企業間の分業と巨大資本の登場

クアルコムという世界でも指折りの半導体チップの会社があるが、インテルやサムスンと違って自社工場を持ちません。

クアルコムは他社の工場に委託して自分たちがデザインしたチップを生産します。工場がないから施設への投資も必要ないし在庫の管理も不要です。

このような企業を、「ファブレス企業」そして、その依頼の通りにチップを生産する企業を「ファウンドリ」と呼びます。

このような企業間の分業と分野別の資本集中と巨大化が現代のトレンドです。

資本はいろいろな分野に投資するより、自分が確実に支配できるひとつの分野に集中して残りは外部発注する。

自社工場を持たずに商品を生産するビジネスモデルは、このようなトレンドが進んだ結果現れました。

少数の巨大企業が分野別の市場を支配する事態は、あらゆる分野で進行しています。

食品業界はいくつかの巨大食品企業と巨大ファーストフードチェーン、巨大マートが支配するようになっています。

食品企業は圧倒的な支配力を使って契約した農家に家畜の成長を促進するいろいろな施設に投資することを絶えず要求します。農家がそれを断れば契約が打ち切りになります。

設備に投資した農家は重い借金を背負うことになります。

「FOOD,INC」というドキュメンタリー映画によると2つの鶏小屋を持つ一般的な農家は、平均して5000万円の負債を負うが、収入は1年に180万円です。

この農家は巨大資本に完全に隷属しています。農家だけでなく消費者も剰余価値を最大にするために抗生剤を使って生産された肉を食べなくてはなりません。

命がかかっている医療分野では、問題はより深刻になります。

製薬会社も小さな規模の企業は新薬の開発に不利なので、少数の巨大企業だけが市場を支配しています。

巨大製薬会社は自身の利潤につながらない薬の供給を中断しようとしたり、薬の価格をとんでもなく高く策定することもあります。

資本の蓄積と集中による巨大化はこうして強い権力を持ち少数の資本家以外のすべての人間はその奴隷になります。

資本が雪だるま式に増える理由

現在の資産は過去の労働

過去の労働は常に資本という形で自分を偽装します。

過去の大勢の労働者A、B、C…の労働の産物は、労働しない資本家Xの資産の形をとります。

過去の無給労働は労働者から分離され資本に形を変えて絶えず増大する労働プロセスを助けます。

資本主義社会では過去の労働が実体化した資産は他人の資本になります。

過去の労働の結果である資本は、さらに未来の労働を雇い、どんどん自分を大きくしていくので、過去の労働は未来の労働の増殖に貢献します。

蓄積による労働生産性の増大

資本の蓄積が進行する過程では社会的労働生産性の増加が蓄積を加速させます。

生産手段の大規模な集中も生産性を高める方法のひとつです。

ビルや運送手段や溶鉱炉などを利用して生産手段が集まることで生産性が増します。

労働生産性が増大することで生産手段に必要な労働の量が減少します。

例えば元は資本の50%は生産手段に、50%は労働力に使われていたとすれば、生産性の発達により80%は生産手段に回し、労働力には20%を使えば事足りるようになります。

大きなコンビニエンスストアチェーンを見ていると集中がいかに効率を高めているかが分かります。

もし1000店の店舗がそれぞれの売り上げや在庫を管理すれば費用は店舗の数に比例してかかります。

しかし、その1000店の管理を本店のコンピュータで処理すると売り上げや在庫、売れ筋商品の種類といった情報を簡単に処理することができます。

資本の大規模の集中

18世紀初めの糸の生産では、不変資本(原材料と機械)と可変資本(労働力)の比率が1:1だったとします。 現代では生産性が向上し不変資本と可変資本の比率が7:1になったとします。

こうなると、労働が消費する原材料と道具の量は18世紀の数百倍になります。

その理由は生産性が高くなった労働が処理する原材料の量や機械の使用が増加するだけでなく、原材料と機械の価値も下がるからです。

巨大な規模で集中された生産手段は生産性を増大させます。

社会的生産性を増大させる方法は、同時に剰余価値を増大させる方法でもあります。

だからそれは資本で資本を生産する方法でもあり、その蓄積を加速化させます。

「資本の蓄積」は資本家が得た剰余価値を資本に付け加えて資本を次々に増大させること、「資本の集中」は、いくつかの資本を合体させて資本の規模を増やすことを意味します。

どちらも目的は資本を中央に集中させて生産性を高め、できるだけ多くの剰余価値を得るためです。

資本家の競争と資本の集中

資本の集積の過程には資本家間の競争があります。

大きな資本は小さな資本に勝ちます。競争は常に小さな資本家の没落に終わり、その一部はなくなって、残りは勝者のものになります。

大勢の資本家の資本が、ひとりのもとへ集まると、それは強力な資本になります。

この集中は資本家の活動の規模を増大させることで自分の使命を完了します。

最初に蓄積された資本の謎

お金がどうして資本になるのか。

それは剰余価値が作られると、それが資本に加わって資本がどんどん増大する循環です。

では、その循環の出発点の最初の蓄積は一体どうやって作り出されたのでしょうか?

