享保の改革を推進した徳川吉宗
江戸幕府の第8代将軍は、徳川吉宗です。
紀州藩主を経て将軍職に就いた吉宗は1716年から1745年にかけて幕政改革を行います。改革に着手したときの年号を取って、歴史上「享保の改革」と呼ばれるものです。
吉宗は華美な風潮を戒め、質素倹約を奨励するとともに、新田開発や貨幣の改鋳によって幕府財政の健全化をはかりました。
また、市場経済の活性化や裁判の公正化徹底などを行い、目安箱で庶民の声を拾いあげました。
享保の改革のひとつに禁書令の緩和があります。
それまで幕府はキリスト教思想の流入を警戒し科学技術関連を含む一切の漢訳洋書の輸入を禁止していました。
しかし、西洋天文暦学による改暦を望む吉宗は、キリスト教と無関係な漢訳洋書の輸入を解禁したのです。
これにより西洋の先進的科学が日本にも伝来し、ケプラーの第3法則と同等の発見をしたとされる麻田剛立など優れた科学者が民間から生まれました。
幕末維新期に日本が四苦八苦しながらも欧米世界と対応できたのは、漢訳洋書の輸入解禁により日本にも西洋と同等の“知”が蓄えられていたからにほかなりません。
吉宗が改革の時点で近い将来に起こる西洋諸国との接触を念頭に置いていたかは不明ですが、先例にとらわれない改革に踏みきった点において紛れもなく名君といえます。

啓蒙思想を好んだプロイセンの名君
吉宗が将軍職にあった時期、ヨーロッパでも名君が誕生しました。
プロイセン王国のフリードリヒ2世です。
「大王」と称せられたこの君主は理性を重んじる啓蒙思想に傾倒し、「君主は国家の第一の下僕である」と称し、国民の福祉の増進につとめ、啓蒙専制君主のひとりとなりました。
このいっぽうで軍備強化や産業の育成にもつとめ、プロイセン王国をヨーロッパの強国に押し上げています。

東西の人々を救ったイモ
ところで、この東西両名君にはある共通点があります。それは「イモ」です。
吉宗が将軍に就任したのは、マウンダー極小期と呼ばれる寒冷期が終わった直後で気候はまだ安定していませんでした。
吉宗はここにおいて、蘭学者の青木昆陽にサツマイモ栽培を研究させます。
これによりサツマイモは関東でも栽培が可能になり数々の名産地が生まれました。
埼玉県の川越はそのひとつです。川越産のものは甘みが際立っていたことから、「栗よりうまい十三里」といわれました。十三里とは川越から江戸までの距離です。
ヨーロッパではジャガイモが栽培されました。
緯度の高いヨーロッパでは寒冷化による小麦減産で農業革命が必要となり、南アメリカ大陸からもたらされ寒冷な気候でも栽培可能なジャガイモが着目されたのです。
もちろん、すんなりと移行したわけではありません。
新しい作物を栽培することに嫌悪の念を抱く農民も多くいました。
これに対してフリードリヒ2世は強制栽培の勅命を出してジャガイモを増産します。
これにより今日に至るまで、ジャガイモはドイツ料理の主流となっているのです。
東西の名君が同時期に揃って「イモ」の普及に関わっている点、なんとも言えない歴史の面白味を感じます。