ピューリタン革命と名誉革命はなぜイギリスで起こったのか 

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国王の専制への不満が爆発

生涯未婚を通したため「処女王」と呼ばれたエリザベス1世が死去すると、スコットランド王がイギリス王を兼ねるようになり、1603年にステュアート朝が始まりました。

ステュアート朝のジェームズ1世は専制政治を行い、イギリス国教会の立場からピューリタン(清教徒、カルヴァン派の一派)を排除したため、議会との対立が深かった。

その結果、ピューリタンを中心とする議会派が国王に抵抗したのがピューリタン革命の始まりです。

1642年から国内は内乱状態になったが、クロムウェルの指導により議会派が勝利。

議会派の中からクロムウェルが登場し、ジェームズ1世やチャールズ1世に禁止され、不満をもっていたカルヴァン派(ピューリタン)のリーダーになると、鉄騎隊を編成し、王党派たちを打ち破ってチャールズ1世を降伏させます。

国王チャールズ1世は処刑されました。

名誉革命で議会派が勝利する

その後のクロムウェルは、議会派内で反対派を追放し独裁権を確立。

厳格な政策は民衆の反感を買い、クロムウェルの死後に王政は復古しました。しかし、専制的な国王と議会の対立は続きます。

王が議会を無視して独裁を行い、共和政になっても独裁者が登場するという悪循環が続き、イギリス議会も考えました。

独裁を防ぐために「海外から王を招き、議会を尊重するという条件で王位についてもらおう」

1688年、議会は国王ジェームズ2世の追放を決議し、メアリ2世とウィリアム3世の夫妻を共同統治王として迎えました。

両王は議会の提出した「権利の宣言」を認め、「権利の章典」として発布しました。

ジェームズ2世はアイルランドで反撃に転じたが、流血の戦いの結果、ウィリアム3世軍が勝利しました。

この「名誉革命」によって、議会が政治を主導するイギリスの立憲王政が確立しました。

なぜ産業革命はイギリスから始まったのか

産業革命を可能にした条件

18世紀後半より、イギリスで新たな機械や動力が発明され、産業のあり方が大きく変わりました。

この変化は技術革新と交通革命にもつながり、社会や生活のあり様にも影響して産業と呼ばれています。

アジアやアフリカに広大な植民地を築いたイギリスは貿易で巨額の富を得て、産業革命の資金を備えていました。

また、アメリカ大陸から綿花を輸入し、アフリカに綿織物を輸出するというように、原料供給元と製品の輸出先を同時に確保していました。

そのため、港湾都市リヴァプールに近いマンチェスターに工場がつくられ、綿織物工業が発達しました。

工場での労働力も確保される

さらに、イギリスでは人口急増に対処するために新農法が導入され、食料の増加を図る産業革命が起こりました。

産業革命では、ワットが蒸気力による上下運動を回転運動に転化することに成功。 これにより、蒸気機関が完成しました。

そのほかにも、1779年にはクロンプトンがミュール紡績機を、そして1785年にはカートライトが力織機(自動で織物を織る機械)を発明するなど生産力が向上しました。

19世紀には蒸気船や蒸気機関車に応用され、人々の交通手段や運輸の方法が大きく変化しました(交通革命)。

労働者を保護するために生まれた「工場法」

技術革新は、良質な製品の大量生産を可能にしました。多数の工場の立ち並ぶ工業都市が生まれ、都市の人口は急増します。

一方、工場労働者は劣悪な環境下に置かれるようになりました。

機械による生産では熟練を必要としないため、成人男性だけでなく女性や子供なども低賃金で長時間働かされました。

1833年、ロバート=オーウェンらの尽力によって工場法が成立、児童の労働禁止などが定められました。

その後には女性や年少者を保護する規定が加えられ、世界の労働者保護の先駆けとなりました。