銀行は何をしているのか?

金属貨幣の誕生と両替商のしくみ

昔は稲や布、貝や塩などがお金の代わりに物々交換の仲立ちとして使われていたが、稲はあまり長持ちしません。

布だって汚れたり破れてしまったりする。貝の場合、大量にとれてしまったらお金があふれてしまうということになります。

そこで、長く保管できて、あまりたくさんとれるものではないものということで金、銀、銅が使われるようになります。

金、銀、銅は、いずれも加工しやすく、溶かして大きさや重さも変えられます。

このようにして、金貨、銀貨、銅貨がお金として使われるようになりました。

世界中どこでも金、銀、銅が尊重されますが、銀や銅は古くなると黒くなったり錆びてきたりしてだんだん汚れてしまいます。しかし、金というのは常にピカピカです。となると金が一番いいということになります。

やがて経済がだんだん発達して商売が広範囲に行われるようになると、金属硬貨でも不便なことが起きるようになります。

それは大量にものを売買する場合、貨幣で支払いをするには金貨を大量に持ち歩かなければならないということです。

江戸と大坂で取引をする場合は、運んでいる途中に奪われてしまうかもしれないという問題が起きます。

金貨をたくさん持ち歩かないで済むようにしたいと考える人も出てきます。そこで登場するのが、「両替商」という人たちです。

まず、金(貨)を両替商に預けます。そうすると、両替商は「預かり証」を出してくれます。

もちろん両替商に預り賃(手数料)を払わなければなりませんが、蔵で金を安全に保管してくれます。

そしてその預り証を両替商に持っていけば、誰でもいつでも金と換えてもらえます。

売買をするときに売り主は大量の金貨を受け取る代わりに預り証を受け取れば済みます。これで心配しながら大量の金貨を持ち歩く必要はなくなります。

次に自分が誰かにお金を払うことになれば、わざわざ預り証を金貨に換えなくても、その預り証をそのまま支払いに使えばいいことになります。

さらにその預り証を誰かがまた別の売買に使うというかたちで、預り証が次々に世の中で出回っていくようになります。

これが紙幣の始まりです。

最初のうちの紙幣、お札というのは、必ず金と交換できるということが条件になっていました。必ず金と交換できるからこそ、お金としての意味があったのです。

両替商から銀行へ

明治に入ると、江戸時代あちこちにあった両替商がやがていくつか集まって、銀行になっていきました。

日本全国にさまざまな銀行ができます。銀行はもともと両替商が合併したものですから、金をたくさん持っています。

そしてそれぞれの銀行が持っている金の量に応じて預り証つまり紙幣を発行していました。

ところが、やがて悪質な銀行も出てきます。 金をたくさん持っていないのに、金があるように見せかけてお札を発行すれば、いくらでもお札を発行できるという悪いことを考えます。

でもやがて人々に気づかれます。ここのところやけにお札がたくさん出回っているけれど、銀行に持っていって本当に金に換えてくれるのだろうか、不安だからいまのうちに金に換えておこうと、悪質な銀行が出しているお札を金に換えたいという人がどんどん増える。

そうなると、ずるをして持っている金以上のお札を発行していた銀行は困ります。

最初のうちは応じられても、金庫から金はどんどん減り、やがてお札を金に換えることができなくなります。そういう銀行はやがて潰れてしまいます。

こうなると、取り付け騒ぎというのが始まります。ある特定の銀行にお客が殺到する。

それを見ていたほかの銀行のお客も不安になり、あちこちの銀行でお客が殺到し、いわゆる金融不安が広がります。

中央銀行の誕生と金本位制度

これはいけない、やっぱり国全体での信用が必要だから、お札を発行できる銀行は1つだけにしよう、ということでできたのが中央銀行です。

お札を発行することができる、いちばん大事な銀行を中央銀行と言います。日本は日本銀行、アメリカはFRB=連邦準備銀行、中国は中国人民銀行。世界各国、それぞれの中央銀行がお札を発行しています。

日本銀行で発行された昔のお金である日本銀行券には「此券引換ニ金貨拾圓相渡可申候也(このけんひきかえにきんかじゅうえんあいわたすべくもうしそうろうなり)」と書いてあります。

