蒙古襲来がのちの倭寇を生んだ

分裂したモンゴル帝国と2度の蒙古襲来

ユーラシア大陸ほぼ全域を支配したチンギス・ハンが死亡し、そのあとを継承したオゴタイ・ハンも没すると、モンゴル帝国は分裂します。

そのなかで、チンギス・ハンの孫のフビライは、中国大陸に侵攻して王朝を樹立し、国号を中国風に「元」と改めました。

中国大陸の北方に元を建国したフビライは、南方にある南宋王朝の征服を画策します。

この南宋は日本と海上交易を通じて親密に交流していました。

そのため、鎌倉幕府執権・北条時宗は、フビライが親書をよこして友好を求めてきたときも突っぱねました。

フビライの親書に「兵を用いるに至りては、たれか好むところなからん」と、武力に訴える脅し文句があったのに加え、南宋からの情報で、「モンゴル帝国=侵略者」とイメージしていたからです。

たび重なる要求を拒んだ結果、日本は2度にわたる「蒙古襲来(元寇)」を受けることになります。

文永の役(『蒙古襲来絵詞』より)

この侵略は、1274年の文永の役、1281年の弘安の役の2回起こりました。

1回目は、軍内部で指揮系統を巡っての対立が発生したため元軍が自主的に撤退し、2回目は暴風雨によって壊滅。結局、日本側が元軍を退けた格好になりました。

2回目の弘安の役の際には、元軍に多数の江南人が含まれていました。元によって滅ぼされた南宋の人々です。

生き残った人々のうち、元軍の将兵はひとり残らず首を切られますが、江南人たちは生かされました。

倭寇

倭寇にさらされた高麗王朝

14世紀に入ると、朝鮮半島や中国大陸の沿岸を海賊たちが、荒らしまわるようになります。これが「倭寇」です。

彼らは海の武士団ともいうべき、武装交易商人たちです。北部九州の人々が主体となっていました。

倭寇が略奪行為を働いたのは、2つの理由がありました。

ひとつは物資の必要性です。

日本はこの時期、南北朝の動乱期にあり、大量の軍需物資を必要としていました。

国内ではそれらの供給が間に合わなかったため、大陸に押し寄せたのです。

もうひとつは、蒙古の力を削ぐためです。

とくに北部九州の海の民たちは、2度の経験で、「侵攻を受けたら、真っ先に犠牲になるのは自分たち」と分かっていました。

3度目の侵攻を阻止する意味もあり、交易ではなく、略奪という非常手段に出たのです。

蒙古襲来に加わった朝鮮半島の高麗王朝などは、41年のあいだに394回もの襲撃を受けて、ついには滅びてしまいました。

このとき役立てられたのが、元寇の際に生かされた江南人から仕入れた、沿岸都市に続く海の道、造船術など諸々の情報でした。

倭寇は日本で南北朝合一がなされ、大量の軍需物資が必要なくなるまで続けられました。

蒙古襲来があったから、そのあとの倭寇があったのです。

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