神学の「原罪説」は、なぜ人が働かなければならない呪いにかかったのか説明してくれるが、経済の原罪説は、どうして働かなくても良い人が存在するのか教えてくれます。

資本主義のもとでは、ある人は富を蓄積するが、ある人は自分の体しか売り物がありません。

最初の蓄積(本源的蓄積)は歴史における生産者と生産手段の分離過程にあります。

つまり、農村の生産者(農民)から資本家が土地を奪ったことがすべての始まりです。

奴隷のように働かせる封建時代の搾取から資本主義的搾取へと移り変わったのです。

マルクス「資本論」は「憂うつな学問」とも呼ばれます。 剰余価値論は資本が大勢の労働者の無給労働を搾取することで、どんどん増大するメカニズムを説明します。

そして、そんな資本の始まりも元は資本家の先祖が弱者から略奪したものだったと喝破しています。

資本が増大するメカニズム、そしてその起源を見ても「資本は不当な搾取と略奪で得たもの」だとマルクスは主張しています。

イギリスの最初の蓄積

イギリスでは、かつては自分の畑を耕作し、ある程度裕福な生活をしていた農民(土地所有者)がたくさんいました。総人口の7分の1にあたる16万人の農民が土地を持っていました。

しかし、1470年から1500年大までの数十年間で強大な領主が武力で農民の土地を奪い、多くのプロレタリア(賃金労働者)を生み出しました。

こうなった直接的な原因は羊毛の工場制手工業の成長と、それによる羊毛の価格値上がりでした。

やがて領主たちは奪った耕作地を牧草地に変えました。

その後、追い出された農民たちは日雇い労働者に転落しました。

このように暴力による略奪の結果が現代の私有資産に転化したのが「最初の蓄積」の方法のひとつでした。

それは資本主義的農業に必要な土地を占領し、土地を資本の一部に合併し、都市の工業に必要なプロレタリアート(賃金労働者階級)を作り出しました。

この事例から分かるのは、お金になるビジネス(羊毛の大量生産)の登場は、お金にならないビジネス(小規模な農業)を追い出すということです。

現代でも新しいビジネスの登場で古いタイプのビジネスが追い出されるということがよくあります。

例えば、スマートフォンの普及で任天堂の携帯ゲーム事業は失速し始めました。

MP3がスタンダードになった音楽市場、デジカメの普及で姿を消したフィルムカメラ、スマートフォンの登場で低迷するパソコン市場、コンビニエンスストアの登場で閉店する小さなスーパーマーケットなど現代の注目すべきビジネス津波は数知れません。

利潤率の低下と大規模資本

資本主義的生産様式が発展するにつれて、労働生産性も発展し利潤率が絶えず低下する一方、利潤の絶対量自体は増加していきます。

利潤率が低下すると資本家が労働を生産に使用するために必要な最低限の資本の量が増加します。

同時に資本の集積も増加します。 なぜなら、ある限界を超えると利潤率の低い大規模の資本が利潤率の高い小規模の資本より急速に蓄積されるからです。

昔よりずっと高性能なのに値段が安いのは、それが大量生産されるからです。

商品の種類にかかわらず、それが大量生産されると価格は下がり利潤率も低下します。

どの資本も自分の増大のために努力するが、その努力が逆に障壁として立ちはだかります。

にもかかわらず資本が増大しなければならない理由は、その規模が一定以上になると小規模の資本より蓄積に有利になるからです。

例えば、一流の寿司職人が最高の鮮魚で握る高級寿司は確かに利潤率は高いかもしれないが、それより資本の蓄積に有利なのは安値の回転寿司チェーンです。

原材料を大量に購入すると値段が下がるから、大手チェーンは寿司の価格を下げながらも利潤を得ることができます。 こうして「規模の経済」の法則で寿司の価格を下げると客も多くなって売り上げが増大します。

大規模の資本が蓄積に有利なのはこのような理由です。

技術の発達が人を幸せにしない理由

生産性の向上と価値の下落

イギリスで機械が導入されると工場では布で衣類を作る時間が半分になりました。

社会的に必要な労働時間が半分になったのは、衣類の価値が半減したことを意味します。

一般的に生産性が高くなると価値は下がり、生産性が低くなると価値は高くなります。

テクノロジーが進歩して社会全体の生産性が向上すると価格は下がります。一般的に必要な労働の量が少なくなるからです。

商品の価値は「その商品の質がどれくらい良いか」ではなく、「それを生産するためにかかった人間の努力」により決まります。

絶対的剰余価値と相対的剰余価値

剰余価値を増やしたければ、労働時間を延ばして剰余労働を増加させれば良い。

必要労働は決まっているから可変的な剰余労働をどんどん増やします。

こうして増やした剰余価値を「絶対的剰余価値」と呼びます。

では今度は、1日の労働時間が決まっているとしましょう。例えば、労働時間が1日に12時間だとしましょう。どうすれば剰余価値を増やせるのか?

この場合、剰余労働を増やすためには必要労働を減らせば良いです。

必要労働を減らすことで増加した剰余価値を「相対的剰余価値」と呼びます。

資本家は剰余価値を増大させるために労働者をできるだけ多く働かせようとします。

1日は24時間で、サラリーマンも睡眠をとり、食事をしなければ働くことができません。体力にも限界があるから休息も必要です。 ただただ働かせて「絶対的剰余価値」を増やすには限界があります。

