天皇と日本という名が制定される
私たちが現在当たり前に使っている「日本」「天皇」という名称は、689年に施行された本格的法律「浄御原令」において正式に決まりました。
それ以前は、天皇は「治天下大王 (あめのしたしろしめすおおきみ)」を称し、国名は「倭国」としていました。
中国王朝が日本を「倭」と呼んだことから自称したのです。
「日本」「天皇」の名称の決定には、天智・天武・持統の三天皇が深く関わりました。
ただ、この三天皇の代になって、急に切り替わったわけではありません。変更に向けた長い準備期間があったのです。

中国の冊封体制下からの離脱
日本は長いあいだ、中国王朝の冊封体制下にありました。
冊封体制とは、中国王朝に朝貢して臣下の礼をとる代わりに、中国の皇帝の権威で王権を保証してもらう政治システムでした。
しかし、6世紀の中ごろから、ヤマト政権は冊封体制下からの離脱と、自主独立の道を模索し始めました。
そして7世紀初頭には、次のようにしたためた国書を隋帝国に送るのです。
「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」
これは『隋書』東夷伝倭国条に記された文面です。
この書を読んだ隋帝国皇帝・煬帝は、「無礼な書なり」と強烈な不満を露わにしたといいます。
煬帝がそのような反応をしたのは、倭国の王が「天子」を称していたからです。
中国では「天子は地上にただひとり」と考えられています。
その点を承知しながら、まるで対抗するかのように、「日出る処の天子」と自称したために、煬帝は怒ったのです。
「治天下大王」から「天皇」へ
煬帝にとっては非礼な国書ではありましたが、倭国にとっては成果がありました。
倭国は、隋王朝から冊封を受けなかったのです。
こうして倭国の大王は、中国王朝から独立した君主であることが認められました。
その後隋帝国は煬帝の失敗もあって、建国からわずか37年で滅亡し、唐帝国が誕生します。
これを受けて倭国では、中央集権化と富国強兵が叫ばれます。そうしなければ、唐帝国をはじめとする東アジア情勢の激動に飲み込まれてしまう危険性があったためです。
こうしたなか大化の改新が断行され、白村江の敗戦があり、天智・天武・持統の三帝により、律令国家体制作りが進められるのです。
政権のトップたる「天皇」の称号も、この動きのなかで決められました。
天皇とは道教(中国固有の民衆宗教)の最高神格で、皇帝と比較して何ら遜色がありません。
また、この動きのなかで「日本」という国号も制定されました。
天皇号と日本の国号は、激動化する東アジア情勢を受けて、国の基盤を強固にするために制定されました。
国の存続と繁栄をかけたものだったのです。