この拾圓と書いた券を日本銀行に持っていけば、10円の金貨と交換してあげますよ、というふうに書いてあります。

こういうお金のことを「兌換券」と言います。お札にも兌換券と書いてあります。

このように、金を基にしてお札が発行され、そのお札を持っていけばいつでも金と換えることができる制度のことを「金本位制度」と言います。

日本は「金本位制度」になる前に銀も使っていたことがあり、「銀本位制度」というのもありました。

「金本位制度」と「銀本位制度」が時代によって使い分けられていたり、国によっては両方が使われていたりしましたが、やがて世界各地が「金本位制度」で統一されます。

金本位制度の終わり

ところが、やがて経済が発展してくると、金本位制度では問題が起きてきました。

経済活動が活発になると、それだけたくさんのお札が必要になります。

金本位制度は、銀行が持っている金の量に応じてお札を発行するというやり方ですから、日本銀行の持っている金の量しかお札が発行できない、これでは経済が発展しないということになってきます。

経済が発展していくうえで、もう金の量に関係なくお札を発行できるようにしようということになり、やがてお札の発行は金から切り離されます。

日本は1932年(昭和7年)についに金本位制度いわゆる兌換制度ではなくなります。それがいまのお金です。

現在使われている1万円には、どこにも金と換えてあげますとは書いてありません。日本銀行券としか書いていません。

日本銀行が発行した券という、ただの紙でしかないのです。しかし、私たちはこれをお金だと思っています。

もともとは物々交換のために貝や布を使っていた。やがて金を使うようになった。それはみんなが金をお金として認めていたからです。

やがて両替商が出てきて預り証を出すようになった。紙の預り証は金と換えられるとみんなが信頼していたから、お札として機能していた。

銀行ができて、お札が発行されるようになった。しかし、時代が移り金と換えてもらうことができなくなって、単なる紙になった。

しかし、みんながこれはお金なんだ、というふうに共同幻想を抱くようになっているから、これがお金として通用しています。

つまり日本の政府の信頼があるからこそ、お札として使われているということになります。

哲学の誕生

BC5世紀前後、世界に数多くの考える人が登場してきました。そして今日まで残るようなさまざまな思考の原点が、草木が一斉に芽吹くように誕生しました。

この時代を、20世紀のドイツの哲学者カール・ヤスパース(1883〜1969)は「枢軸の時代」と呼びました。世界規模で“知の爆発”が生じました。

BC5世紀前後には、鉄器がほぼ世界中に普及していました。そこに地球の温暖化が始まります。鉄製の農機具と温暖な太陽の恵みを受けて、農作物の生産力が急上昇します。   その結果、余剰作物が大量に生産されて、豊かな人と貧しい人の格差が拡大しました。

財産にゆとりのできたお金持ちは、自分は働かず、使用人に農作業をやらせるようになります。

それと同時に、中国では“食客”と呼びましたが、お金持ちの家では、ある種の人々を何も仕事をさせず、食事を与えて遊ばせておくようになります。笛をたくみに吹く人や、星の動きに詳しい人、要するに現代の芸術家や学者のような人たちです。

社会全体が貧しければ、みんな農作業で手一杯です。歌う時間も夜空を見つめる余裕も生まれないし、人生について考えているひまもありません。生産力が向上し、有産階級が生まれたことで知識人や芸術家が登場してきたのです。そしてその過程で知の爆発が起こったのです。それはギリシャで始まり、ほぼ時を同じくしてインドや中国でも知が爆発しました。

哲学の祖タレスと自然哲学者が考えた「アルケー」とは

ギリシャでは、BC9世紀からBC7世紀にかけて、偉大な叙事詩人であったホメロスやヘシオドスが、ギリシャ神話を体系づけて『イリアス』や『オデュッセイア』、そして『神統記』を記しました。

それらの内容は、エーゲ文明の諸神話を融合させながら完成させたものです。こうしてギリシャ神話の世界が生まれました。

この時代の人々は、世界は神がつくったものだと固く信じていました。この時代を「ミュトスmythos(神話・伝説)の時代」と呼んでいます。

ミュトスの時代を経て、枢軸の時代に登場してきた学者たちは、まさか世界を神様がつくったはずはないだろうと考え始めます。

「何か世界の根源があるはずだ。それは何だろう」そのことをミュトスではなく、自分たちの論理で、すなわちロゴスlogos(言葉)で考え始めたのです。

そして、その「万物の根源」となるものをアルケーarcheと呼びました。ミュトスではなくロゴスによってアルケーを考えること。  そのことに最初に答えを出したといわれる哲学者がタレス(BC624頃〜BC546頃)です。

タレス(BC624頃-BC546頃)

タレスはエーゲ海の東海岸(現トルコ)、イオニア地方の都市ミレトスの出身です。そのために彼につながる初期の哲学者たちを、「イオニア派」と呼びます。

また自然を探求する自然科学の立場を取っていたので、後世になると自然哲学者たちとも呼ばれました。

タレスは、この世のアルケーは何であると考えたのでしょうか。答えは水です。    今日では人間の身体の約7割が水であることも、地球上の生命の根源が水であることも判明しています。

