのほかにも急激な改革と、法治主義を徹底しました。

それまでにない強圧的な政治に、人々は反感を募らせました。

また、たび重なる遠征や、大土木工事により、民衆の負担は計り知れないものとなりました。

始皇帝が行った焚書坑儒。左下では本が焼かれ、右下では学者が埋められている

始皇帝から逃れる人々に手を貸した縄文人たち

この圧政から逃れたい人々に、救いの手を差し伸べたのが、西日本にいる縄文人たちでした。

東アジアの海を行きかい、中国大陸と交易をしていた海の商人たちは、激動に戸惑う大陸の人々が平和な地への移住を欲していることを敏感に感じとります。

大陸の人々は、自発的に、あるいは誘われて、縄文人たちの船に乗り、日本へと上陸しました。

縄文人たちが大陸の人々を招き入れたのは、気候の寒冷化にともなって従来の生活が維持できなくなり、人口が激減していたためです。

停滞し始めていた縄文社会に活力を取り戻すには、大陸からの移住者を募るしかなかったのです。

これが大陸からの移住者流入の第一波となりました。

縄文人と大陸の人々は、混血するなどして次第に融合し、ここに弥生時代が始まります。

大陸の水稲耕作も驚くほどのスピードで普及し、新しい食料獲得システムを得たことで、日本列島の社会は再び活性化されていくのです。

古代中国の歴史家・司馬遷の著した『史記』の「秦皇帝本紀」に、次のようなエピソードがあります。

ー始皇帝が不老不死の薬を欲していることを知った方士(方術を使う宗教者)徐福は「東の蓬莱島に不老不死の仙薬がある」と売り込んで、始皇帝から巨額の資金を引き出し、多数の若い男女を連れて船出した。

平原広沢を得てその地の王となり、二度と帰らなかったー

有名な徐福伝説です。

日本の佐賀県や和歌山県には徐福上陸の伝承が残されています。

徐福の実在や日本上陸を証明することは困難です。

しかし、伝説の背景を考えることは可能でしょう。

『史記』の記述からは、始皇帝の圧政を逃れて、新天地に旅立つ人々の姿が垣間見えます。


日本に伝来した稲の普及

弥生時代の始まり

約1万年のあいだ続いた縄文時代が終わりに近づくと、時代は弥生時代へと移行していきます。

「弥生」とは、東京都文京区の向ヶ丘貝塚で発見された土器に由来します。

この土器は最初、大した注意も払われず、縄文土器として扱われました。しかし、調べていくうちに複数の研究者が、縄文土器とは異なることに気づき始めます。

その後これと同じ土器が各地で見つかり、縄文土器との違いが認識されるようになった結果、この土器が使われた時代を「弥生時代」と呼ぶようになりました。

日本に自生していない稲はどこから来たか?

弥生時代は、稲作が「日本列島に普及した時代」として知られています。

米を実らせる稲は、日本列島の自生植物ではありません。人の手で海の向こうから運ばれてきて、日本列島で栽培されるようになりました。

つまり、外来作物なのです。

ここでいう稲とは、水田で稲栽培をする水稲耕作に適した「温帯ジャポニカ」のことを指します。

水田の雑草を取る、肥料を与えるなどの管理をすればするほど、実りが豊かになる特性を持つ稲です。

 起源地はかつて、「インド亜大陸東北部のアッサム、中国大陸南西部の雲南地方」とされてきましたが、現在では「中国大陸の長江中〜下流域」が定説となっています。

日本列島への伝播ルートについては、長江中〜下流域を起源地とし、「中国の江南地方からダイレクトに伝わった」「朝鮮半島の東端を経由して伝わった」「南西諸島を北上して伝わった」など複数の説が提唱されており、このうち考古学や植物学では、江南地方からの伝来説が有力視されています。

複数考えられる稲作伝来ルート

水稲耕作は縄文晩期にすでに始まっていた

ところで、「稲作が日本列島で始まった時代」ではなく、「普及した時代」と前述したのには意味があります。

じつは水稲耕作は、約3500年前の縄文時代晩期には始まっていたのです。

福岡県福岡市の板付遺跡や佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは、縄文時代晩期の水田遺構が検出され、「水稲耕作開始は弥生時代から」との常識を覆しました。

