明の冊封体制下に入った足利義満

中国大陸で明が建国される

元のフビライ・ハンは、2度の日本攻略(元寇)に失敗した後、3度目の日本遠征を計画していました。

しかし、計画を実現できないまま死去しました。

フビライ・ハン亡きあと、元王朝の勢威は衰えていき、各地で民衆反乱が勃発します。

このうち白蓮教徒による「紅巾の乱」がもっとも大規模なものでした。

これにより元は、モンゴル高原への後退を余儀なくされます。

中国大陸の新しい支配者となったのは、光武帝(朱元璋)が建国した明でした。

明の初代皇帝・洪武帝

権力基盤が脆弱だった室町幕府

中国で明が建国された時期、日本は南北朝の動乱期でした。

本州と四国は、足利義満と室町幕府をトップとする北朝が押さえていましたが、九州は懐良親王と征西府をトップとする南朝が押さえていました。

この頃倭寇はまだ盛んで、洪武帝は甚大な被害に頭を痛めていました。そこで懐良親王に倭寇の禁圧を命じます。

親王はこれを「不遜なり」として黙殺しますが、後に了承。洪武帝から「日本国王」に任じられます。

懐良親王
足利義満

これを知って足利義満は大いに焦ります。

九州南朝が明の勢威を背景に、勢力を伸長させる恐れがあったからです。

ここにおいて足利義満は、九州南朝征討に本腰を入れ、北朝きっての名将今川了俊を、九州探題に任命します。

この了俊の働きにより、九州南朝は形ばかりのものになりました。

ところで、室町幕府は大勢の有力守護のうえに、将軍が担がれるという体制になっており、政治的基盤は脆弱でした。

有力守護が力を持てば、勢力が覆る危険性があったのです。

幕府を安定させるには、磐石な権威が必要でした。義満はここで、明の冊封体制下に入ることを決意します。

明皇帝に王権を保証してもらうことで、政権の安定をはかろうとしたのです。

他の追随を許さない巨万の富を得ることも、義満の視野には入っていました。

天皇・上皇をしのぐ権勢をふるう

明は朝貢し、巨従を誓うものとしか貿易を行わない方針を打ち出していました。

つまり、対等の関係ではないわけです。

外交という点では屈辱的ですが、大きな見返りもありました。

朝貢する相手には、中華帝国のプライドをかけて、貢物をはるかに上回る物品や金銭を下賜し、貿易を許可したのです。

義満は名誉を捨てて、実利をとる道を選びました。

明側は当初、足利義満の申し出を断りました。征夷大将軍は朝廷の官職であり、形の上で天皇の臣下になるためです。

しかし1392年、南北朝が合一します。  この2年後に将軍職を退いた義満は、出家して法体となり、改めて明の冊封体制下に入るために動き始めます。

明も今度は義満の求めに応じました、懐良親王はすでに亡く、日本国王は不在だったからです。

倭寇禁圧を約束した点も、好感を持たれたようです。

こうして日本と明のあいだで貿易が開始されます。

明が貿易統制のために出した「勘合符」を使った貿易のため、勘合貿易と呼ばれています。

義満はこの貿易で莫大な富を得、天皇・上皇をしのぐ権力を誇り、日本国王として振る舞いました。

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