「では剰余労働を増やす代わりに、必要労働を減らしてはどうか」と資本家は考えます。

資本家は新しいテクノロジーを導入して生産性を高めます。

社会のテクノロジーが発達すれば、生活に必要な商品の価値も下がり、労働者たちの生活を維持するために必要な費用も減少します。

労働力の回復のために必要な費用が減れば労働力の価値も下がっていきます。

従って必要労働は減少し、相対的に剰余労働の比率が増大します。 これが「相対的剰余価値」の増加です。

テクノロジーによる生産性の向上は、労働者を豊かにしてくれるどころか、労働力の価値を低下させました。

テクノロジーが生み出す富は剰余価値という形で資本家のものになります。

労働者も新しいテクノロジーを享受することはできますが、それができるのはテクノロジーによる大量生産で価格が下がった結果で彼らの富が増加したからではありません。

資本家と機械

イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは著書「経済学原理」でこう言いました。

「今まで発明された機械が人間の苦労を少しでも減らしてくれたか? 疑問である」

しかし、それこそ資本が機械を利用する目的です。生産性を高めることで労働者が自分自身のために働く時間(必要労働)を減らし剰余労働を増やしてくれるからです。

道具と機械の違いを区別する意味はありません。機械は複雑な道具で、道具は簡単な機械です。

機械は労働の生産性を非常に高めてくれます。道具を使って特定の仕事をする部分労働者は機械に取り替えることができます。

労働者は機械の付属品になり、より賃金の安い未熟な者が雇用されるようになります。

こうして機械は労働の分業を再定義します。

テクノロジーの発達は、すべての商品の価格を下落させます。 携帯電話も黎明期は煉瓦のように大きく、高値だったが今では小学生でも持っています。

テクノロジーの発達は、同じ使用価値を安値で供給してくれます。これは、一般的な人が生活を維持するために必要な費用が低くなることを意味します。

必要労働の比重は低下し剰余労働の比重は増加します。

資本家がテクノロジーを愛する理由は、こうして剰余価値を増やすことができるからです。

こうして労働者は一部の特権階級のものだった文化を手に入れた代わりに、ますますたくさんの労働時間を彼らのためにサービスするようになりました。

労働力と剰余価値

労働力の価値と剰余価値の相対的な量を決める3つの要素は「勤労時間」「労働の強度」「労働の生産性」です。

労働の強度は、同じ時間にどれほど多い量の労働がされるのか、労働の生産性は同じ量の労働がどれほど多い商品を作り出すのかです。

労働力の価値と剰余価値の量は3つの法則によって決まります。

1.決まった勤労時間では、いつも同じ量の価値が生み出される

2.剰余価値が増加すると労働力の価値は減少し逆も成立する

3.剰余価値の量は労働力の価値によって決まる

労働の強度が増大すると同じ時間でより多い商品が生産されます。 労働の生産性が向上すると同じ時間により多い商品が生産され商品の価値は下がります。

生産性が高くなると労働力の価値が低くなり剰余価値も増大します。

生産性が低くなると労働力の価値が高くなり剰余価値も低下します。

前述した通り、テクノロジーが発達することによって労働力の価値が低下し、剰余価値は増大し、資本家の資本は増加します。

そして最先端のテクノロジーで生産性が高くなってもサラリーマンの生活が豊かにならないもうひとつの理由は、「決まった勤労時間ではいつも同じ量の価値が生み出される」からです。

例えば、現代の銀行では入金や出金、計算などはパソコンで速い速度で処理することができますがパソコンがなかった時代の銀行では同じ仕事にも長い時間がかかっていました。しかし、現代の銀行員の労働の価値が昔の銀行員の労働の価値より高いわけではありません。

3つの法則は、文明が発達すればするほど資本家だけが利益を享受することを示唆しているし、労働者が受け取る賃金が小さくなれば資本家はより大きな剰余価値を得ることがはっきり分かります。

相対的過剰人口または産業予備軍

蓄積の進行につれて不変資本に比べて可変資本の比率はどんどん減少します。

資本の蓄積による可変資本の比率の減少は加速され、常に労働者の方には雇用されない「相対的剰余人口」が出てきます。

それは、資本が自己増殖の過程で需要の変化があるとき必要に応じて搾取することができる「産業予備軍」になります。

労働者階級の中で就職した労働者の過度な労働は産業予備軍を増加させます。

そして彼らは就職した労働者との競争を通じて過度な労働をするようになり資本の独裁に屈服します。

「産業予備軍」はいつもは定職につかずぶらぶらしているが、必要なときに限って雇われる人々を意味します。

現代はテクノロジーの発達により生産性が改善され、少人数での生産が可能だから産業予備軍の数は多いです。

こうなると労働力の供給がその需要をいつも上回るから少額の賃金でも働きたい人が多くなり、就職している人々も安心することができません。

派遣社員制度が登場したのも、こうした背景があったからだし、その労働条件がどんどん過酷になるのも納得です。

資本の蓄積は悲劇の蓄積

資本主義のシステムでは社会的な労働生産性を増やすため個々の労働者が犠牲になります。

労働生産性を増やすためのすべての方法は労働者の労働条件を改悪し、労働の過程で資本家の独裁に屈服させ、すべての生活時間を労働時間に転換させ、労働者の妻子をも資本の巨大な車輪の下に連れていきます。

剰余価値を生産する方法は、すべてが蓄積の方法であり、蓄積の拡大は方法を発展させる手段となります。

資本が蓄積されるにつれて労働者の状態はどんどん悪化していきます。

さらに相対的過剰人口または産業予備軍を蓄積の規模や活力に合うように維持する法則により労働者は資本に縛られます。

こうして資本の蓄積は悲劇の蓄積になります。一方の富の蓄積は同時に向こう側には悲劇の蓄積になり、奴隷の苦痛になり、低い教育と精神的衰退につながっていきます。

向上した生産性が意味するのは、より少ない労働で、より多い剰余価値が得られることです。

その「より多い剰余価値」とは労働者のものではなく資本家のものです。「より少ない労働」が意味するのは労働者が楽に快適に働けるということではなく職場を失うことです。

テクノロジーの発展による生産性の向上が最後にもたらすのは、「機械に人が職場を奪われる悲劇」です。

グーグルが選定した世界最高の未来学者トーマス・フレイは、「技術革新によって、2030年までに職業の50%は消滅する」と予見したことがあります。

私たちが知らないうちに、産業全般で絶えず生産性は増加しています。そんな変化が蓄積した結果がフレイが予見する未来です。

私たちは現代のテクノロジーのめまぐるしい変化に慣れてしまったあまり、そんな未来を実感していないだけかもしれません。

誰かは必ず失敗する理由

システムの細部は国によって違うものの、貨幣は中央銀行によって発行された後、市中銀行を通じて市場に流通するという基本的な構造を持ちます。

中央銀行が発行したお金は市場に直接流通せず市中銀行に貸し付けられます。

市中銀行が持っているお金が市場に移る過程は誰かが銀行からお金を借りるしかないです。 市場に流通するすべてのお金は最初は誰かが市中銀行から借りたお金です。

だから、今あなたが持っているお金は、あなたが直接借りたものではなくても、他の誰かが銀行から借りたお金です。それは個人が借りたお金かもしれないし、企業が借り入れたお金かも知れません。

