自分を定義するものは、名前、家族関係、出身地や現在住んでいる場所、通っている学校や会社、職種、趣味、特技、性格など、さまざまな要素があるはずです。
「私の名前は、山田太郎です」 「私には両親と兄・姉がいます」「私は○○大学出身です」 「私は△△銀行に勤めています」 「私は渋谷区に住んでいます」 「私はジョギングが趣味です」 「私はお酒が苦手です」 「私は明るくポジティブな性格です」などでしょうか。
これらの定義はすべて、「自分」と「自分以外の存在(まわりの人、組織、物体、事象など)」との関係性を述べているだけです。
あなたの心が、まわりの世界との関係性のなかで「これが私」と認識している情報が、「あなたという情報場」を形成し、その情報場に臨場感をもつことが、物理空間であなたという人間を生み出しています。
つまり、あなたという人間の存在を正しく見ると、あなたも情報の因果関係によって物理空間に現れた「一つの写像」であることがわかります。
瞑想によって自分や世界を自由自在にコントロールするとは、物理的存在としての自分や世界を直接的に変えることではありません。
まずは情報空間の場の因果関係に働きかけてコントロールすることで、結果として物理空間にも大きな影響を及ぼすことです。

「正しく見る」とは、前頭前野で情報処理をすること
情報場の因果関係をコントロールするための第一歩は「正しく見る」ことです。
情報空間でどのような情報場が形成され、それぞれがどのような関係性で結ばれ、その結果、物理空間にどのような影響を与えているか。
情報空間の場の因果関係を正しく見ることが大切です。
私たちが正しく見ることができないのは、「自我」が邪魔しているからです。
これは機能脳科学の見地から説明すると、海馬と扁桃体が情報をやりとりするときに前頭前野がきちんと介入できていないということです。
扁桃体はもっぱら生体や種の保存にとって重要かどうかという観点で情報の振り分けを行います。
その指標は「恐怖と愛着」。 つまり、情動(煩悩といってもいいでしょう)によって情報を取捨します。
つまり、私たちは、自分の感情によってスコトーマを生じさせてしまうため「正しく見る」ことがなかなかできないのです。
一方、前頭前野は、抽象度の高い思考を司っています。
海馬と扁桃体のやりとりに、前頭前野が介入すると、抽象度の高い思考によって、感情を制御することができるのです。

仏教も正しく見ることを重視する
仏教でも「正しく見る」ことはとても重視され、「正しく見る」能力をトレーニングするさまざまな瞑想法が開発されています。
上座部仏教では、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という二つの瞑想があります。サマタとはサンスクリット語で「止=煩悩を制御し、心を落ち着けること」を意味します。
ヴィパッサナーとはサンスクリット語で「観」を意味しますので、ヴィパッサナー瞑想は文字どおり「正しく見る瞑想」になります。
止観瞑想をすれば「煩悩を制御し、正しく見る」力をトレーニングすることができるのです。