タレスはたいへん多才な人物でしたが、エピソードもたくさん残した魅力的な人物でもありました。

あるとき、学問をいくらやっても人生の役には立たないじゃないかと、笑われたことがありました。

すると天文学に通じていたタレスは、ある年、星座の運行がオリーブの豊作を告げていることを知ると、近在の村里からオリーブの実を搾って油を採る圧搾機を、オリーブの花が咲く前に、全部買い占めてしまったのです。

そしてオリーブの実が大豊作になったとき、みんながタレスに圧搾機を借りにきたために、彼は大儲けをしました。学問がお金儲けにも役立つことを、自ら証明したわけです。

「アルケーは水だ」というタレスの学説に刺激されて、実にさまざまなアルケー論が登場してきます。

タレスの次はヘラクレイトス(BC540頃ーBC480頃)です。彼は「万物は流転する」(パンタ・レイ)という言葉を残しています。

ヘラクレイトス

本人の言葉かどうかの確証はありませんが、プラトンがヘラクレイトスの言葉として書き残しています。

「アルケーは水だとか火だとか数字だとか言っているけれど、万物は流転するのだよ。どんどん変化していくんだよ」それがヘラクレイトスの思想でした。

もっともヘラクレイトスは、変化と闘争を万物の根源とみなし、その象徴を火としました。ここには近世になってドイツの哲学者、ヘーゲル(1770〜1831)が提唱した、正反合の弁証法の理論につながっていく発想がすでに芽生えています。

その後に、火・空気・水・土の4元素をアルケーとしたエンペドクレス(BC490頃〜BC430頃)が続きます。

彼はシチリア島のアクラガス(現在のアグリジェント)の出身です。医者であり詩人であり政治家でもありました。

エンペドクレス

彼は4元素説を唱えました。万物の根源、アルケーは火・空気・水・土の4つであるという説です。

この4つの元素を結合させるピリア(愛)があり、分離させるネイコス(憎)があって、その働きによって4元素は集合と離散を繰り返すという理論です。

エンペドクレスは、後に述べるピュタゴラス派の影響を受けています。

この4元素については、後にアリストテレスが取り上げます。ただアリストテレスは、元素として取り上げるというよりは、4つの材料として取り上げます。

万物の根源を追求した哲学者の最後にくるのは、デモクリトス(BC460頃〜BC370頃)です。

デモクリトス

年齢からいえば、デモクリトスはソクラテス(BC469頃〜BC399)よりも、10年近く後の人物です。

彼は自然科学や倫理学、さらには数学や今日でいうところの一般教養も深く学んでいました。そしてエジプト、ペルシャ、紅海地方、さらにはインドまで、学究の旅に出ました。膨大な著作があったという記録が残されています。

デモクリトスは、アルケーはアトム(原子)であると考えました。物質を細分化していくと、これ以上分割できない最小単位の粒子(アトム)となり、そのアトムが地球や惑星や太陽を構成していると考えました。

そしてアトムによって構成された物体と物体の間の空間は、空虚(ケノン)であると考えました。すなわち真空であると。

彼は天上界を地上の世界と区別せず、そこもまた通常の物質世界であると喝破したのです。

すでに現代の唯物論に近い発想が生まれていることに驚かされます。

もう2人、自然哲学者ではありませんが、後世に大きな影響を与えた偉大な哲学者を挙げておきます。

一人は、ピュタゴラス(BC582〜BC496)です。

ピュタゴラス

ピュタゴラスはタレスと同じくイオニア地方の出身ですが、青年期に学問のため、古代オリエントの地を遍歴しました。

諸国を遊学した後、故里に戻ってきますが、やがてイタリア半島の南部にあったギリシャの植民都市クロトーンに移住し、その地でピュタゴラス教団を創設します。クロトーンは現在のクロトーネです。

