
ヨーロッパ大陸の大半を支配
1789年にフランス革命が始まるが、外国からの干渉などにより、政情の不安定が続いていました。
イタリア半島の西にある、フランス領コルシカ島出身のナポレオン=ボナパルトは、革命軍で軍才を大いに発揮し名声を高めました。
オーストリア軍やイギリス軍を次々に撃破する姿を見て、人々は熱狂し、フランスの危機をナポレオンに託そうとします。
ナポレオンは1799年のクーデタで独裁権を得て、1804年には国民投票によって皇帝となりました。
革命により疲弊した国民は、強い指導者を望んでいました。
フランス革命は「王を倒す」段階から「王がいない」段階を経て、「みんなで独裁者を選んでその支配をうける」という段階に突入します。
ナポレオンは国民の同意のもと、イギリスが主導する対仏大同盟に対抗し、次々と対外戦争をしかけます。
イギリスにはトラファルガーの海戦で敗れるものの、オーストリアやプロイセンの軍を撃破し、ヨーロッパ大陸の覇権を握ることに成功しました。

ナポレオンの功績は現代へ
しかし、ナポレオンが本当に倒したかったのはイギリスです。今まで何度もフランス革命に介入し、ナポレオンも海戦で敗北していた「最強の敵」でした。
そこで、ナポレオンは、イギリスを苦しめようと、大陸のヨーロッパ諸国にイギリスとの貿易を禁止し、イギリスを「兵糧攻め」にしようとしたのです(大陸封鎖令)。
ナポレオンを恐れ、表面上では命令に従っていたヨーロッパ諸国でしたが、裏でロシアがイギリスに穀物を輸出するという「大陸封鎖令破り」をしていました。
この裏切りが発覚すると、ナポレオンは制裁のためにモスクワ遠征を行います。
ロシア皇帝アレクサンドル1世は、わざと敗北をかさねて退却しながら、ナポレオンを広大なロシアの大地におびき寄せ、冬を待って一気に大反撃を加えるという、ロシアの「広さと寒さ」を十二分に活用した戦略をとりました。
罠にかかったナポレオン軍は、戦死と凍傷により61万の兵が5000人に減るまでの大敗北を喫します。
ナポレオン敗北というチャンスにつけ込むべく、ヨーロッパ諸国は対仏大同盟を結成します。
ライプチヒの戦いやワーテルローの戦いで敗北し、退位したナポレオンは、セントヘレナ島に流されて生涯を終えました。
ナポレオンの野望は挫折しましたが、ナポレオン戦争はフランス革命の理念を全ヨーロッパに広めました。
このことは、19世紀の各国の革命や個人の自由・平等を主張する自由主義、ナショナリズム(国民主義)運動の要因になりました。
ほかにも、ナポレオン法典の編纂は私有財産の尊重などが規定され、近代ヨーロッパ法に多大な影響を残しました。

鎖国中の日本に起きたフェートン号事件
ナポレオン戦争は、遠く離れた日本にも影響しました。欧州で唯一交流のあったオランダが、ナポレオンによって一時占領されたためです。
オランダ本国はフランスの影響下に置かれ、イギリスと敵対し、オランダの海外拠点はイギリスの攻撃を受けました。
1808年、イギリス軍艦フェートン号が長崎湾に侵入し、オランダ人を人質にとる事件が起きました。 長崎奉行の松平康英は責任をとって切腹します。
この事件は幕府が異国船打払令を定めるきっかけのひとつになりました。