群雄割拠の戦国日本にキリスト教が伝来
1549(天文18)年、戦国時代の日本にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、キリスト教が伝えられます。
ザビエルが日本を去ったあとも、多くの宣教師が来日し、日本にローマカトリック(旧教)の教えを説きました。
「キリシタン」との名称で日本に根づくや、キリスト教は急速に勢力を拡大。
大友宗麟や有馬晴信のように戦国大名でありながら洗礼を受ける者も少なからずおり(キリシタン大名)、キリスト教信者は1582(天正10)年の段階で、九州で12万5000人、畿内で2万5000人に達しました。

国をむしばむ内なる敵・キリスト教現地信者
伝来から33年でかくも短期間に信者が増えたのは、宣教師たちが行う数々の慈善事業を介して、教えが説く「理想郷」の実現にリアリティを感じたためです。
しかし、宣教師たちには裏の顔がありました。彼らはヨーロッパの放ったスパイだったのです。
ローマカトリックを奉じるポルトガルとスペインは、1494年のトルデシリャス条約と1529年のサラゴサ条約により、世界を勝手に分割支配することを決めていました。
彼らはまず、目星をつけた場所にキリスト教宣教師を送りこみます。
宣教師は領主に取り入って布教許可をもらい、教えを広めるかたわら慈善事業を行い、現地信者を増やしていきます。
キリスト教では世俗権力のうえに神の教えを置くため、現地信者はキリスト教を重んじ、現地の権力に反目するようになるのです。
この空気が醸成された頃を見計らい、ヨーロッパ人商人が強引な商取引で現地経済をマヒさせ、抗争が起こると武力で制圧するのです。
もっとも、自分たちが武力を行使するのは最後の手段です。たいていは現地信者が先兵となって戦いました。
宣教師に吹き込まれた「理想郷」の実現を信じて…。
インドも東南アジアもこの方法で、スペインやポルトガルの植民地となりました。
日本ではキリシタン大名の大村純忠が、宣教師の指示にしたがって領内の神社仏閣を破壊し、領民を強制的に改宗させていますから、内部工作はかなり浸透していたと考えて良いでしょう。

日本でも起こっていた現地信者の武装蜂起
しかし、最終的に彼らの目論見は失敗しました。
豊臣関白政権下の1596(慶長元)年に起こったサン=フェリペ号事件により、スペインの抱く領土的野心が露わになったからです。
海外貿易を優先するあまりキリシタン入信は個人の自由としていた豊臣秀吉も、事が露見すると、宣教師6名と日本人信者20名を長崎で処刑して、禁圧へと舵を切ります(二十六聖人の殉教)。
徳川幕府も当初は海外貿易優先のあまりキリシタンを黙認していましたが、次第に禁制を強化し、1624(寛永元)年にはスペインとの国交を断絶。
1636(寛永13)年にポルトガル人を長崎出島に移します。
この翌年、北九州の現地信者が禁教と重税に反抗し、島原の乱が勃発します。
インドや東南アジア同様のことが日本でも起こったのです。
乱を鎮めた幕府は、ポルトガル人を出島から追い出すかたわら、宗門改めを断行します。
この宗教統制策により日本人はみな仏教寺院の檀家となりました。
こうして日本は、宗教を隠れ蓑としたスペイン、ポルトガルの魔手から逃れたのです。