ピュタゴラスとその教団は、数学的な原理を基礎にして宇宙の原理を確立することを目指しました。

彼は万物の根源は数であると考えたのです。

ピュタゴラス教団の才能ある数学者たちは、数々の現代に残る数学の定理を発見しました。

またピュタゴラスは一絃琴を用いて、音程の法則を発見しています。そのことによって、音階を数字で表すことを可能にしました。

ところでピュタゴラス教団は、学問の集団であっただけではなく宗教的な集団でもあったようです。

彼自身が教祖のような地位に祭り上げられ、その神秘化な側面が強調されていました。

彼自身の著作物で現存するものはなく、弟子たちが書いたものや数学関係の書物の注釈によって、彼の学説や思索が残されています。

ピュタゴラスが宗教的に信じていたのは、インドの輪廻転生思想でした。その信仰のために彼は故郷のサモス島を離れて、イタリアに渡ったと考えられています。

哲学と宗教は、その誕生から発展の過程において、多くの類似点があるといわれているのですが、ピュタゴラス教団はその好例であるように思われます。

また、ピュタゴラスの死後、プラトンが輪廻転生の思想に興味を抱きました。

そしてわざわざイタリアを訪れ、ピュタゴラスの弟子であった哲学者フィロラオス(BC470頃〜BC385頃)の著作を買い求めたと伝えられています。

もう一人はパルメニデス(BC520頃〜BC450頃)です。

パルメニデス

南イタリア(当時はマグナ・グレキアと呼ばれたギリシャの植民地)の都市エレア出身のパルメニデスは、「あるは、ある。ないは、ない」という詩を遺しました。

これは、世界は始めも終わりもない永遠不滅の一体的な存在であるという一元的な存在論です。

したがって、世界は変化や運動を被ることなく生成消滅は否定されることになります。

パルメニデスはエレア派の祖となりました。

エレア派は、感覚よりも理性に信を置いて、理性が把握する不生不滅の「有る」べき世界と人間が感覚で把握する生生流転の現実世界という二重構造を示しました。

なぜアメリカの利上げで円安が加速したのか?

為替とは、異なる国の通貨がどれくらいの価値を持っているかを示すものです。

為替市場は金利の動向に大きく影響されます。そのため、近年アメリカの金利が上がるにつれて円安が進みました。

どのようなメカニズムによって、金利が為替に影響を与えるのでしょうか?

アメリカの金利が高くて日本の金利が低いとき、より高い利回りを稼ぐために、アメリカの債券への投資の人気が高まります。

金利の低い円を売り、金利の高いドルを買うという動きが出てくることによって、為替市場は円安ドル高の状態になるのです。

アメリカの金利が上昇

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より利回りの高いアメリカ債券が人気に

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円が売られ、ドルが買われる

このしくみは外国債券への投資をするうえで重要なポイントです。

たとえば、アメリカ国債を保有しているときにアメリカが利上げを行うと、円安ドル高となって為替では儲かります。

しかしこのとき、債券の価格はどうでしょうか?

金利が低いときに買った債券よりも、金利が高いときに買った債券のほうが利回りがよいため、低金利時の債券を売ろうとしても、買ったときと同じ値段ではなかなか売れなくなります。

そして、何とか売るために債券の値段を下げて売ることに。こうなると、債券の価格は下がってしまっています。

つまり、金利が上がると為替では儲かりますが債券の価格は下がり、真逆の状態になります。

この状態だからこそプラスとマイナスの要素が補い合い、外国債券への投資の収益が安定するのです。

世界最古の宗教ゾロアスター教がその後の宗教に残したこと

超自然的な神の存在を意識し始めた人間は、素朴な太陽神や大地母神信仰を経て、自然の万物に神の存在を意識するようになり、原始的な多神教の時代へと進みます。

その後、後世の宗教に多大な影響を与えた人類初の世界宗教が生まれました。ゾロアスター教です。

BC1000年頃、古代のペルシャ、現代のイラン高原の北東部に、ザラスシュトラという宗教家が生まれました。ザラスシュトラの英語読みがゾロアスターです。

ザラスシュトラは古代社会には珍しく具象的な思考能力を有した人物であったらしく、ゾロアスター教の教義はまことに論理的で明快でした。

その内容はペルシャの地に移住したアーリア人の民族的な信仰を基本において、ザラスシュトラが創始したと考えられています。

ペルシャの古代王朝といえば、世界帝国となったアカイメネス朝が有名ですが(BC550〜BC330)、この王朝の創始者キュロス2世(在位BC550〜BC530)の時代には、すでにゾロアスター教が広く信仰されていました。

ゾロアスター教はペルシャを中心に、中央アジアを経て唐の時代には中国にまで広まりました。中国では祆教 (けんきょう)と呼ばれました。

ペルシャの王朝はアカイメネス朝がアレクサンドロス大王に滅ぼされた後、セレウコス朝、パルティア王国と支配者が変わります。そしてパルティア王国を倒したサーサーン朝の初期には、ゾロアスター教の経典も整備されました。

