心は脳よりも大きなものか

「心は、体なしに存在できるだろうか?」という疑問の変化形として、「心は、脳よりも大きなものか?」という同じように興味深い問いがある。

科学が発達した今、私たちは脳が心の物理的基盤であることを知っている。

だが、昔からずっとそうだったわけではない。エジプト新王国時代の人々は心臓のほうを好み、脳には大した注意を払っていなかった。

アリストテレスもまたこの考えにならい、心臓に卓越性を見いだしていた。さりとて、脳を完全に無視していたわけでもなかった。彼は「脳のある部分」が、「熱く沸き立つ」心臓を冷やす役割をはたしていると考えた。

彼の師であるプラトンは、魂の三分説において脳の重要性についていくらか触れている。

プラトンは、魂が三つの成分に分割できると考えた。一つ目は頭の中にあり知性と関連している。二つ目は心臓にあってプライドや勇気をもたらし、三つ目は肝臓にあって色欲や強欲など「低次元の欲求」に関わっている。

現代の私たちは心臓よりも脳を明確に支持しているにもかかわらず、ふだん使う言葉の中に、その選択があいまいになっている様子がうかがえる。たとえば、失恋すれば「胸が張り裂けそう」になるし、バレンタインカードには相変わらず、脳ではなく心臓を矢で貫く天使が描かれている。

脳についての言葉はどうだろうか? なにか問題が生じたとき、解決策を探るために多種多様な人々が集まってするのは「ブレインストーミング」だ。また、特に優秀な生徒のことを「リアル・ブレイン」と言うことがある。

つまり、心が生じる場所や存在する場所についての概念は、どちらかがどちらかを完全に置き換えるというわけではなく、共存しているのである。

そしてこれは、すべてにおいてもっとも根源的な問いである、心と体のジレンマにも当てはまる。

はたして、心は脳から離れて存在しているのか?そして、魂はこの話の中のいったいどこにあるのか?

心、魂、体についての混乱の多くは、17世紀のフランス人哲学者ルネ・デカルトに端を発している。 デカルトの哲学的立場は、心が体とは質的に異なるものであるとしている。

デカルトによれば、「体は神の手によって作り出された機械であって、他に類を見ない優れたつくりをしていて、その動きは人間が作り出すあらゆる物よりも見事である」。

しかし、体の反応のほうは典型的な機械とは異なる、と彼は続ける。 なぜならばそこには魂との連係があるからだ。「しかし、神経によって脳から発生した動きというものは、脳と深くつながっている魂、あるいは心にもさまざまな影響を与える」。

この一文は、二つの意味で重要である。まず1点目、デカルトは、解き明かすべき難題が心-体ではなく、心-脳であるということにこの時点で気づいていたということだ。2点目は、この一文でデカルトは魂(神学的概念)と心を同じものとして語っているということだ。

この神学、哲学、科学が絡み合う混沌は現在まで続いている。

デカルトは、心と脳を相互作用しているが明確に異なる二つのプロセスであると論じたことによって、これら二つのまったく異なる実体がどのように相互作用するのかについて説明する必要に迫られた。

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