解説
抽象度の高い情報空間で強い臨場感を維持するためのトレーニングとして、言語化された物語を使う方法があります。
物語には、古今東西の文学作品のほか、宗教の教典も含まれます。 仏教のさまざまなお教やキリスト教の聖書、イスラム教のコーランなどです。
物語を使った瞑想は、抽象度を上げたときにも強い臨場感を維持しやすいというメリットがあります。
言語によって描かれたストーリーを読むことで、そのストーリーを実際に体験したかのように、同じ効果を脳に与えることができるからです。
また、言語化されているため繰り返し読むことができるので、脳内で何度でも同じ体験を繰り返し、瞑想空間の臨場感を強化していくことができます。
注意しなければならないことは、どのような物語でも臨場感のトレーニングに使えるわけではないということです。
瞑想に適した物語と適してない物語があるのです。瞑想に適した物語の条件は、「他人が作った抽象度の高い情報空間であること」です。
そもそも自分で作った物語では瞑想はできません。自分の作った物語で自分勝手なイメージをいじくりまわすのは、ただの妄想です。
音楽を例にとるとわかりやすいかもしれません。どんな前衛的なことをやる音楽家も、大前提として音楽の基本ルールである楽曲を学ぶ必要があります。
楽曲を学び、音楽の世界の基本的な方法論を理解してはじめて、そのルールを超える前衛を表現できるのです。
自分勝手に音を鳴らしているだけでは、ただの音の連なり、もしくはノイズであり、そもそも音楽にはなりえません。
さらに、「他人が作った」物語のなかでも、「抽象度の高い」ものを選ばなければなりません。
抽象度の低い物語で他人の情報空間を共有してコントロールできるようになっても、瞑想のトレーニングとしてはあまり意味がないのです。
ワーク
お経は釈迦が説いた教えを記録した、あるいはそれを元にしたテキストで、さまざまなお経が現在まで伝わっています。
サンプルとして「般若心経」の一節を使って、情報空間で強い臨場感を維持するための方法をお教えします。「般若心経」は、空の思想を説くものです。
ところで、お経を読むとき、ただ単に「南無阿弥陀仏」などと唱えればいいと思っている人が大勢いますが、それでは瞑想になりません。
一つ一つの言葉、さらには物語全体に、どのような情報(書き手のメッセージ)が込められているのかを、強い臨場感をもって認識できてこそお経瞑想は意味をもちます。
では、どうすればお経に描かれた情報空間を強い臨場感をもって認識できるのでしょうか。手順は次のようになります。
- まずは、一つ一つの言葉の意味や、言葉のなかに描かれている世界を瞑想します。
- 一つ一つの言葉のイメージができたら、複数の言葉のイメージをつなげて統合します。つなげて統合することで、一つ上の抽象度のイメージを作ることができます。
- イメージの統合を繰り返して、抽象度の階級を一段一段のぼっていきます。最終的にお経に描かれている世界全体が、統合された一つのイメージとして瞑想できるまで繰り返します。
それでは、実際に「般若心経」の冒頭の一節を使って説明しましょう。
「般若心経」の冒頭は以下のとおりです。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」
では、一つ目の文節の意味を見ていきましょう。
「観自在菩薩」
「観」と「自」と「在」と「菩薩」という一語一語のイメージを作っていきます。
「自在」とは、荒了寛大僧正によると、「自分の在るところ」「自由自在」という二つの意味があります。
だから「観自在」は「自分のいるところを見なさい」と「自由自在に見なさい」ということです。
「菩薩」は「悟りに向かって修行中の人」という意味で、自らの悟りと人々の救済のために働くことを同じレベルで実践した人のことです。
観自在菩薩は、止観瞑想に秀でた菩薩だったのでしょう。
観自在菩薩をイメージしながら、先入観、既成概念、知識による思い込みなどをすべて捨て去り、自分自身とその周囲を見つめることが、「般若心経瞑想」のスタートです。
般若心経瞑想を実践すると、止観瞑想に秀でた菩薩が、深い縁起の瞑想に成功して、人間のすべての営みが空であることを見極めたというイメージが、あなたの頭のなかにでき上がってくると思います。
そのときの菩薩の気持ちはどうだったのか? どのようなことを感じて、何を思ったのか? 空を見極めるとはどのような体感なのか? 具体的に自分の体感を使いながら、細かく瞑想してください。
個々の言葉の臨場感を維持したまま、個々の言葉のイメージを統合していくことで、強い臨場感を維持しながら抽象度の階段を上がっていくことができ、最終的に抽象度の高いお経の世界全体を、強い臨場感で瞑想できるようになります。
ちなみに、お経瞑想をするとき、もし言語だけではうまく臨場感を強めることができないならば、「仏像」「曼荼羅」などの道具を使ってみる手もあります。
仏教には、「仏像」や「曼荼羅」をはじめ、さまざまな道具があります。これらはすべて瞑想するために、つまりお経に描かれた情報空間に強い臨場感をもつために発明された道具です。
たとえば曼荼羅は、お経の世界を絵というビジュアルで描くことで、臨場感を強めようとしたものです。
描かれている絵には一つ一つストーリーがあります。その絵を手がかりに仏や菩薩のストーリーを強い臨場感をもって瞑想していくことが、曼荼羅を使った瞑想法です。
