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縄文時代の始まり
2万年前に地球の気候が温暖化し始め、両極の氷が溶けて海進が始まり、日本列島はユーラシア大陸と切り離されました。
列島内では植生の変化が進み、変化に適応できない大型草食動物は絶滅しました。 そして、シカやイノシシなど、小さくて動きの素早い小動物が山野を駆け巡り始めます。
列島内に住んでいた人々もこの環境に適応すべく、試行錯誤を繰り返しました。
その結果、土器を製造して採取した植物を貯蔵・調理し、原始的農耕を営み、小動物を狩ることができ、海の幸を得られる集団が生き残りました。
これらの人々が担った時代を、使われた土器の縄目文様をとって「縄文時代」と呼んでいます。
亀ヶ岡遺跡の渡来物からわかること

青森県つがる市にある「亀ヶ岡遺跡」は、縄文時代晩期の集落跡です。
ここにはかつて「亀ヶ岡文化」とも呼ぶべき、独特な文化が栄えていました。
この遺跡から出土し、現在は東京国立博物館に所蔵される「遮光器土偶」は、亀ヶ岡文化の独自性を物語っています。
この遺跡からは、大陸から渡来したガラス製の小玉も見つかっています。
このような品が本格的に日本に伝わるのは弥生時代に入ってからですから、亀ヶ岡の縄文人は、それより早くに手に入れていたのです。
南方と北方の文化が混在していた古代の日本
じつは縄文人たちは、当時から卓越した航海術を駆使して、盛んに海外と交流することで、文化的な影響を受けてきました。
もっとも大きな影響を受けたのは、中国大陸南方、長江下流域に繁栄した長江文明です。
日本で縄文文化が栄えていた頃、長江文明では玉器の精工な加工が行われていました。この影響を受けて、縄文時代の日本で行われたのが、ヒスイの加工です。
ヒスイの産地は日本列島内に複数ありますが、宝石加工に堪えうる美しさを持つのは、糸魚川流域で採れるものだけでした。
しかしこの糸魚川流域産のヒスイが、北は北海道から、南は九州の縄文遺跡までの広範囲で見つかっています。

日本の各地域には交流があり、交易を通じて文化的な交流を行なっていたことがうかがえます。
そのほかにも、けつ状耳飾りなど、長江文明由来の遺物が縄文遺跡から出土しています。縄文文化がいかに長江文明の影響を受けていたかがうかがえます。
また一方では、北方からの影響も無視することはできません。
たとえば、深鉢型の縄文土器が挙げられます。
底が深いのは保温の良さと、加熱のしやすさに由来するもので、寒冷地にふさわしい土器の形式です。
半地下構造の竪穴式住居も、寒冷地特有のものであり、縄文文化が北方の影響を受けていることを示しています。
また、青森県の三内丸山遺跡や石川県のチカモリ遺跡から見つかった巨大掘立柱遺構は、北方特有の巨木信仰との関連性が指摘されています。
具体的にいえば、トーテムポールの類です。これらも南方文化と北方文化の交流があったことを示しています。

神話にも見られる南方文化の影響
日本の記紀神話に、東南アジアやポリネシアの神話の影響が見られるのは、多くの神話学者が指摘していることです。
たとえば、「古事記」には次のような話があります。
ー天上世界から下ったニニギノミコトは、美しいコノハナノサクヤビメとの結婚は承諾した。
しかし、姉のイワナガヒメは容姿が醜いことを理由に結婚を拒んだ。
姉妹の父オオヤマツミノカミは激怒し、「イワナガヒメを受け取ればお前たちの生命は岩の如く永らえたが、コノハナノサクヤビメだけを受け取ったため、天孫の命も散る花のようにいつか潰える」と宣告したー
このタイプの話は神話学上「バナナ型」と呼ばれる死の起源神話で、ポリネシアやメラネシアなどの南洋世界に幅広く分布しています。
南洋世界の死の起源神話と同じ類型がなぜ、日本の記紀神話に見られるのか?
西日本の縄文人が、海外との交易を通じて日本にもたらした可能性が考えられます。
いずれにしても縄文文化は、海外の異質な文明を融合させることで成立していました。
日本人の特性として、さまざまな文化・宗教を受けいれ取捨選択し、融合させるという点が指摘されますが、これらはすでに縄文時代に萌芽していたようです。