中国の歴史書から消えた「倭国」
邪馬台国の女王・卑弥呼は、『魏志倭人伝』中に、「よく衆を惑わす」とあるため、宗教的カリスマ性を帯びた女性と考えられています。
その卑弥呼が亡くなったあと、邪馬台国は男王を立てましたが、この王には宗教的カリスマ性がなかったため、邪馬台国連合は混乱してしまいます。
そこで、卑弥呼の血筋に属する台与(壱与)を女王に据えて混乱を治めます。
台与は魏王朝を滅ぼした西晋王朝に使者を送りましたが、その頃から中国の歴史書から「倭国」の記述は一時消えました。
中国王朝と倭の五王の関係
その後、中国王朝の歴史書に「倭国」の記述が現れるのは、台与の使者派遣から147年後です。
「倭王・讃」なる人物が、東晋王朝に使者をよこした旨が記されています。
倭王・讃は仁徳天皇、もしくは応神、履中天皇に比定される、ヤマト政権の最高権力者です。
このあと「珍」「済」「興」「武」の四王が使者をよこしたことが、中国の歴史書に記されています。
日本史上にいう「倭の五王」です。
王たちが中国王朝に使者を送ったのは、邪馬台国同様、冊封体制下に入るためです。
ヤマト政権の基盤はまだ弱く、この方法でしか、政権維持の活路はなかったのです。


しかし、王たちも唯々諾々と、中国皇帝の威光を借りていたわけではありません。
対外的にみずからの意志を示すモニュメントを築いていました。それが巨大古墳です。

古墳をつくることで東アジアに存在をアピールする
5世紀に入ると、外交の玄関口たる大阪湾を臨む場所に、巨大古墳群が造営されます。
2019年に大阪府初の世界遺産として登録された、百舌鳥古墳群と古市古墳群です。
古墳群の中で倭の五王と関係があるのは、大仙陵古墳(仁徳天皇陵・墳丘長525メートル)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵・365メートル)、土師ニサンザイ古墳(反正天皇陵墓参考地・300メートル)、市ノ山古墳(允恭天皇陵・230メートル)です。
古墳は現在でこそ、樹木がうっそうと生い茂っていますが、造られた当初は石で葺かれており、陽光を浴びて燦々と輝いていました。
はるばる大陸からやってきて、大阪湾からこれを望見した外国使節の驚きは、想像するに余りあります。
同時に、これだけの大工事に民を使役できる、王権の強大さにも舌を巻いたことでしょう。
大阪湾を望む河内平野の巨大古墳は、倭国の威信を対外的に発信する目的で築造されました。
これは倭王が、東アジア地域で存在し続けることの決意表明であると同時に、プライドの発露だったのです。