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民主政治の礎となったアテネ
前8世紀頃になると、ギリシア人はポリスと呼ばれる都市国家を形成し始めました。
多数のポリスのなかで、特に有力だったのがアテネです。
アテネでは、当初は貴族政が敷かれていました。しかし、交易などによって裕福になった平民も、武器を買って国防に参加するようになります。
そして、貴族の独占的な政治への不満を背景に平民たちの発言力が強くなり、民主政治が発展していきました。
対照的に、アテネと並ぶ有力なポリスだったスパルタは、市民の強い結束のもとで軍国主義的な体制をつくりあげており、現在でも、「スパルタ式教育」として名を残しています。

アテネの最盛期と衰退
アテネの転機となったのは、東方の大国アケメネス朝ペルシアの侵攻から始まるペルシア戦争でした。
ギリシア諸ポリスはアテネを中心に団結し、ペルシアの大軍を退けました。
この戦争では、無産市民も軍船の漕ぎ手として貢献し、発言力を高めることになります。
ペルシア戦争後、将軍ペリクレスのもとで、アテネの民主政治は最盛期を迎えます。
ところが、アテネの隆盛を警戒したスパルタとの対立が深刻化。
前431年ギリシア諸ポリスがアテネとスパルタの陣営に分かれ、ペロポネソス戦争がはじまります。
ギリシア世界の混乱は長引き、衰退に向かいました。
政治に悪影響をもたらした「デマゴーゴス」
ギリシア世界が、アテネ率いるデロス同盟とスパルタ率いるペロポネソス同盟の2陣営に分かれて戦ったペロポネソス戦争(前431年〜前404年)。
アテネ側は最終的に敗北するが、その背景にはデマゴーゴス(扇動政治家)の存在があるとされる。
戦争中、好戦的な主張で人気を得ようとする政治家が出現し、アテネの民主政は堕落していき混乱をきたすことになった。
指導者として立ったクレオンは、和平案を拒否するなど、デマゴーゴスの典型例とされている。

ペルシア時代の勢力図
前500年〜前449年、ペルシア支配のイオニア植民市でのギリシア人による反乱から、ペルシア戦争が起こる。