どちらにせよ、市場のお金すべてが銀行からの借金だということには変わりないです。

この世に住んでいる住人が10人だと仮定してみましょう。そしてお金を貸し付けてくれる銀行もあるとしましょう。

市場にお金が流れるためには、銀行からお金を借りなければなりません。

10人が皆、100万円ずつ銀行から借りたとします。返すときは利子をつけて110万円で返済することになりました。

10人それぞれに100万円ずつ貸し付けたわけだから銀行は全部で1000万円を発行したことになります。

だからこの世界の通貨量は全部で1000万円、その後10人は熱心に働いてお金に利子をつけて返済するよう努力しました。

やがて、ひとり目が銀行に110万円を持ってやってきた。続いて2人目が、やがて3人目、4人目、5人目、6人目…。こうして9人が銀行に110万円を返済しました。

10人目は、とうとう来なかった。 一体彼に何が起こったのでしょう?

銀行が発行したお金は全部で1000万円だが、これまでに110×9=990万円が回収されました。従って、この世に残ったお金は10万円だけです。 これでは10人目がどう頑張っても110万円を返すことはできません。

方法はひとつしかありません。銀行がさらにお金を発行することです。

銀行から市場にお金が流れるためには誰かがお金を借りなければならず、返済に利子がつく限り誰かしらは負債を被らなければいけないのです。

これが今、私たちが住んでいる資本主義社会の貨幣のメカニズムです。

人はなぜ金持ちになれないのか?

労働の結果は資本家のもの

労働の結果は、それを生産した労働者ではなく、資本家の所有になります。

労働者が職場に入ってから、彼の労働力の使用価値は資本家の所有になります。

資本家の観点からは、労働のプロセスはただ、彼が買った商品、つまり労働力と原材料の相互作用に過ぎないです。

まるで酵母がブドウを発酵させてワインを作るように、資本家が買った物同士の相互作用で商品は作られます。

そして、それは資本家の所有物になります。

労働力に対する報酬

市場で労働者が資本家に売るのは、労働力です。

労働とは仕事を始めてから労働力によって生み出されるものだから労働者が労働を直接売るわけではないです。

労働は実在し商品に内在する価値の尺度になりますが、それ自体は価値を持ちません。

多くの経済学者が「労働の価値」と呼ぶものは、実は「労働力の価値」です。

そして資本家たちはそこから剰余価値を創出しなければならないから、労働力の価値は、いつも労働の価値より少なければなりません。

労働力の価値と実際の労働の結果の価値の差は、まるごと資本家の所有になります。

表面的には賃金が労働の価値に見えますが実は実際の労働の価値より低い報酬を受け取っています。

そしてその事実は巧みに隠蔽されています。

時間賃金

時間賃金の単位(勤労時間の価値)は、1日の労働の価値を勤労時間で割った数値です。

労働力の1日の価値が6000円で、勤務時間が12時間ならば、1時間あたりの労働の価値は500円になります。

資本家が日給や週給という形ではなく、自分が雇いたい時間だけ労働者を雇う場合、この単位時間の労働力の価値を支払えばいいです。

この場合、資本家は労働者が自分の生活を維持するために必要な時間を雇わなくても資本家自身の剰余価値を生み出すことができます。

例えば1日12時間働く労働者が6時間を自分のために働いたとすると働く時間が減ればその分、自分のための6時間が削られていき生活を維持できなくなります。

コンビニエンスストアやファーストフードチェーンのパートタイマーは、勤労時間を基準として賃金をもらいます。

一見それは労働力に対する報酬ではなく労働の量に対する報酬だから正当な額だと考えがちですがその賃金は資本家が一定の剰余価値を十分に得るように策定されています。

そして時間賃金の方式では、雇用する時間を資本家の意のままに決定することができます。これでは労働者が不安定な雇用環境に置かれたり、完全な失業状態になる危険があります。

反面、このような不完全な雇用は資本家の立場からは、自由に労働者を利用することができるいい制度になります。

そして失業者が多ければ、必要な労働力を安値で雇用することができるから資本家はそんな状況を望みます。

被雇用者階級と資本家階級の利害はこのように正反対の関係にあります。一方の利益になることが、もう一方にとっては不利益になります。

出来高賃金

出来高制は、「労働者が生産した商品の価値を、そこに含まれる労働時間で測る」のでなく「労働時間を彼が生産した商品の数で測る」方法です。

時間賃金では労働の量は働いた時間で測定されるが出来高賃金では生産した商品の量で測定します。

労働者が1日12時間労働するとき、そのうち6時間は自分の賃金に対する労働で、3時間は不変資本(原材料と機械の費用)に対する労働ならば、残りの3時間が剰余労働です。

例えば、労働者が24個の商品を生産するのに一般的に12時間かかるとして、それが出来高制で測定されると、12個の生産は自分のために働くことになり、6個は不変資本に対するもので、残りの6個は剰余価値に当たります。

どうせ労働時間の価値は、「1日の労働の価値=1日の労働力」という等式により決まります。だから、出来高賃金はただ時間賃金の変化した形態にすぎません。

資本家の目的は、被雇用者が働いて作り出した剰余価値を自分のものとして資本を増大させていくことです。

こうするためには支払いの方法を問わず実際の労働より少ない価値の賃金を労働者に支払わなければなりません。

一見、仕事の成果に比例する賃金に思える出来高制も社会的に必要な労働の価値を考慮し、資本家が剰余価値を残すことができるように策定されているので労働者にとって有利なわけではありません。