“踊る宗教家”マニの登場とゾロアスター教との関係

ザラスシュトラの没後、およそ千数百年後の3世紀に入って、ゾロアスター教の経典が編纂・整備されました。

経典の名前は『アヴェスター』です。

ザラスシュトラの言葉と彼の死後につけ加えられた部分によって構成され、全部で21巻あったといわれています。

現在はその約4分の1が残存しています。

ゾロアスター教は、サーサーン朝4代バハラーム1世の時代(在位273-276)に国教に近いレベルまで引き上げられました。

時のゾロアスター教の大神官カルティール(キルデール)が、バハラーム1世を強引に説得したようです。そこには次のような事情がありました。

名君、シャープール1世(在位241-272)の時代に、バビロニア地方からマニという宗教家が登場します。

マニはゾロアスター教の善悪二元論をさらに徹底させ、壮大な二元論の教えを創造しました。

またマニはユニークな宗教家で、自分の教えを舞踏にして伝道しました。踊る宗教の元祖のような人だったのです。

寛容なシャープール1世の下でマニの教えは、またたくまにペルシャに広まります。

さらに東方では中央アジアを経て中国へ(明教)、西方は北アフリカにまで広まりました。

北アフリカが生んだ古代キリスト教の最高の神学者、アウグスティヌス(354-430)も元はマニ教の信者でした。

アウグスティヌス

けれどもマニ教は、シャープール1世の死後、カルティールの攻撃によって衰え、マニ自身も刑死させられます。

そしてゾロアスター教が引き上げられたのです。新興宗教に対する既成宗教の弾圧は、昔も今も同じように存在していたようです。

サーサーン朝は651年にイスラーム帝国によって滅ぼされ、それ以後ペルシャの地はイスラーム教が支配的となり、今日のイランに至っています。

ゾロアスター教は、今日ではインドや中東に少数の信者を抱える小さな規模の宗教になっていますが、世界の宗教に残した影響には多大なものがあります。

ゾロアスター教が考えたこと① 善悪二元論と最後の審判

ゾロアスター教の最高神はアフラ・マズダーです。

彼が世界を創造したのですが、世界には、善い神のグループと悪い神のグループが存在します。

そしていつも争っていると、ゾロアスター教は教えます。

善い神のグループは、人類の守護神であるスプンタ・マンユを筆頭にして七神

悪い神はすべての邪悪と害悪を司る大魔王アンラ・マンユ(別名アフリマン)を筆頭にして、こちらも七神。どちらのグループにも個性豊かな神々が揃っています。

ゾロアスター教では宇宙の始まりから終わりまでを1万2000年と数えます。それを3000年ずつ4期に分けました。

そしてザラスシュトラは、「今の時代は善い七神と悪い七神が激しく争っている時代なのだ」と説くのです。

苦しい日々が続くのは悪い神の親分アンラ・マンユが優勢なとき、楽しい日々が続くのは善い神の統領スプンタ・マンユが勝利を続けているときなのだと教えたのです。

アフラ・マズダー像

やがて善悪の神が戦う混乱の時代が終わる1万2000年後の未来、世界の終末にアフラ・マズダーが行う最後の審判によって、生者も死者も含めて全人類の善悪が審判・選別され、悪人は地獄に落ち、すべて滅び去ります。

そして善人は永遠の生命を授けられ、天国(楽園)に生きる日がくるのだと、ザラスシュトラは説いたのです。

だからこそ、現世では三徳(善思、善語、善行)を積む必要があるのです。

このようにザラスシュトラは時間を直線的にとらえる(天地創造から最後の審判まで)、劇的な善悪二元論を展開しました。

宗教の世界における善悪二元論は、この世を説明するときに、強い説得力を有します。

仮にこの世を、一人の正義の神がつくったとすると、正義が世界中にあふれていることになります。悪い君主も殺人鬼も存在しない理屈になります。

清く正しく生きていれば、誰もが幸福になれるはずです。それなのになぜ、人生には苦しみがあるのか。神がいるなら救ってくれてもいいじゃないか。そう考えて悩むことになります。

作家、遠藤周作の小説『沈黙』は、キリシタン禁制下の日本に潜伏したポルトガル人の司祭が、日本人信徒に加えられる拷問を見て心を痛め、ついに自分も背教の瀬戸際に追い込まれていく物語です。

