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革命前への回帰を目指した
ヨーロッパ中を支配したナポレオンが敗北したことで、ヨーロッパにいったん「リセット」がかかった状態になりました。
そこで、ナポレオン後のヨーロッパを諸国がどのように領土分配するのかについて話し合うためにウィーン会議が開かれました。
各国の利害対立のため、討議がまとまらず「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されました。
しかし、ヨーロッパをフランス革命前の状態に戻すという正統主義の原則のもと妥協が成立しました。
オーストリアの政治家メッテルニヒが主導したウィーン体制は、各国の勢力均衡が図られ、保守反動的な国内政策がとられました。
王政の復活に失望した民衆
フランス革命を経験した民衆にとっては、今さら「王様の世の中に戻す」といわれても、まっぴらごめんです。
国民が自由に政治に参加できて、かつリーダーも自分達で選べ、農奴制もない平等な世の中。
そういったフランス革命の理念が、ヨーロッパ中の民衆にすでに広がっていたのです。
そのため、自由や権利を求める自由主義運動がヨーロッパ中に展開します。
ウィーン会議の2年後には、早くもドイツで学生運動が起き、10年も経たないうちにイタリアでも「炭焼き党」カルボナリの反乱、ロシアではデカブリストの反乱など、ヨーロッパ各地で自由や権利を求める人々が反乱を起こします。
ウィーン体制が成立して王様たちの世の中に戻りましたが、すぐに自由主義運動の反乱が始まったことで、王の支配に不満をもった民衆や他国に支配されている国々は「我々も反乱を起こせば王政打倒や独立のチャンスがあるかもしれない!」と、考えるようになります。
こうして、19世紀のヨーロッパでは、すさまじい数の革命や反乱が起きるようになるのです。
またフランスが革命の中心に
またもや倒されたブルボン朝
フランスはウィーン会議の結果、ルイ18世のもとにブルボン朝が復活しました。
ルイ18世は議会に協力的な姿勢を見せますが、聖職者や貴族を重用したため、国民に失望されました。
その弟シャルル10世は、議会を解散して独裁と絶対主義を強めたために、国民の不満が一層高まります。
1830年のパリでの暴動により国王シャルル10世は国外に亡命してブルボン朝は再び倒れ、自由主義者として知られたオルレアン家のルイ=フィリップが新しい王に迎えられます(この革命を七月革命)。
翌年、イタリア統一を目指す結社、青年イタリアも結成されました。
民衆は「金持ち優遇政策」に失望
七月革命によって王位についたルイ=フィリップの王政は七月王政と呼ばれます。
もとから人々の自由や権利に理解があり、「国民王」といわれたルイ=フィリップなら、善良な政治をしてくれるとの期待が国民にはありました。
しかし、ふたを開けてみれば、ルイ=フィリップは金持ちばかりを優遇します。
選挙権もお金持ちにしか与えず、普通選挙の要求も退けるルイ=フィリップに「株屋の王」というあだ名がつけられ、農民や労働者階級は不満を募らせました。
1848年フランスでは参政権を求める市民が蜂起し、ルイ=フィリップはイギリスに亡命し、共和政が成立します(二月革命)。
この革命によって成立した共和政は、フランス革命期の「国民公会」による第一共和政に対して第二共和政と呼ばれます。
ヨーロッパ中の国民が立ち上がる
二月革命も、七月革命と同様に各地に飛び火して反乱や暴動が起きます。
プロイセンやオーストリアでは三月革命が起きてウィーン体制を指導していたオーストリア外相メッテルニヒが亡命します。
ポーランドでは、再びロシアに対する独立運動、オーストリアでは独立を求めてベーメンやハンガリーで暴動が起きます。
イギリスでは労働者が権利の拡大を求めてチャーティスト運動が起きました。
こうした1848年のフランス二月革命から始まり、ヨーロッパ中に飛び火した反乱、暴動、革命などの運動をまとめて「諸国民の春」といいます。
今まで下の身分に置かれていたり、権利が制限されていたり、他国に従属していたりする民族が一斉に蜂起して世の中をひっくり返そうというムードがヨーロッパに充満していきます。
もはや、ウィーン体制はあとかたもなく崩壊してしまったのです。