始皇帝の圧政から逃れる人々に手を貸した縄文人たち

秦の始皇帝による中国の統一

紀元前221年、秦が中国大陸を統一し、春秋戦国時代の動乱が終結しました。

ここにおいて秦王・政は、「皇帝」という称号を採用し、秦帝国の始皇帝となりました。

始皇帝は、政権批判をする儒学者を穴埋めにし、言論・思想を統制するなどしました。これを「焚書坑儒」と呼びます。

始皇帝はそのほかにも急激な改革と、法治主義を徹底しました。

それまでにない強圧的な政治に、人々は反感を募らせました。

また、たび重なる遠征や、大土木工事により、民衆の負担は計り知れないものとなりました。

始皇帝が行った焚書坑儒。左下では本が焼かれ、右下では学者が埋められている

始皇帝から逃れる人々に手を貸した縄文人たち

この圧政から逃れたい人々に、救いの手を差し伸べたのが、西日本にいる縄文人たちでした。

東アジアの海を行きかい、中国大陸と交易をしていた海の商人たちは、激動に戸惑う大陸の人々が平和な地への移住を欲していることを敏感に感じとります。

大陸の人々は、自発的に、あるいは誘われて、縄文人たちの船に乗り、日本へと上陸しました。

縄文人たちが大陸の人々を招き入れたのは、気候の寒冷化にともなって従来の生活が維持できなくなり、人口が激減していたためです。

停滞し始めていた縄文社会に活力を取り戻すには、大陸からの移住者を募るしかなかったのです。

これが大陸からの移住者流入の第一波となりました。

縄文人と大陸の人々は、混血するなどして次第に融合し、ここに弥生時代が始まります。

大陸の水稲耕作も驚くほどのスピードで普及し、新しい食料獲得システムを得たことで、日本列島の社会は再び活性化されていくのです。

古代中国の歴史家・司馬遷の著した『史記』の「秦皇帝本紀」に、次のようなエピソードがあります。

ー始皇帝が不老不死の薬を欲していることを知った方士(方術を使う宗教者)徐福は「東の蓬莱島に不老不死の仙薬がある」と売り込んで、始皇帝から巨額の資金を引き出し、多数の若い男女を連れて船出した。

平原広沢を得てその地の王となり、二度と帰らなかったー

有名な徐福伝説です。

日本の佐賀県や和歌山県には徐福上陸の伝承が残されています。

徐福の実在や日本上陸を証明することは困難です。

しかし、伝説の背景を考えることは可能でしょう。

『史記』の記述からは、始皇帝の圧政を逃れて、新天地に旅立つ人々の姿が垣間見えます。