なぜ神は自分を救ってくれないのか、一神教を信じる人間は、現世に生きる苦しみをどのように考えればよいのか。『沈黙』はこの問題に真正面から取り組んでいます。

逆に一神教が持つ矛盾(全能の神がなぜ現世の苦しみを解決できないのか)が、人間の思考を深くするという側面があるのかもしれません。

その証拠に、アウグスティヌスをはじめとする後世の哲学者がこの問題に真剣に取り組んでいます。

しかし宗教の教義という点から考えれば、善悪二元論は現世で生きる苦しみと来世との関係を、時間軸を挿入することでわかりやすく説明できるのです。

ゾロアスター教が考えたこと② 守護霊と洗礼

ゾロアスター教は精霊の存在を信じます。

精霊とは、この世の森羅万象に宿る霊的存在のことで、当然のこととして人間にも宿っています。

精霊をフラワシと呼びます。そして祖先のフラワシは、生きる人々の守護霊になると信じられました。祖霊信仰の始まりです。

死んだ祖先は、自分と縁がある生きている人たちに、自分の霊を守ってもらいたいと望んでいます。

守ってもらいたいので、その人たちの守護霊となるのだと、ゾロアスター教は説きました。

だからこの世に生きている人はご先祖様を、きちんと拝み、祖霊を大切にまつりなさいと。この祖先をまつる教えも広く伝わっていきました。

たとえば、日本で旧暦の7月15日前後に行われる先祖をまつる盂蘭盆(うらぼん)は、仏教の行事と思われていますが、根源をさかのぼれば、フラワシ信仰に行き着くのではないかと一部では考えられています。

また、ゾロアスター教にはナテジョテと呼ばれる儀式があります。入信の儀式です。 ただ、ゾロアスター教では、ローマ教会のような幼児洗礼はありませんでした。

7歳頃から15歳までが入信の期間で、人間らしい判断力が身につき始めた頃にナオジョテは行われました。

ナオジョテ

入信者が、純潔と新生の象徴である、クスティーと呼ばれる白い)とスドラという白い肌着(シャツ)を授けられる儀式で、バラモン教にも対応するものがあるがバラモン教の場合は男子しか受けられないのに対し、ナオジョテは女子も対象とする。

ゾロアスター教徒の子弟にこの儀式がなされるのは7歳から11歳ないし12歳ころまでであるが、儀式の意味を理解できない場合、15歳まで延期できる。ただし15歳になってもナオジョテを受けない場合、とされる。儀式では、クスティーとスドラを身につけ、教義と道徳とを守ることを誓願する。

なお、クスティーとスドラはゾロアスター教徒たる証とされ、入浴時以外は死ぬまで身に着けることが義務とされる。

ゾロアスター教が考えたこと③ 火を祀ること

ゾロアスター教には、偶像崇拝はなく、その代わりに火を信仰しました。そのために拝火教とも呼ばれます。

ザラスシュトラはアーリア人です。彼らはカスピ海の北方に住んでいましたが、BC1500年前後にインドに入り、さらにBC1200年頃にはイランにも入って行きました。

彼らは、この民族大移動の過程で、カスピ海沿岸を南下しました。その途上、彼らはアゼルバイジャンのバクー地方を通ったものと思われます。

あの地方は石油の大産地で、今でも自然発火が見られます。どんな天候でも燃え続ける火に、アーリア人たちは神に対するような敬虔な気持ちを抱いたのでしょう。

その気持ちがインドへ渡ったアーリア人たちに、バラモン教の火の神アグニを誕生させ、イランではザラスシュトラに新しい宗教を創造させる、大きな契機となったのでしょう。

イランのヤズドの地にはザラスシュトラが点火したと伝えられる「永遠の火」が、今も燃え続けています。バクーにもゾロアスター教の「永遠の火」を祀る聖地が残されています。

また、インドでは火の国アグニが仏教に大きな影響を与えました。そして「永遠の火」を信じる教えは中国にも伝わり、さらに日本にも伝わったと考えられています。

その象徴的な存在が、比叡山延暦寺で今も燃え続ける不滅の法灯です。唐から帰朝した最澄が延暦寺に灯してから、一度も消えることなく今日まで燃え続けていると伝えられています。

ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教はゾロアスター教から多くのことを学んだ

ゾロアスター教は最高神としてアフラ・マズダーが存在しますので、一神教のようにも見えますが、善神と悪神と多彩な神々が存在している点では多神教のようでもあります。

このペルシャで生まれた世界最古の宗教に、一番多くを学んだのがセム的一神教でした。ノアの3人の息子(セム、ハム、ヤペテ)の中でセムを祖先とすると伝えられる人々をセム族と呼びます。

セム族は、西南アジア(メソポタミア、パレスティナ、アラビア)の歴史に登場してきた人々ですが、彼らの中から誕生してきた一神教のことです。具体的には、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教を指します。