仏像も同じです。目の前に仏や菩薩の姿をかたどった立体的な像があることで、仏や菩薩の存在を強い臨場感をもって瞑想することができます。
また、金剛杵やシンギングボウルなど密教系の法具類も、臨場感を強める道具、心を制御する道具として使うことができます。
お経瞑想で大切なことはお経の世界を強い臨場感をもって瞑想することです。
華厳経瞑想は強烈なアファメーションにもなる
どのお経でも瞑想はできますが、もっともおすすめしたいのが「華厳経」です。
「華厳経」といわれてもいまいちピンとこない人は、有名な奈良の大仏を思い出してください。
この大仏は、正式名を「毘盧遮那仏」といい、実は「華厳経」の世界をあらわす仏なのです。
「華厳経」は、三世紀ごろに中央アジア(西域)でまとめられ、その後日本にも伝来しました。
奈良時代には華厳宗が成立し、奈良の大仏がある東大寺は華厳宗の総本山として今日まで栄えています。
数ある仏教経典のなかでも「華厳経」は、大乗仏教の深い哲学思想を述べたものとして有名で、菩薩行の実践を強調しています。
「華厳経」の内容をひと言で言い表すのは難しいですが、最大の特徴は描いている世界のスケールのデカさです。
時間と空間を超越したものすごく壮大な宇宙サイズの物語は、読んでいると銀河系のすべてのものがまるで豆粒のように感じられます。
科学では宇宙が誕生して一三六億年としていますが、その年月が一瞬のように感じられます。
壮大さ、スケールのデカさでいえば、古今東西のどんな宗教の経典もかなわないでしょう。
「華厳経」が壮大な物語のなかで説いているのは、「事事無礙」「法界縁起」の思想です。
事事無礙の「事」とは現象もしくは現象界の事物、「無礙」とは物質的に場所を占有しないことです。
つまり、「物事は一つ一つお互いに異なって排除しあうのではなく、溶け合ってとどこおるところがない」という意味です。
法界縁起とは、個別的に見える事象と事象は、けっして無関係ではなく、真理の世界(=法界)では相互に依存して助け合いながら存在しているということを意味しています。
「華厳経」を読めば、あなたという一人の個体がこの宇宙のすべてと無限の相互関係のなかにあることがわかります。
こうした壮大な華厳の世界観を「重重無尽」ともいいます。
無限に重なりあう世界は、いうなれば「たくさんのミラーボールの世界」です。
一個の存在は全面反射のミラーボールであり、お互いがお互いの球を映しあっています。
一つのミラーボールに宇宙のすべてが映り込み、その映り込んだミラーボールがほかのミラーボールにも映って……とすべての存在がつながりあいながら、果てしなくはるか彼方まで広がっている世界が、華厳の世界なのです。
より壮大で抽象度の高い物語のほうが、瞑想のトレーニングには効果的です。その観点からいえば、数あるお経のなかで「華厳経」が最適なのです。
「華厳経」をすすめる理由はほかにもあります。華厳経瞑想は強烈なアファメーション(自分に対する肯定的な暗示)になるということです。
「華厳経」の最後の部分に「入法界品」という物語があります。分量的には「華厳経」の大部分を占めています。
話の内容は、善財童子という少年が五三人の人々を訪ねて、悟りの道を追求するというものです。
五三人のなかには、文殊菩薩や観世音菩薩、弥勒菩薩などのすぐれた菩薩もいれば、釈迦の弟子たち、修行僧や尼僧、少年少女、医師、長者、金持ち、商人、黄金工、船を操る人、仙人、バラモン、国王、隷民、遊女など、さまざまな階級、職業の人々が登場します。
善財童子はその一人ひとりに、「仏の世界とはこういうところ」という話を聞いて回るのです。
たとえば、二五番目に会った尼僧は善財童子にこう語りかけます。
「ここから南方に行くと険難という国があります。その国の宝荘厳という都市に、ヴァスミトゥラーという名前の一人の女人がいるから、彼女のところに行って教えを聞いておいで」
そこで善財童子はその女人を訪ねます。その女人は見事な美しい姿かたちをしていました。
善財童子はその女人にこう問いかけます。 「私は悟りに向かう心を起こしたけれども、どのように実践したらいいのかわかりません。どうすればいいのか教えてください」
すると、女人は「私はすでに「離欲実際」という教えを見に受けて完成しています」と言い、離欲実際のための方法を語りはじめます。
ちなみに「離欲」とは欲を離れること、「実際」は究極の真実という意味です。
このように善財童子は、まるでロールプレイングゲームのように、五三人を訪ね歩き、一つ一つ教えを受けていきます。
「入法界品」は、仏の世界、悟りの世界に入るためのプロセスを描いている物語です。
十法界でいうところの菩薩の世界、仏陀の世界のことです。
餓鬼や畜生といった下のほうの世界についてはほとんど語っていません。抽象度の高い世界を徹底して描いています。
瞑想力を獲得するためには、高い自己イメージをもつことが重要です。
エフィカシー(自分の能力に対する自己評価)が低いまま瞑想をしても、抽象度の高い情報場を臨場感をもって操作することはできません。
その点でも、「入法界品」は、理想的なセルフコーチングになります。
「入法界品」を読む人は、善財童子が悟りの世界に近づいていくプロセスを臨場感をもって瞑想することで、善財童子と同じ教えを五三人の人々から受けることができます。 その教えは、菩薩や仏陀レベルの教えです。
「入法界品」を読み、強い臨場感をもって瞑想することが、「自分は菩薩や仏陀と同じである」という強烈なアファメーションになります。