無給労働による資本の蓄積

資本家にとって労働者が過去にした無給の労働は、無給労働をさらに増大させる効果があります。

資本家は資本を蓄積すればするほど、さらに大規模な蓄積が可能となります。

資本家と労働者の間に続く交換関係は等価交換が基本になる流通の過程と表面上は似ているが、本質はまったく違う取引です。

一見、資本家と労働者の間で等価交換が続いているようですが、その実は資本家が過去の労働者の生み出した富を蓄積させ、さらに大きな規模の労働と交換し続けています。

資本は「過去の労働の結果」です。 過去の労働が実体化されたものが現在の資本です。

つまり過去の労働は過去に自分が搾取されただけでは終わらず、将来、もっと多くの人が搾取される手伝いをしていることになります。

自分の努力が自分を搾取する武器になる皮肉は資本主義システム下の労働が持つ矛盾です。

所有と労働の分離

財産の所有は元は自分の労働に基づいていました。

しかし今は、資本家が無給労働とその結果を利用する権利を持つため、労働者は自分の生産の結果を所有することはなくなりました。

財産と労働の分離は、両者の本質から由来する不可欠な結果です。

所有と労働の分離は資本主義の掟です。

これは労働者にとって不平等に感じられるかもしれないが、それこそ資本主義を発達させる原動力でもあります。

なぜなら、多くの資本を活用できる人は多くの人の労働を活用し偉業を成し遂げることができるからです。

人はどうして資本の奴隷になるのか

不変資本と可変資本

生産のプロセスに使われる原材料と道具は、生産過程で価値が変わることはありません。

資本の中で、価値が不変な要素を「不変資本」と呼びます。

反面、資本の他の要素、労働力は、生産プロセスの過程で価値が変わります。

労働力は、自分の価値を生み出した後、剰余価値を生み出します。 そして剰余価値は状況によって可変的です。それを「可変資本」と呼びます。

農家が種を買って、それよりずっと多い数の穀物を作り出すように、資本家は労働の種、すなわち労働力を買って、それからずっと高い価値の商品を作ります。

労働の種とは、労働自体ではなく、労働することができる潜在能力です。

剰余価値率

資本は、生産手段に投資された不変資本と、労働力に投資された可変資本、2つの要素で構成されています。

500万円の資本があり、400万円を不変資本に、100万円を可変資本に投資したとします。そしてその結果、200万円の剰余価値が増えたとします。

すると、元の資産は500万円から700万円に増加したことになります。 この場合、100万円の労働力は、200万円の剰余価値を生み出しました。

剰余価値で可変資本を割った数値を、「剰余価値率」と呼びます。

剰余価値/可変資本=剰余価値率

剰余価値率は、資本が労働力を搾取する割合を正確に示します。

この場合、100万円の労働力(可変資本)が200万円の剰余価値を生み出したから、剰余価値率は200%となります。

剰余労働と必要労働と資本蓄積

1日の賃金が3000円で、労働者が6時間に生み出す価値が3000円だとしましょう。

労働者が12時間働くと、前半の6時間の労働は資本家が投資した賃金である3000円を埋め合わせるために使われます。これを「必要労働」と呼びます。

そして、その後の労働で生み出す価値が剰余労働になります。

後半の6時間の労働は、完全に資本家のための労働です。これを「剰余労働」と呼びます。

剰余価値は、この剰余労働が実体化した結果です。

資本家の目的は、ひたすら剰余価値にあります。

こうして剰余労働の結果である剰余価値は、資本に再転化し資本を増大させていきます。 これを「資本蓄積」と呼びます。

協業の仕組み

協業が発生するのは、大勢の労働者が計画に基づいて一緒に働くときです。

同じプロセスで働く協業もあれば、違うプロセス間での協力も協業にあたります。

協業は労働プロセスの進行を早めることができます。

例えば、多くの石をはしごの上に運ぶ作業は、ひとりひとりが各々石を持って運ぶよりも、大勢が列を作って前の人から後ろの人へ、石を渡す流れ作業で早く済ませられます。

麦を収穫する作業のように、決まった時間に仕事を終えなければならない作業もそうです。

その作業がひとりで行った場合、1200時間かかる労働だとすれば、1日に12時間労働したとしても100日かかってします。それを100人がいれば12時間で終えることができます。

