鎌倉時代の到来とモンゴル帝国の始まり

鎌倉時代の始まり

12世紀中ごろ、日本では平清盛をトップとする平家が政治を独占するようになります。

しかし朝廷はこれを快く思わず、朝廷は平家打倒を画策し、1180年、朝廷の令旨に応じて源氏が挙兵しました。

その結果、源義仲は平家を都から追い、源頼朝は東日本の行政権を獲得します。

再起を図る平家を追い込んだのは源頼朝の異母弟・源義経でした。

合戦の天才だった義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込みます。

このあと源頼朝が征夷大将軍に就任します。

チンギス・ハンの登場

日本が平安時代から鎌倉時代の過渡期にあるとき、ユーラシア大陸のモンゴル高原北東部に、強力なリーダーが出現しました。

モンゴル部のテムジン(鉄木真)です。

強大な軍事力を率いたテムジンは、タタール部、ケレイト部、ナイマン部などの諸部族を支配下に収め、モンゴル高原を統一しました。

そして1206年、クリルタイ(族長会議)で「チンギス・ハン(成吉思汗)」の称号を与えられます。

これによりモンゴル帝国が誕生したのです。

チンギス・ハンに率いられたモンゴル帝国は、モンゴル高原を起点として四方に軍事遠征を行ないます。

これにより黄河上流部、中央アジア、西トルキスタン、イラン高原、中国大陸北東部が、モンゴル帝国の支配下に入ることになります。

ユーラシア大陸を支配したモンゴル帝国

チンギス・ハンは1227年に死亡しますが、その後も一族により遠征は続けられ、1236年には、チンギス・ハンの孫バトゥにより、ヨーロッパ遠征が行われます。

この大征西の結果、東ヨーロッパとロシアがモンゴル帝国の支配下に入りました。

こうして東は中国大陸北東部、西は東ヨーロッパ、南はイラン高原、北はロシアまでがモンゴル帝国の支配下に入ります。

帝国はこのあとオゴタイ=ハン国(西北モンゴル)、キプチャク=ハン国(ロシア)、イル=ハン国(イラン)、チャガタイ=ハン国(中央アジア)、元の5つに分裂しますが、モンゴル人がユーラシア大陸の支配者であることに変わりはありませんでした。

モンゴル帝国がユーラシア大陸を支配したのは、大陸全体にまたがる貿易圏を獲得するためでした。

この貿易圏の誕生により、東西の情報・物資・人の流れが、それ以前と比べものにならないほどスムーズになりました。

つまり、これまで地域に限定されていたものが、ダイレクトに影響しあうようになったのです。

有史以降初めて「世界史」が誕生した瞬間でした。

バトゥがポーランド軍と戦ったワールシュタットの戦い

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