水稲耕作はこの北部九州を起源とし、日本列島を北上していきました。

青森県弘前市の清水森西遺跡では、2017年の発掘調査で弥生時代中期の土壌から炭化した米を検出しています。

少なくとも約2200年前には、水稲耕作が東北地方の北端まで到達していたのです。

日本列島で水稲耕作が普及したのは、気候の寒冷化にともなって、狩猟・採取、原始的農耕に依っていた縄文社会を維持できなくなったためでした。

そこに水稲耕作という新しい食料獲得システムを得たことで、日本列島は次第に活気を取り戻していくことになるのです。

世界の寒冷化による動乱が日本に稲作をもたらした

地球の気候は寒冷と温暖のサイクルを繰り返す

地球の気候は一定ではなく、寒冷期と温暖期のサイクルを繰り返しています。

この寒冷期と温暖期のサイクルは、地域・時間によって差はありますが、地球規模で人類の生活に大きな影響を与えてきました。

たとえば、1万1000年前から1万年前頃の「ヤンガードリアス寒冷期」に、現在の西アジアで農業が始まり、各地に広まりました。

気候の寒冷化によって狩猟・採取による生活ができなくなったためです。

その後、地球は著しい温暖化に転じます。

この時期には、日本列島で狩猟・採取、原始的な農耕が発達することになりました。

そして気候の温暖化は今から約8000年前にピークを迎え、ふたたび寒冷化に転じました。

急激な寒冷化によって世界中で動乱が起こる

寒冷化といっても、いきなり一気に寒くなるわけではありません。

通常は、寒冷と温暖のサイクルを繰り返しつつ、平均気温が全体的に低くなっていきます。

ところが、約3500年前(紀元前1500年頃)の寒冷化は、それまでの社会の維持が困難になるほど急激でした。

これにより、日本列島では、狩猟・採取、原始的な農耕に頼る縄文社会が衰退を余儀なくされたのです。

世界のなかには、農業に完全にシフトしていた地域もありましたが、そこでも大きな混乱が起こりました。

農業技術が進んだ現代ですら、農作物の生産量は気候によって大きく左右されます。まして農業技術が未発達の古代のこと、気候の急激な寒冷化が社会に与えたダメージのほどは想像するに余りあります。

人類が生きのびるためには、条件の良い場所に移るか、広い土地を確保して生産性を高めるしかありません。

そのため、世界的に民族移動が勃発し、各地で戦乱が発生しました。

メソポタミアでは、古バビロニア王国がカッシート人の侵入を許し、アッシリアやミタンニ王国など、新興勢力が力を伸ばします。

アナトリア半島ではヒッタイト王国が興り、人類史上初となる鉄製の武器を手にミタンニとエジプトの両王国に攻勢をかけ始めます。

これに対してエジプトでは、それ以前の古王国・中王国以上に専制的な新王国が成立し、積極的な対外政策のもと、ヒッタイト王国と抗争を繰り広げるのです。

北の黄河文明と南の長江文明の対決

急激な寒冷化により、中国大陸も動乱期に入りました。殷王朝は次第に勢力が衰え、紀元前1100年頃、周王朝にとって代わられます。

しかしこの周王朝も紀元前771年、チベット系遊牧民「犬戎」の侵攻を許して以降、次第に勢力が低下しました。

そして中国大陸は群雄割拠の春秋戦国時代へと突入していきます。

春秋戦国は斉・晋・呉・越などの国々が中国大陸の覇権をかけて戦った動乱の時代です。

斉の桓公、晋の文公など幾多の英雄が輩出され、孔子・墨子などのいわゆる諸子百家が智を競いあったのもこの時代でした。

ところで、広大な中国大陸には2本の大河が流れています。北方の黄河と、南方の長江です。

黄河流域に住むのは純然たる漢民族ですが、長江流域は漢民族と南方系民族が入り混じり、独自の文明を築いていました。

そのため風俗はむろん、生活・社会構造も黄河流域とは異なっていました。

英雄や諸子百家の活躍に目を奪われがちな春秋戦国時代ですが、争いの根底には、気候の寒冷化が誘発した、黄河文明と長江文明の対決があったのです。

寒冷化と中国の動乱が日本に稲作をもたらした

この対決は、秦帝国樹立と、始皇帝の登場によりいったん収束します。

しかし独裁政治を行った始皇帝の死後、その反動から、中国大陸は再び動乱の時代に入ります。

そのなかで、南の楚の項羽と、北の漢の劉邦による「楚漢の攻防」というかたちで南北の対決が再燃します。

当初はワンマンタイプの項羽が有利でしたが、人使いに長けた劉邦が次第に劣勢を挽回し、最終的には劉邦が北方に漢王朝を樹立するかたちで、黄河文明と長江文明の対決は決着するのです。

水稲耕作は秦の始皇帝の圧政や楚漢の動乱から逃れ、日本列島に流入した、歴史上にいう「渡来系弥生人」によってもたらされました。

つまり、稲作はただ漫然と日本に伝わったのではなく、寒冷化による世界的動乱発生→中国大陸での黄河文明と長江文明の対決→黄河文明の勝利という歴史的な流れと連動していたのです。

気候寒冷化によって停滞していた縄文社会は、水稲耕作の受容によって活力を取り戻し、時代は弥生時代へと移行していくのです。