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仏教の伝来で生じた対立
紀元前6世紀に古代インドで誕生した仏教は、東南アジアや中央アジアに伝播したあと、シルクロードを通って中国に伝わり、6世紀に朝鮮半島を経て、日本に伝来します。
日本に定着したのは、欽明・敏達・用明の3天皇を経てのことです。
定着まで3代を要した理由については、「仏教の受容を主張する蘇我氏と、日本古来の神道を重視する物部氏の対立」があったためです。
日本には八百万の神がいます。外来の神の受容に抵抗を示す物部氏サイドの反応は当たり前のことでした。

仏教を受け入れた理由
日本史上「崇仏論争」と呼ばれるこの対立は、単なる宗教論争から政争にまで発展し、ついには武力衝突に至ります。
勝利したのは蘇我氏でした。
これによりヤマト政権では、仏教受容の基盤が整うのです。
用明天皇の死後、皇位は崇峻天皇を経て、推古天皇が継承しました。
日本史上初めてとなる女帝の誕生です。
594年、推古女帝は天皇直々の仏教振興命令となる、「仏教興隆の詔」を出します。
これによりヤマト政権は、総力を結集して仏教の受容を推し進めることになるのです。
ヤマト政権が仏教振興に力を入れたのには、複数の理由があります。
一つ目は仏教が東アジアのグローバルスタンダードになっていた点です。
中国や朝鮮半島では、仏教は仏の力による国家鎮護の法として、さかんに信仰されていました。
仏教を受容しなかったとしたら、古代日本は東アジア世界のなかで大きく後退してしまいます。
そのような事態を防ぐために、固有の神信仰がありながらも、国をあげての外来宗教受容に踏み切ったのです。
2つ目は技術の受容です。仏教は当時最先端の思想であり技術でしたから、大陸の進んだ技術を受容する意味でも、仏教の受容は理にかなっていたのです。
3つ目はアイデンティティの確立です。別の項でも見たように古代の日本は、中国王朝の冊封体制下に入り、中国皇帝の権威で王権を保証してもらっていました。
ヤマト政権もこの路線を踏襲していましたが、欽明朝あたりから冊封体制離脱を模索し始めます。
中華思想に対抗する価値観としての仏教
ただ、そのためには障壁がありました。 中国には古くから「中華思想」があります。
これは自国=世界の中心に位置する文化的国家、周辺国=未開の野蛮国とする考え方です。
中華思想の枠内にある限り、どんなに「我々は文化国家だ!」と主張しても、「所詮は自称」としか見られないのです。
自主独立路線確立のためには、この中華思想の土俵に乗らないことはむろん、中華思想に対抗できるスケールを持つ価値観のうえで対抗するしかありませんでした。
その方法を模索しているとき、もたらされたのが仏教でした。
仏教は古代インドで釈迦が創始した教えであり、中国起源ではありません。
加えて、東アジアのグローバルスタンダードとして中国でもさかんに信仰されています。
東アジア最大の仏教国になることは、仏教という枠組みにおいて、中国王国以上の存在になることを意味します。
これは、中華思想という枠組みでは周辺諸国にすぎなくとも、仏教の枠組みでは中国王朝を周辺諸国に組み込めることを意味します。
ヤマト政権は、世界の中心となるため、仏教の積極的振興をはかったのです。

須弥山と東大寺大仏
時代がくだって斉明女帝の御代になると、飛鳥の地には盛んに須弥山が作られます。
これは仏教が説く「世界の中心に位置する高い山」のことです。
東大寺に座する大仏は、日本の中心化計画の総仕上げともいうべきものでした。
推進したのは、奈良時代に帝位にあった聖武天皇です。
国家鎮護の法を記した経典「金光明最勝王経」を各地に配った天皇は、次いで「国分寺建立の詔」を出し、国ごとに国分寺と国分尼寺を建立。
さらに「大仏造立の詔」を出すのです。
東大寺大仏の開眼供養は、752年に行われました。
式典には、皇位を娘に譲った聖武上皇、孝謙女帝ほか多数の官人に加えて、1万数千人もの僧が列席しました。
開眼導師を務めたのは、インドの僧・菩提僊那でした。
「仏教伝来後、これほど盛大な儀式はなかった」とは、『続日本紀』中の記述です。 まさに東アジア最大の仏教イベントでした。
このあと大仏は、東北で発見された黄金により、金メッキを施され、金色燦然と輝きつつ、大和の地にあり続けるのです。
仏教を国造りの中核に据えることで、世界の中心になろうとした古代の日本。
東大寺の大仏は、その象徴なのです。