目次
解説
まず最初に「あるともいえるし、ないともいえる」という世界観が、どういうものかを認識していただくための瞑想トレーニングを行います。
その前に、ある一本の木にまつわる短いストーリーをお話しします。
今、あなたの目の前に、一本の木があります。
その木から種が地面に落ちました。種からは芽が出て、大空に向かって幹が太く大きく育ち、枝が伸び、葉を茂らせて、やがて立派な一本の木に成長しました。
一方、種を落とした木は、年月が経つにつれて、幹がもろくなり、強い風雨にさらされて枝や葉を落とし、ある日根元から折れてしまいました。
枯れ倒れた幹はコケに覆われ、微生物によって分解され、やがて森と一体化して消えてしまいました。
さて、種から生まれた新しい木は、この世界に新たに生じたものでしょうか?
……違いますよね。前の古い木が落とした種から生じているのですから、もともとあったのです。
では、枯れて目の前から消えてしまった古い木はなくなったのでしょうか?
……これも違いますよね。たしかに古い木は目の前からなくなりましたが、古い木から落ちた種が新しい木として育っているのですから、古い木もあるのです。
新しい木も古い木もともに「あるともいえるし、ないともいえる存在」です。
「あるともいえるし、ないともいえる存在」として、種から生まれた新しい木と、枯れ果てて消えてしまった古い木の両方が、時空を超えて存在しているのです。
さらにいえば、「ある」というのは機能が連続していることです。 物理的な連続性はその一部に過ぎません。
ワーク
それでは、今度はあなた自身について考えてみます。
ある日、あなたはこの世に生をうけました。
あなたは多くの人に育まれながら順調に成長し、大人になりました。
そして、出会いと別れを繰り返し、やがて年を取り、病気になって息を引き取りました。
さて、あなたが誕生したとき、あなたは何もないところから、新たに生じたのでしょうか?
あなたが老いて死んだあと、あなたはなくなったのでしょうか?
自分が生まれてから死ぬまでを、脳内でビジュアル化しながら瞑想してください。

どんな存在にでもなろう 「三法界瞑想」
解説
自分の心を制御して、自分が何にでもなれることを知り、その上でなりたい自分になるための瞑想法をお教えします。
はじめに一つ、たとえ話をしましょう。
ある凶悪か犯罪を犯した人がいます。テレビや新聞は彼の周辺を取材し、近所の人にコメントをもらいます。
近所の人は犯人について、 「すごく優しい人だったのに、あんなひどい犯罪を犯すなんて…」 「家族と一緒にいるときはすごく穏やかそうな人でした…」 などといかにも「意外だ」といったコメントをします。
さて、このような犯罪行為と矛盾するかのようなコメントを聞いたとき、あなたは犯人についてこう考えるはずです。
「『凶悪な犯罪を犯した彼』が彼の本性なのか、それとも『優しく穏やかだった彼』が本性なのか?」と。
しかし、実はこうした問いかけ自体がナンセンスなのです。
なぜなら、優しさも凶悪性も、どちらもその人自身だからです。
人は誰もがナートマンです。その人がそのつど何を選んだかが、その人のあり方を決めているのです。
その選択の結果、あるときは「優しい人」になり、あるときは「凶悪な犯罪者」になってしまうだけなのです。
「一人の人間の心に相反するすべての人間性があり、心が何を選んだかによってその人の存在や生き方が決まる」という人間に対する見方は、仏教の「六道」や「十法界」という言葉に表れています。
六道とは天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界のことで、この六道の上に声聞、縁覚、菩薩、仏の四界を加えたものが十法界です。
六道や十法界はどちらもナートマン瞑想の方法論です。
十法界瞑想では、瞑想空間のなかで餓鬼になった自分、人間になった自分、菩薩になった自分、仏陀になった自分などを瞑想しながら、
自分のなかには餓鬼もいれば、仏陀もいること 自分のなかにあらゆる可能性が存在していること その可能性のなかから、自分が「何を選ぶか」によって、自分という存在が決まること
をしっかりと認識し、最終的に「じゃあ、自分は◯◯を選ぼう」と、なりたい自分を自分の心 (自分の意志) で選びます。
つまり六道瞑想や十法界瞑想をすることで、「自分という存在はあるけれど、永遠不変の自分が存在しているわけではなく、変化し流転するものとしてある」というナートマンの考え方を体感的に理解することができるのです。
実際、釈迦も六道瞑想や十法界瞑想をしながら、餓鬼になったり、人間になったり、仏陀になったりしていたはずです。
釈迦は自分の心に餓鬼も、修羅も、畜生も、人間も、仏陀も、すべていることを理解していました。
その上で、教えを説く相手に合わせて、自分の心を変えていたのです。これが釈迦の「対機説法」です。
あなたのなかにも釈迦と同じように、ありとあらゆる可能性が詰まっています。