協業のシステムの下では全体の作業が、小さな、そして単純な労働に分割され、ひとつひとつが個々の労働者に割り当てられます。

そしていったん特定の作業を担当すると、なかなか別の作業が担当できません。その道のベテランを、あえて他の担当者に変える理由がないからです。

これはシステムとしては効率的ですが、一個人の労働者をゆっくりと組織の歯車に変える仕組みです。

部分労働

一生をかけて、ひとつの作業だけをする労働者は、速い速度と生産性を持ちます。

こうしてひとつの特殊な作業だけに特化した「部分労働者」は、他の仕事がまったくできない欠陥だらけの人ですが、協業システムの一部としては完璧なパーツになります。

そこで資本は、ひとつの作業に特化した労働者を、普通の労働者より好みます。

こうして作業はたくさんの専門分野に分化し、分業は深化していきます。

分業は資本主義以前から存在しました。にもかかわらず資本主義で分業が特別なのは、その目的が剰余価値と剰余価値率を増やすためだという点にあるからです。

現代の資本主義のシステムでは、人々が生み出した剰余価値は、その使用価値ではなく交換価値が意味を持ちます。

資本家は自分が雇ったサラリーマンたちが生み出した剰余価値を交換価値として享受します。

分業と隷属

分業システムにおいては、個々の仕事は単純になり、労働力の価値も安くなります。

複雑な技術を学ぶ必要もないし、労働力を維持するために必要な費用も安くなるからです。

こうして労働力の価値が安くなると、剰余価値が増大し、資本の利益になります。

資本家は、できるだけ多い剰余価値を生み出し、労働力を最大限まで利用したいから大量生産を志向します。

資本主義システムの分業は労働力の能力を分割するので、個人の精神的・肉体的能力は制限されていきます。

こうして労働者は自分の専門技術を使うために資本家に依存していくのです。

労働者の役割は剰余価値の生産

人は自分自身のために働くとき、すべてのことは自分でコントロールする必要があります。

しかし、分業システム下では他人にコントロールされるようになります。

資本主義的生産は、ただ商品を作り出すために行われるのではなく剰余価値を作り出すために行われます。

労働者は自分のために使用価値を生産するのではなく資本家のために剰余価値を生産します。

労働者は資本の自己増殖のために働いています。

社会の剰余価値

社会発展の程度は別にして、労働の生産性は物理的な条件に左右されます。

すなわち、労働の主体である人間の気質と自然環境です。

豊かな自然環境があれば人間が自身のために働かなければならない時間が少なくなります。

すると自分以外のために剰余価値を生み出す時間を確保できるから文明が発達します。 文明の胎動期にはそれが重要です。

古代エジプトで巨大な建築物を建てることができたのは、人口が多かったからだと考えがちですが実は違います。

エジプトは豊かな自然環境を持っていたから自分の生活を維持し、子供を育てるのに多くのコストを必要としなかったのです。そこで残った時間を使って、あのような巨大な建築物を建てることができたのです。

「世界四大文明」といえばエジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明を指します。

これらの偉大な古代文明は、すべて暖かい川辺で誕生しました。そういうところに住む人々が特別優秀だったからではなく、個人が自分の生活を維持するために必要な努力が少なく社会のために働く余裕があったからと考えられます。

古代の暖かい国と寒い国の差は、生産性の差です。手を伸ばせば果物がある南国の方が食料を得るために吹雪の中で野獣と格闘しなければならない北国より食料が簡単に生産されます。南国の方が生産性が高いです。

現代社会では、その生産性が自然環境ではなくテクノロジーのレベルなどで決まります。

現代はテクノロジーで食料の生産はもちろんのこと、生活費用、養育費用も低く抑えられます。 現代人は比較的安い費用で生活を維持することができます。

そして、豊かな南国の古代人たちが残りの時間で皇帝のために働いたように、現代人たちは剰余労働で資本家の富を増やします。

可変資本の循環を社会的に考察する

資本の循環周期が短くなればなるほど、貨幣で投下した可変資本は、より素早く貨幣に再転化します。

だから資本の循環周期が短くなると投下した資本の規模に比べて資本家が得る剰余価値の量が相対的に大きくなります。

資本の循環時期が短ければ、このように剰余価値が増大するから同じ資本を投下しても生産の規模がどんどん拡大します。

生産の規模を維持したまま資本の循環周期が短くなると、より少ない労働で同じ量を生産することができるから可変資本への投資額は減ります。

もし生産して1年かけて売れる物であれば、雇っている労働者に支払う賃金の回収は1年後になります。

しかし生産したとたんに売れる物があれば、さっき労働者に支払った賃金を即座に回収することができます

「貨幣で投下した可変資本はより素早く貨幣に再転化する」というのはそういう意味です。

そこで資本は自分の循環周期を短くするため、いろいろ努力します。

それは同じ労働力と生産手段でより多い剰余価値を生み出し、生産性を高める方法になります。

資本主義システム下の労働

マルクス経済学の核心を要約すると、労働価値論という基盤の上に、剰余価値論を乗せた考え方と表現できる。

剰余価値論は、「労働が社会の価値を生み出す唯一のもので、資本は今まで労働者が生み出した剰余価値によってできている」という理論です。

新古典学派の核心理論である限界効用理論によると、効用を最大にする均衡点、あるいは需要と供給の均衡点で商品の価値が決まります。

需要が多ければ価格が上がり、供給が多ければ価格は下がり、両方のバランスが合うどこかで、その商品の価格が決まります。

新古典学派によると、商品に含まれる労働の量は商品の価格を決める要素ではありません。

しかし、それに対する反論もあります。

例えば、自動車業界においては、生産性の改善のおかげで車の価格がどんどん下落してきました。

しかし、いくら自動車の生産が需要よりも多くなっても、その価格が100円になることはあり得ません。

それは、自動車がいくら過剰に生産されようと、その生産に必要な基本的な労働量が一定以上だからです。

これは価格がただ需要と供給のみで決まるのではなく、ひとつの商品を作るために必要な労働の量も価格を決めるということを示しています。

剰余価値論は、労働が生み出す価値と、労働力の差によって発生する剰余価値が資本を増大させる、という理論です。

労働価値論によれば労働こそ富を生み出す唯一の源だから、資本の増大は労働者に支払う給料より、彼らが生み出す労働の価値が大きい時に発生すると考えられます。

労働価値論さえ成立すれば剰余価値論は自然に導き出せます。

資本主義システムでの労働の構造

労働と道具

労働のプロセスは次の3つの要素に分けられます。 1.労働 2.労働の対象 3.労働に使われる道具

道具は、労働する人間と労働の対象の間に位置し、人間の労働を対象に伝えてくれる。

果物など、すでに完成された自然物を収穫する活動を除けば、労働者が最初に持っているのは労働の対象ではなく、道具です。

動物の中で道具を使うのは、人間だけの特徴なので、ベンジャミン・フランクリンは我々を「道具を作る動物」と定義した。

道具は、労働と原材料の間に位置し、原材料の価値を商品に転化させる役割を果たします。

テクノロジーのレベルがその効率を決定し、商品に含まれる労働の価値や、商品の価格に影響を与えるのです。

結果であり製品でもある原材料

労働のプロセスとは、人間の労働が道具の助けを借りて、原材料を変化させることです。

ここでの労働の対象と道具は生産手段で、労働は生産行為です。

製品の形をとる使用価値は、労働のプロセスから生み出される結果ですが、その結果はまた原材料として労働プロセスに投入することができます。

だから、使用価値は、以前の労働プロセスの結果であり、以後の労働プロセスの生産手段でもあります。

労働プロセスの結果が、再び他の労働プロセスに投入される、ということもあります。

例えば、牛乳は牧場の生産プロセスの結果であり、それ自体が商品でもありますが、これがチーズやヨーグルトの生産プロセスに原材料として投入されることもあります。 生産の結果だった牛乳が、チーズ工場では生産手段として活用されるわけです。

