世界にデビューした日本

ゆるやかな血と文化の融合

渡来系弥生人の流入により日本列島は、縄文時代から弥生時代へと移行し、文化も弥生文化が主体となりました。

弥生文化といえば水稲耕作や金属器(青銅器)などを想像しますが、これらすべてが大陸由来と限ったものではありません。

弥生文化の多くは縄文文化と融合して生み出されました。

弥生時代中期の安徳台遺跡(福岡県那珂川市)から検出された渡来系弥生人の人骨をDNA鑑定したところ、遺伝的特徴は縄文人に近かったそうです。

緩やかに混血が進むなか、縄文文化が大陸文化を取り込むかたちで、弥生文化が形成されたと思われます。

中国の歴史書に記された弥生時代の日本

弥生時代の日本の状況は、中国の歴史書で語られています。『漢書』地理志には次のようにあります。

「楽浪付近の海に倭人はおり、100ばかりの国に分かれている。倭人はしばしば我が国に来て、皇帝にお目通りを願う」

皇帝に目通りを願ったのは、中国王朝の冊封体制下に入るためでした。

中国皇帝に巨従の礼をとることにより、王権の正統性を権威づけてもらうためです。

国々が分立し、ドングリの背比べをしているような状況下で、国としての基礎を強化し他の国より一歩先んじるには、傑出した権力と結びつくのが確実な道でした。

このため国々の王たちは中国の皇帝に使者を送ったのです。

『後漢書』東夷伝には次のように記されています。

「57(建武中元2)年、倭の奴国の使者が貢物を携えて、我が国に朝貢した。使者は大王の使いと名乗った。奴国は倭国の最南端にあるという。光武帝(後漢王朝初代皇帝)は、奴国王に印綬を与えた」

光武帝が奴国王に与えた印綬が、有名な「漢倭奴国王」の金印です。

光武帝が与えた「漢倭奴国王」の金印

倭国大乱と卑弥呼の登場

『後漢書』東夷伝には、次のような記述も見られます。

「恒霊のあいだ(後漢王朝の桓帝と霊帝の時代のこと。147年〜188年頃に当たる)倭国大いに乱れ、さらに攻めあって、歴代主がいない状態である」

これが古代史上の大事件、「倭国大乱」です。

この動乱が起こったのは、気候の寒冷化にともなって生活の維持が困難になり、社会が混乱したためです。

水稲耕作が普及して、各国が底力をつけていたことも、混乱を大きくする要因となりました。

この状況は約半世紀も続いたため、首長たちはさすがに「まずい」と思ったらしく、事態の収拾に向けて動きます。

結果、彼らは広域政治連合のもとにまとまることになります。

邪馬台国の女王・卑弥呼を盟主とする「邪馬台国連合」はそのうちのひとつでした。

弥生時代になって日本は初めて、中国の歴史書に記されるようになりました。

この頃の国際社会といえば、中国王朝を中心とした東アジア社会でした。

弥生時代は日本人が、国際社会にデビューした時代となります。

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