セム族の一部が信じる唯一神YHWH(ヤハウェ)が人類救済のための預言者として選んだ人物がアブラハムです。

彼はユダヤ人の祖と目され、ユダヤ教やキリスト教そしてイスラーム教の世界でも「信仰の父」として篤く尊敬されています。

そのために、セム的一神教は「アブラハムの宗教」とも呼ばれます。セム的一神教は、天地創造や最後の審判も天国も地獄も洗礼の儀式も、すべてゾロアスター教から学んだのです。

現代社会に影響を与えている宗教は、3つに大別できます。セム的一神教、インドの宗教そして東アジアの宗教です。

インド生まれの宗教の代表的なものはヒンドゥー教や仏教で、東アジアの宗教としては儒教や道教、そして日本の神道などがあります。中国で完成した禅や浄土宗は、必ずしもインド仏教とはいいがたい側面もあり、区別が難しい宗教です。

この3つに大別された宗教以外に、今も生き残って世界の人々に大きな影響を与えている宗教はありません。

なお、セム的一神教の3つの宗教を合わせた信者の数は、21世紀の現在、世界で50パーセントを超えています。

宗教が誕生するまで

人間は考えるために言葉を身につけた

通説によると、現世人類の祖先ホモ・サピエンス・サピエンスは、今から約20万年前に東アフリカの大地溝帯で生まれました。

そしてそれから約10万年後、我々の祖先はアフリカを出て世界に旅立って行きました。

その理由は、主たる食糧であった大型の草食哺乳類(メガファウナ)が、少なくなったからだと考えられています。

最近の研究によると、人にはFOXP2という遺伝子があって、これが言語中枢に関わっていることが、明らかになってきています。

そしてこのFOXP2が、10万年前、人類の出アフリカの前後に少し変化をして、言語をもたらしたという学説が有力になっています。

さらに、なぜ言語が必要になったのかといえば、脳が進化して思考するツールを求めたからだと考えられています。

人間の脳が発達して考えることが可能になっても、それをどのようにまとめるのか、言語がなければ思考はまとまらないではないか、という考え方が支配的になってきました。

その考え方の裏づけとなったのが、FOXP2という遺伝子の存在が明らかになったことでした。

考えるツールとしての言語を獲得したことで、人間は世界や自らの存在について、根源的な問いを持つようになったのです。

人間は時間について、どのように考えてきたのか

この空間、自分たちが生きている世界は、どうしてできたのだろうと考え始めた人間は、次に時間の存在について思索を開始しました。

太陽の動きと月の満ち欠け、そして一日の始まりと終わり。人間にとって時間との関係は、まず、時間をいかに管理するかという問題でした。

その結果として生まれてきたのが暦です。 最古の太陽暦の一つはエジプトで、ナイル川の氾濫を予知する目的でつくられました。

ナイル川は一定の時期に増水して氾濫し、そのときに上流から大量の土砂を運んできます。

そして水が引いた後に肥沃な大地を残していきます。この豊かな大地が農作物の豊穣をもたらしてくれるのです。

生きるためには農業がすべてであった時代のことです。人々は、ナイルの氾濫を待ち望みました。

そしてそのときが訪れる頃には、日の出直前の空におおいぬ座のシリウスが出現することを、長い歳月をかけて知りました。

その日がいつ訪れるか?そのことを知るためにエジプト人は、夜空を見つめ、太陽の動きを観察し続けたのでしょう。

太陽が一番長時間、空に輝く日(夏至)を頂点として、一番昼間が短い日(冬至)に向かって衰えていく。それからまた、日射しを伸ばしていく。

そういうサイクルであることを、古代のエジプト人は学んだのです。こうして彼らは、一年という周期を意識するようになった。すなわち地球が太陽を回る周期(約365.24日)を知り、その知識をもとにして太陽暦をつくったのです。

一年という概念に比べれば、一日の変化の意味はより理解しやすかったことでしょう。

朝に東から太陽が昇り、夜になると西に沈み、また朝になると太陽が昇る。この一日を小回転と考えれば、一年は大回転であるなと。

しかし、一日を何回も何回も繰り返さないと、一年という大回転にはなりません。

一日と一年の時間差が大きすぎて、時の流れを十分に把握しきれなかった。そのときに注目したのが、夜空の月です。

月は見えない夜(新月、朔)から始まって、丸くなる夜(満月)となり、また細く欠けていく。

この月が地球を一回転する周期に、およそ29回(約29.53日)の夜を重ねることを学びました。こうして人は一日と一年、一月という概念を身につけたのです。

一週間の起源については、七曜(太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星。肉眼で見える大きな星のことで、中国の五行説と結ばれました)に由来する、あるいは太陰暦の一か月を4等分したものであるなどといわれています。一週間はメソポタミアが起源です。