資本家の目的は剰余価値

資本家は商品を、それ自体の使用価値のためには生産しません。

資本家が商品を生産する理由はただ、それが交換価値が体現されたものだからです。

資本家には2つの目的があります。 彼は「交換価値のある使用価値を生み出す」ことを望みます。 それは“売れる商品”を作り出すことにつながります。

そして彼は、その交換価値が「生産費用よりも高い価値で売れる」ことを望みます。

価値を生み出すだけではなく、剰余価値を生み出そうとします。

剰余価値

労働力は、ただ自分の価値を再生産するだけではなく、追加の価値を生み出します。

追加の価値、つまり剰余価値は、完成された商品の価値から、それを作るために消費された生産手段と労働力の価値を引いて導き出せます。

完成した商品の価値ー生産手段の価値ー労働力の価値=剰余価値

労働が持つ2つの性質

生産手段(原材料と生産道具)の価値は、労働によって製品の価値に転化されます。

例えば、コットンと糸繰り車の価値は、生産の結果である糸の価値に転化されます。

「生産手段の価値を製品に転化する」ことと「新しい価値を作り出して製品に付け加える」ことは、労働の2つの性質です。 この2つは完全に分けて考えなければなりません。

例えば、新しい発明によって、コットンから糸を作るときに36時間必要だった労働が、6時間に短縮されたとしましょう。

すると、糸に転化されたコットンの価値は6倍になります。しかし、同じ量のコットンに含まれる労働の価値は6分の1になります。

これは、労働の2つの性質が本質的に異なることを証明しています。

在庫管理も生産活動の一部

時間軸を見ると、生産物は生産と消費の間にあるから、在庫の形になるときがあります。

生産過程と再生産過程の流れは、一定量の商品が常に市場に存在することを要求します。

商品の保管には追加の労働力が必要なので、商品の価格は上がり、その労働力は資本の一部から流出するため、非生産的な費用といえます。

社会的労働生産性が増加するにつれて、生産規模は拡大し、一緒に在庫規模も増大します。

一定の期間の需要の規模に合わせ、在庫も一定の規模を維持しなければなりません。

このような商品の停滞は、販売のための必要条件とみなされています。在庫は常に消えていくから、絶えず更新して作られなければなりません。

運送も生産活動の一部

一般的には、商品の流通は商品に価値を付け加えることはできません。

しかし、商品の使用価値は、それが消費されるときに現れます。

そのためには場所の変化が必要だから、「運送」という追加の生産過程が必要になります。

従って運送業で投下された生産資本は、生産物に価値を加えます。

その価値の一部は、運送手段からの価値の転移によることで、残りの一部は運送労働による付加価値によることです。

運送労働が付け加えた価値は、すべての資本主義的生産と同じく、賃金に対する部分と剰余価値の部分に分けることができます。

運送費の増減にも「労働生産性と、労働が生み出す価値は反比例する」という、商品生産の一般的な法則が適用されます。

「結果」を変えたいなら”やり方”を変えよ

自分から変化を起こす気がなければ、現状を脱却し、目標に向かうことはできません。

新しい何かを手に入れたければ、新しい挑戦に着手するしかないです。

オーストリアの精神科医、心理学者で「夜と霧」の著者、ヴィクトール・フランクルは、「もはや状況を変えようがなくなったとき、人は自らを変えなければならなくなる」と考えました。

未来を切り開く「鍵」はあなたの手の中にあります。

しかし、性急な決断や行動は百害あって一利なしで、タイミングを見計らう必要があります。

成功の代償は安くはないが、払う価値は十分ある

若いうちほど手放すものは少なくてすみます。しかし人生の階段を上り、それなりにいろいろなものを手に入れると、代償は高くつくことになります。

「成功すれば、そのたびに次の、より困難な問題への入場券を買うことになる」

成功にまつわる危険の一つは、人の言うことに耳を貸さなくなることです。

もし成長し、学び続けたいなら、犠牲を払うことを恐れてはなりません

何かを得るためには、人生の一部を手放さねばなりません。

しかし、これ以上は譲れないという一線を引いておくことも大切です。

“転機”での選択をしくじらない「絶対的基準」

自分だけの “トレードオフの基準”をつくるときに役立つ事例五つ

①「今日の安定」より「明日の可能性」

医師で、作家でもあるジョージ・W・クレインは、「仕事自体に未来はない。未来はその仕事をしている人の中にある」と言います。

「各人が人間的成長に真剣に取り組むこと以外に、職業の安定性はない」と言う人もいます。 それがリスクを恐れないことで必ず得られる恩恵です。

②「短期的な満足感」より「長期的な成長」

オペラ歌手のビバリー・シルズの「行く価値のある場所への近道はない」という言葉の通り、すぐ手に入る満足感と、個人としての成長は相入れないものです。

成長と成功の敵は、その場で得られる満足感だと言えます。

③「奔放な人生」より「健全な人生」

現代人には、映画スターや人気歌手を偶像化し、贅沢な豪邸や旅行をうらやましがり、いつかは宝くじを当てて、そういう奔放な生活を送りたいと夢想する風潮があります。

しかし、その多くは幻想でしかないです。

健全な人生とは、どのような人生なのか。

リチャード・J・ライダーとディビッド・A・サピーロは、「人生に必要な荷物 いらない荷物」の中で、健全な人生の過ごし方とは、「自分が生きるべき場所で生き、愛する人たちと共に暮らし、目的意識を持って、ふさわしい仕事をする」ことだと言っています。

