渡来した文化を取捨選択してつくられていった日本人の特性

ヤマト政権にのみ許された前方後円墳

邪馬台国の女王・卑弥呼を盟主とする、広域政治連合が築かれた時代から、推古天皇の御代までを「古墳時代」と呼びます。

この時代は、日本列島各地に古墳が築造されました。方墳、円墳、前方後円墳、帆立貝式古墳。

このうち前方後円墳は、ヤマト政権の首長、もしくは同政権との同盟者のみが築造を許されました。

この政治システムを「前方後円墳体制」と呼んでいます。

日本列島への渡来人たちの流入が始まる

古墳時代からあとの奈良時代に至るまで、日本列島には中国大陸や朝鮮半島から、多数の人々が流入してきました。

彼らを「渡来人」と呼んでいます。

古いところでは、応神天皇の御代に来た弓月君、阿知使主、王仁がいます。

弓月君は秦の始皇帝の子孫とされ、養蚕と機織を伝えました。阿知使主は後漢の霊帝の子孫とされ、政権内で文筆・財政を担当しました。

そして王仁は論語と千字文(書の手本用の漢詩)を携えて渡来し、古代中国の思想家・孔子が創始した儒学を伝えました。

彼らは大陸の知識や技術を伝えると同時に、率いてきた民とともに日本に根を下ろします。

そして、このなかから「秦氏」「漢氏」といった氏族が出て、ヤマト政権で重きをなすようになるのです。

仏教の流入と同時に進んだ大陸文化の導入

時代が下がって、仏教を受容し、仏教を中核とした国造りを推し進めるようになると、海外からの情報の流入量は飛躍的に増加しました。

仏教は、教えのみで成り立っているわけではありません。

教えを広めるためには、寺院や仏像、経典などの道具が必要になります。

仏教は当時、東アジア最先端の思想でした。ですから、寺院建築、経典作成、仏像制作の技術は、先進の技術になります。

仏教の受容は、同時に大陸の進んだ技術の導入でもありました。

それ以外にも、政治システムや風習、習慣などありとあらゆるものが渡来人によってもたらされました。

古代国家形成期の日本は、外来文化の波にさらされ続けていたのです。

古代の日本の文化は、縄文と弥生の伝統の上に、大陸文化がプラスされて成立したと考えることができるでしょう。

もっとも、古代の日本は、先進的な外来文化といえども、すべてを無批判に受け容れたわけではありませんでした。

たとえば、生贄の風習や宦官(男性を去勢して宮廷に入れること)は、採用しませんでした。

都市をめぐる城壁や、皇帝を祀る宗廟も受け入れませんでした。

外来文化の強い刺激を受けつつも、みずからの価値観を保持していたのです。

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