江戸時代初期の日本は「大進出時代」だった

目次

大航海時代に入ったヨーロッパと日本

15世紀に入るとヨーロッパでは、東南アジアの香辛料や「黄金の国ジパング」伝説、さらに日本産の銀にひかれて、さかんに東洋世界への進出をはかります。

「大航海時代」の到来です。

しかし、大航海時代に入ったのはヨーロッパだけではありませんでした。同じ時期、日本も大航海時代へと入りました。

多くの日本人が商船に乗り込み、ルアン、トンキン、アンナン、カンボジア、シャムなど東南アジアの拠点港湾都市に向かいました。

日本から運ばれたのは銀、銅、鉄など地下資源です。とくに銀の量は膨大でした。

その意味で国力は豊かであり現代でいう産油国のような立場でした。

輸出品を運ぶ商船は、徳川幕府から海外渡航許可証ともいうべき「朱印状」を発給されていました。

このため東南アジアとの交易は「朱印船貿易」と呼ばれています。

中国産の生糸や絹織物,武具用の鮫皮や鹿皮,砂糖などが輸入され,日本からはおもに銀や硫黄,銅,刀などが輸出されました。

朱印船(荒木船)

東南アジアに築かれた日本人町

東南アジアの各所には多くの日本人町が形成されており、日本人たちは滞在先の国内でさまざまな仕事に従事しました。

彼らにとって傭兵はおもな仕事のひとつでした。

過去100年にわたる戦国時代で鍛えられた日本人たちは、軒並み戦闘のプロフェッショナルです。

彼らは持ち前の戦闘力を発揮し東南アジア史に大きな影響を与えました。

東南アジアでは、オランダやポルトガル、中国大陸の明国も貿易を行っていましたが日本の朱印船貿易はオランダや明国以上でポルトガルに拮抗するほどさかんな時期もありました。

1代前の豊臣関白政権時代もヨーロッパとの貿易や日本人の海外進出は盛んでしたが、江戸時代初期は前代をしのぐ大進出時代だったのです。

進出のきっかけを作ったオランダ

朱印船貿易のきっかけを作ったのは、ネーデルラント連邦共和国でした。

一般的にオランダという国名で知られるこの新国家は、オラニエ公ウィレムをリーダーとする独立運動により1581年スペインから独立して誕生します。

誕生後、商業振興に力を入れたため、首都のアムステルダムを中心にヨーロッパ随一の商業国家となりました。

イギリスが東インド会社を設立すると、オランダもアジアとの貿易拠点として東インド会社を設立しました。

ヨーロッパ勢力の貿易拠点がアジアに築かれたことで、東南アジアの海を舞台とした海洋交易は活況を呈するのです。

日本はこの経済圏に参入するため、積極的に東南アジアに進出したのです。

対外貿易に積極的だった家康

対外貿易にことさら力を入れたのは徳川家康でした。

オランダやイギリスとの貿易開始は家康在世中のことです。

家康はまた、途絶えていたスペインとの貿易を再開するため、1601年京都の商人田中勝介をノビスパン(スペイン領メキシコ)に派遣しました。

中世末期から近世初期にかけての日本は、ヨーロッパと並ぶ海洋交易国家となりました。

しかし、家康の死後この路線は変更され国を鎖(とざ)した「鎖国」にシフトしていきます。

結果、最終的には朝鮮国だけと正式な外交関係を持ち、オランダと通商関係のみ、中国大陸の明・清両王朝と民間交易のみ、薩摩藩を通じて琉球王国と、松野前を通じて蝦夷地(現在の北海道)と関係を持つだけになりました。

鎖国中にオランダとの貿易の拠点となった長崎の出島

日本が国を鎖した理由とは?

日本が外交を縮小したのには複数の理由がありました。

もっとも大きな理由はキリスト教を警戒したことです。

キリスト教は世俗権力よりも、神の教えを優先させます。徳川はこの点を危惧したのです。

スペインやポルトガルなど、ローマ・カトリックを奉ずる国がキリスト教を隠れ蓑にして、他国を植民地化していることも警戒の一因となりました。

宣教師が乗り込んで現地人をキリスト教徒とし世俗権力と争わせ、隙をついて本国の軍隊が現地に乗りこんでくるのです。

東南アジアなどは、この方法で軒並みヨーロッパ勢力の植民地にされました。

ちなみに、オランダはプロテスタントを奉じていました。

布教活動も一切しないと確約したため、通商に限って関係維持を許されたのです。

このほかにも幕府による貿易と外交の独占、西国大名の経済力増加に対する警戒などの理由により、日本の大航海時代は近世初期に終焉したのです。