唐との断絶が日本独自の文化を生んだ

目次

平安京の始まり

6世紀に伝来した仏教により、一時政治は安定しました。しかし、奈良時代後半になると仏教勢力が政治に介入するようになり、政治の腐敗が進みます。

そこで、政治と仏教勢力を切り離すことを目的として784年、長岡京への遷都が行われましたが、これはうまくいきませんでした。

長岡京造営の責任者・藤原種継の暗殺や、洪水被害などあり、長岡京造営は中止を余儀なくされてしまったのです。

代わって新たな都の候補地に選ばれたのが山背国、つまり、現在の京都府でした。

794年、遷都が行われ、新しい都は「平安京」と名付けられました。これより約390年間を平安時代と呼んでいます。

中国で続いた反乱と唐の衰退

白村江での敗戦以来、日本は唐王朝を手本として国造りを進め、遣唐使を定期的に派遣して、学問・文化・技術の吸収に努めていました。

しかし、唐朝の運命は755年に起こった安史の乱を機に、大きく変転します。

乱は9年にも及んだばかりか、唐朝単独では鎮めることができず、異民族ウイグルの力を借りて鎮圧したのです。

これにより、唐朝の権威は大きく失墜しました。国内でも政治・経済・社会の各方面で大混乱が起こり、下り坂を転げ落ちるように衰亡へと向かい始めるのです。

9世紀も後半に入ると、唐朝の衰退はいよいよ進行し、政治は完全に腐敗。民衆の生活も困窮を極めるようになります。

こうしたなか875年に黄巣の乱が勃発します。

この大反乱によって唐朝は事実上、崩壊。907年には朱然忠によって滅ぼされ、中国大陸は「五代十国」という分裂の時代へと入りました。

遣唐使船

遣唐使の廃止と国文学の発達

日本はこの動乱に巻き込まれるのを警戒し、関係を交易のみに限定し、孤立主義を採ることになります。

894年、菅原道真の建言により、遣唐使の廃止を決め、それが実行されました。

唐帝国は衰亡する一途であり、莫大な費用を投じて使者を送っても意味がないという判断でした。 

このことにより、中国文化の流入が止まり、蓄積された唐文化の消化・吸収が進んで、日本固有の文化と融合し、「国風文化」が生まれることになります。

国風文化のもと、現代につながる数多くのモノや文化が生まれました。

たとえば、日本語を書き表すための文体や文字の工夫があげられます。

平仮名は、主に宮廷の女性が、書状や和歌のやり取りをするのに用いられました。

また、カタカナも、僧侶が漢字で書かれた経典を訓読するために考え出されました。

公的な政治の世界では、漢字・漢文が公用されていましたが、私的な日記などには、正式な漢文とは形式が異なる、日本的な漢文で書かれるようになります。

こうした工夫が進むなか、漢字主体では表現ができなかった日本人の活き活きとした感性が表現できるようになり、国文学が発達します。

この国文学中の白眉が、宮廷に出仕する女性たちによって著わされた女流文学です。

清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』、和泉式部の『和泉式部日記』、菅原孝標女の『更級日記』など、数多くの作品が生み出されました。

神仏習合により生み出された「権現」

宗教面では神仏習合が進みました。これは日本固有の神と、仏教の仏を融合させたものです。

この頃の仏教は世俗化がかなり進んでおり、仏法による国家鎮護と高邁な哲理の追求より、寺院の拡大に関心が集まっていました。

このため唱えられたのが「本地垂迹説」です。これは「日本の神は仏が姿を変えて現れた」とする説です。

もっともよく知られているのが、「天照大御神は大日如来の化身」とするものです。

天照大御神は、日本神話に登場する太陽女神であり、大日如来は密教(インドで生まれた呪術性の濃い仏教)の仏です。

この神仏習合の過程で生まれたのが、「権現」という語です。

権は「仮」の意。仏が神という「権」の姿でこの世に「現」れたから権現なのです。

時代が下ると、熊野権現、愛宕権現、白山権現などさまざまな権現が生まれ、多くの信仰者を集めました。

寺院の参拝も、この権現隆盛のなかで一般化したのです。

神仏習合は、明治政府の宗教政策で解消されていますが、権現の呼称は現在も残っています。

ほかにもさまざまな分野で日本化が進みました。現在の文化のルーツをたどると、等しく唐帝国との断絶にたどりつくのです。

蔵王権現(ギメ東洋美術館)

蔵王権現は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