あとは、あなた自身がどの自分を選ぶかの問題です。
餓鬼を選ぶこともできますし、人間を選ぶこともできます。仏陀になることだってできるのです。
本当ならば十法界瞑想や六道瞑想をしていただくのが理想ですが、いきなり10の自分を瞑想するのも大変でしょうし、現代人にとっては「餓鬼」「畜生」「声聞」「縁覚」といわれても、それがどういう存在なのかわからないので瞑想しづらいと思います。
ですから、十法界瞑想をアレンジした「三法界瞑想」をやってみてください。
ワーク
「三法界瞑想」とは三つの世界を瞑想しましょうということです。
この三つの世界は何でもいいのですが、ここでは瞑想しやすいように「貧乏人の自分」と「お金持ちの自分」と「仏陀になった自分」とします。
ステップ1 「貧乏人の自分」を瞑想する
ここでは、預金残高が10分の1になった生活をイメージします。 これからどんな生活をすることになるのかを瞑想してください。
たとえば、「当面の生活費をかせぐために、いくつかの仕事に就き、必死で働く自分」 「日々の生活費を工面するために、サラ金でお金を借りる自分」 「愛想を尽かされて妻(夫)に出ていかれる自分」 「お金欲しさに窃盗や強盗などの犯罪に手を染める自分」 「公園のベンチに寝泊まりしているところを知人に見られてしまった自分」
お金が次第になくなり、ついには尽きたとしたら、自分はどうなるのか。何を考えて、どのように行動するのか、徹底的に瞑想してください。
ステップ2 「お金持ちの自分」を瞑想する
ここでは、預金残高が100倍、1000倍になった生活をイメージします。
今あなたの預金口座には数十億円、数百億円、数千億円のお金があります。あなたはどのように生活しますか。
たとえば、「仕事を辞めて、資産運用で不労所得を得ようとする自分」 「車や家など欲しいものを買い、食べたいものを食べ、世界中を旅して、放蕩三昧の生活をする自分」 「世界中の恵まれない人々のために全額寄付したいと考える自分」
お金持ちになった自分を、そしてお金持ちになったことで自分が何を考え、どのように行動するかを、強い臨場感で徹底的に瞑想してください。
ステップ3 「仏陀になった自分」を瞑想する
三つ目の「仏陀になった自分」は、これまでの二つよりも抽象度が高く、金額そのものをまったく気にしません。
「仏陀」といわれると難しそうですが、実はこれがいちばん簡単です。
数字をまったく気にしない人ですから、預金通帳のゼロが増えようが「それが何?」と思い、ゼロが減ろうが「それが何?」と考えます。
そして、預金通帳の金額が多いか少ないかにかかわらず、自分がどんな生活を送りたいかを考えて、そのとおりの生活をします。
今、あなたはどのような生活を送りたいですか?まずは自分の心を決めてください。
ここまでのステップ1、2では、預金残高の多寡に合わせて自分の行動を決めていたはずです。
ところが、自分で「お金を気にしない」と決めれば、実際まったく気にならず、自由気ままに好きなことができます。
もちろんお金がなければできないことはありますが、できないことに不満や苛立ちを感じることはなく、「だったら、自分のやりたいことのなかで、できることをやろう」と気軽に思えます。
また、自分のやりたいことをやってみたら、意外にお金がかからなかった場合などは、「自分にお金なんて別に必要ない」と気づくことができたり、「余ったお金は寄付しよう」と今まで考えもしなかった”やりたいこと”が見つかったりします。
お金に束縛されない、自由な感覚を感じることができるはずです。
以上が三法界瞑想です。
三法界のそれぞれの自分に対して臨場感が強まれば強まるほど、「瞑想した自分」が「現実の自分」であるかのようなリアリティを感じるはずです。
お金にまつわるさまざまな欲望に駆られるあなたも、どんな状況でも他人のことを思いやることができるあなたも、お金なんて関係なく自由気ままに生きるあなたも、すべてあなた自身なのです。
「自分はこんな人間だ」「自分を変えることはできない」と思い込んでいるのは、自我にとらわれている証拠です。
どんな状況でもけっして変わることのない永遠不変の自我があるのではなく、まわりの状況があなたという人間のあり方を絶対的に規定しているわけでもありません。
あなたという人間を形作っているのは、「あなたの心」です。
あなたのまわりにはさまざまな人やさまざまなもの、さまざまな事象やさまざまな出来事が存在しています。
それらとあなたとの間には深い関係性があります。あとは、その関係性に対して、あなた自身がどう振る舞うか。
言い換えれば、あなたの心がその関係性をどう「見る(認識する)」のか。
そのことが結果的に「あなた」という人間を決定します。
未来永劫変わらない自分はありません。
「自分」を決めるのはあなた自身の心であり、あなたは自分の心のあり方を自由自在にコントロールすることができます。
いうなれば、あなたはあらゆる可能性をもつ存在であり、なりたい自分に自由になることができるのです。
