人間は自我にとらわれている

人間の脳は「自分が重要だと思うもの」「認識したいと思うもの」しか認識しません。

重要ではないと判断したことは意識から抜け落ちてしまいます。

つまり、あなたが見ている自分や世界は、「あなたが見たいと思っている自分や世界に」に過ぎず、正確ではないのです。

過去の経験によって培われたフィルターを通して自分や世界を見ているため、実は眼前に広がっている可能性の地平を見ることができません。

見ることができなければ、当然自分の無限の可能性を行使することもできません。

仏教に「無明」という言葉があります。無明とは、人間が根本的にもっている無知のことであり、すべての迷いや苦しみも無明から生まれるとされます。

無明から抜け出し、無限の可能性を拓くためには、自我のスコトーマ(心理的盲点)を徹底的にはずせばいいのです。

抽象度

スコトーマをはずすためには、抽象度を上げたい高い視点から正しく見ることが必要です。

抽象度は「情報空間」における視点の高さのことを指します。

私たちが生きているこの世界は情報の世界です。

一人ひとりの脳や心に存在するさまざまな情報によってこの世界は形作られているからです。

人間は自らが獲得した情報を、自らの脳で処理して、事物や現象や世界を認識します。

つまり私たちにとってこの世界は、どこまでいっても情報だけで構築されている「情報空間」なのです。

この情報空間は、私たちが五感でキャッチした情報によって支えられています。

見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったり、味わったりーそうした体験を通じて獲得した情報を脳が処理することによって、認識が生まれているのです。

この五感で体感できる世界のことを「物理空間」と呼びます。物理空間は、物理法則という秩序が働いている世界でもあります。

つまり、無限に広がる情報空間のなかで、一番下の抽象度に位置するのが物理空間です。

私たちは、抽象度が上がれば上がるほど(視点が高くなればなるほど)、スコトーマがはずれ、より広範な情報にアクセスできるようになり、いろいろなことを正しく見ることができるようになります。

なぜ情報を変えると、物理が変わるのかー物理空間と情報空間の関係

物理空間と情報空間の関係性において、これまでは物理空間のほうに情報がついていると考えられてきました。

たとえば、リンゴであればそのリンゴに「赤い皮」「かぐわしい匂い」「手で持てる大きさ」などなどの情報がついていると考えられてきました。

しかし、実際は逆です。

物理空間に情報が付加されているのではなく、情報空間にある「特定の情報場」の写像として、物理空間に物理的実体が存在しているのです。

つまり、私たちが現実に「ある」と思っているものはすべて「情報場の写像」に過ぎません。

「情報場」とは、情報空間における特定の座標を指す言葉です。 情報空間には、人間の認識の数だけ、無数に「情報場」が存在しています。

たとえば、人間に関する情報が集まっている場が「人間の情報場」 犬に関する情報が集まっている場が「犬の情報場」となります。

まず先に情報空間の因果関係があります。その因果関係によって生まれた特定の情報場が、その写像として、低い抽象度である物理空間に現れるのです。

先ほどの例でいえば、「人間の情報場」「犬の情報場」というそれぞれの情報場が、物理空間に物理的存在としての「人間」や「犬」を現出させているのです。

つまり、みなさんが見ているさまざまな事物は、もっと高い情報次元に広がって存在している情報的存在のごく一部、いうなれば足の裏に過ぎません。

目の前の物理世界を見ているだけでは広大な情報空間に広がる世界の姿をとらえることはできないのであり、もっと高い抽象次元の情報空間を認識してはじめて、世界のあり方を知ることができるのです。

足の裏(物理空間にあるごく一部)ではなく、体全体(情報空間に広がる姿)を認識することが、「正しく見る」ということです。