ノーベル平和賞を受賞した医師、アルベルト・シュバイツァー博士の「成功するための大切な秘訣は、決して自分を消耗させないことだ」

人生に余裕を持たせたいなら、心がけてほしいこと

・がむしゃらに働くのではなく、賢く働くために仕事を人に任せる。

・一番うまくできることをやり、他はやらない。

・スケジュールは自分で決める。さもないと、他の人に振り回される。

・好きなことをやれば、エネルギーが湧く。

・気の合う人と一緒に働けば、エネルギーを消耗しないで済む。

その上で、目的意識を持って、適切な場所で、しかるべき人たちと一緒に仕事をすれば、あなたは健全な人生を生きていることになります。

④「安全かどうか」より「価値があるか」

安心を人生の目標にしている人は多いです。しかし、安全性を尺度にして進歩の程度を測るのは賢いやり方とは思えません。

むしろ重要性を尺度にするべきです。

「重要性」に関わってくるのは、「いかに世の中に影響を与えたか」ということです。

歴史上の偉大な人物は、どれだけ稼いで、どんな成果を上げたかによってではなく、命をかけて何を成し遂げたかによって歴史に名を残しました。

すべての犠牲は、「本当の自分」になるための挑戦です。

⑤「量」より「効率」

・リーダーと組織の価値を高めるために努力する。

・協力関係を尊重し、追求する。

・資源と知識を独り占めにせず、みんなと分かち合う

・誰の手柄になるかは気にしない

・自分のための資源を貯め込む貯水池ではなく、みんなに助けを届ける川になる

この五つのことを実践すれば、掛け算式に成長できます。

自分の才能を発揮するには、いつでもリスクを引き受ける用意をしておきましょう。

イギリスの作家ジェームズ・アレンは言います。 「わずかなことしか達成できない人は、払う犠牲もわずかである。大きなことを達成する人は、払う犠牲も大きい」

信頼と人望が自然と集まる 「7つの行動規範」

見返りを求めることなく、自分の時間、専門知識、資質を世の中に提供するのは、無欲な行いです。

どういう仕組みになっているのかは説明できませんが、人の要求やニーズに応えることに集中していると、自分の要求やニーズが満たされることが多いです。

世のため人のために貢献しようとするときは、心がけるべきことがあります

①「感謝の心」を持ち続ける

感謝の気持ちを持てない人は、人に与えられません。

感謝の気持ちを示すには、毎日、人のために尽くし、彼らが持てる力を発揮し、自分より大きな功績を上げられるように、自分が得た恩恵を次に伝えていくことです。

②自分の利益は後回し

年齢を重ねるほど、人のありがたみが身にしみます。この世の中に、永遠のものは何一つありません。

大切なのは人です。あなたのキャリア、趣味、影響力などは、あなたが死ねば消えてなくなります。

しかし、あなたが影響を与えた「人」は生き続けます。あなたが伝授したものは「人」を通じて次代へと受け継がれていきます。そのサイクルは、あなたの死後も連綿と続いていくでしょう。

敬意を持って人と接することは、相手のためでもあるし、こちらも人生の舵取りがしやすくなります。 そして、人から多くを学べるようになります。

奴隷出身のアメリカの植物学者、ジョージ・ワシントン・カーヴァーは言います。

「あなたが人生でどれだけのことを成し遂げられるかは、幼い者をいつくしみ、老いた者を思いやり、努力する人には共感を持って接し、弱者や強者に寛容かどうかにかかっている。 なぜなら、人生のいずれかの時点で、あなたはそのすべてを経験するからである」

あなたがリーダーであるなら、自分より人を優先することが、より重要になります。なぜなら、あなたの行動が多くの人に影響を与えるからです。

成功の大きさは、あなたに仕える人の数で決まるのではなく、あなたが何人の人のために力を尽くしたかによって決まります。

人生で一番大切なものが人だとすれば、彼らの価値を高めるのは当然のことであり、その習慣を自分のライフスタイルの一部にして欲しいです。

人の価値を高めるのは、あなたが人を大切に思い、彼らの価値の大きさを知っているからです。

③物欲に支配されない

物を所有しても、本当の満足は得られません。一般的に、感情的、または精神的ニーズを物で満たそうとしても、もっと物を手に入れたくなるだけです。

1889年、実業家アンドリュー・カーネギーは、「富の福音」というエッセーを書きました。

その中で彼は、裕福な人の人生には二つの時期、富を蓄える時期と、それを再分配する時期があるべきだと主張しています。

寛大さを保つ唯一の方法は、あなたの時間、配慮、金銭、資産を提供するのを習慣にすることです。

世の中に貢献するには、自分の持っている物を使って、この世をもっと住みやすい場所にすること。

④「損得勘定」で人とつき合わない

人に与える人生は、あなた自身はもちろん、相手をも束縛から解放します。

⑤「種まき」に力を入れ、忍耐強く待つ

「宝島」の作者ロバート・ルイス・スティーブンソンは、「今の私の成功は、実りを収穫したからでなく、種をまいておいたおかげである」と言います。

種をまいた後、しばらく何も起こらない時期がありますが成長はすべて土の下で起こっています。

⑥「自己実現」よりも「自己開発」に重点をおく

自己実現では、どうすればこれを自分の役に立てられるかと考える。 自己開発では、どうすればこれを使って、自分が人の役に立てるかと考える

自己実現では、いい気分になることが結果です。 自己開発では、いい気分になることは副産物です。

自己実現の追求は、幸福の探求に似ていて、常に同じ状態に保っておけない感情のようなものです。周囲の状況に左右されやすく、本人の気分次第です。

それに対して、自己開発は、あなたの気分に左右されない。どのような環境、経済的状況にあろうと、周りにどんな人たちがいようと、関係なく自分を鍛え上げることができます。

⑦「負けないための戦い」はするな

積極的に学び、成長するのをやめた瞬間に、「与えるものがなくなる瞬間」までのカウントダウンが始まります。

与え続けるためには、成長し続けなければなりません。