この月の満ち欠けは日数を知るのに便利でしたので、これを利用してつくられた暦が太陰暦です。

歴史的には太陰暦のほうが早くからメソポタミアで使われていました。太陰暦で一年を構成すると約354.36日となります。

エジプトで最初に太陽暦がつくられた理由は、太陰暦だと、太陽の大回転する日数(約365.24日)に約11日ほど足らなくなります。それでは、農作の恵みをもたらす大氾濫の訪れを、規則的に把握できないことを知り、太陽暦を考えついたのです。

なお、太陽暦の365日に合わせて、日数を調節してつくられたのが太陰太陽暦(太陰暦に閏月を入れて約11日の短さを補った暦)です。

メソポタミアではBC2000年紀には、すでに太陰太陽暦が使用されていました。現代ではイスラーム社会の太陰暦を除いて、ほとんどの国が太陽暦を使用しています。日本は1872(明治5)年に太陽暦へ切り替えるまで、太陰太陽暦を使用していました。

明けない夜はなく、春はまた巡ってくる。

暦を考え出したことで人間は円環する時間を管理するようになりました。

けれど、その円環する時間の中で生きている人間の一生は回転して再生しないことにも気づきました。誕生して歩み始め、大人になり、やがて老いて死んでいく。人間の一生は直線なのです。

自然を司る円環する時間と人生を支配する直線の時間、2つの時間があるという概念を知った人間には、次のような思いが浮かんできたのではないでしょうか。

人生の直線が終わった後はどうなるのか、どこかに行く世界はあるのだろうかと。

あるいは人生が始まる前は、一体どこにいたのだろうかと。

人間の突然の変化、ドメスティケーションと宗教の関係

ドメスティケーションdomesticationという言葉には飼育、順応、教化などの意味があります。

学術用語としては、次のように説明されています。

「 『人間が野生の動植物から、それまでには存在しなかった家畜や栽培植物を作り出す』こと。動物については家畜化、植物については栽培化。ドメスティケーションの起源の問題は、考古学、地理学、人類学、栽培植物学、遺伝学などの幅広い分野において関心を集めている」

人間が植物を栽培したり、動物を家畜化したりするために、欠かせない条件があります。それは人間が定住生活を営むことです。

東アフリカから、より多くの獲物を求めてグレートジャーニーに旅立った人類は、世界中へ移動して行きました。

人類の立場から定住生活を考えてみると、それは必ずしもいいことばかりではありません。

一ヶ所にずっとみんなで住んでいると、排泄物の処理だけでもたいへんです。病気が発生したら感染しやすいです。

なぜ、意識が変わったのか定説はありませんが、人間の意識が移住生活から定住生活に変化したといわれています(移動が自由にできなくなったので、定住せざるをえなかったという説もあります)。

人間が定住生活をし始めたドメスティケーションのときに、人間の脳は最後の進化が終わり、それから今日まで進化していないといわれています。

こうして人間は定住し、世界を支配し始めました。植物を支配する農耕に始まり、動物を支配する牧畜、さらには金属を支配する冶金と、植物、動物、金属、すべてを人間が支配するようになりました。

ドメスティケーションは、狩猟採集生活から農耕牧畜生活への転換であったのです。

ドメスティケーションは、今から約1万2000年前にメソポタミア地方で起きたと推測されています。

周囲に存在するものを順次、支配していった人間は、次にこの自然界を動かしている原理をも支配したいと考え始めたのです。

誰が太陽を昇らせるのか、誰が人の生死を定めているのか、神という言葉も概念も当初はなかったでしょうが、何者かが自然界のルールをつくっていると考え始めたようです。

この推論を有力にした理由の一つが、メソポタミアの古代遺跡から、女性をかたどったとしか思われない土偶が発掘されたことでした。

その用途に、具体的な目的は考えにくく、それに何か特別な意味を込めていたとか、拝んでいたという以外には、考えられないのです。

世界最古の神殿と目されるトルコのギョベクリ・テペ遺跡は約1万2000年前のものです。この時代に、人類は間違いなく大きな転換を迎えたのです。

ギョベクリ・テペ遺跡

以上のような検証から、ドメスティケーションを経て人間は、宗教という概念を考え出したと推論されています。

付言すれば、古代エジプト人が太陽暦を開発したプロセスも、時間を支配するという意味でドメスティケーションの一形態でした。

先進工業国は先進農業国でもある

「農林水産業」視点で経済を考える

人類が初めて農業を行ったのは、メソポタミア地方だったと考えられています。

今から約1万年前に最終氷期が終了したことで、地球が温暖化し、農業活動が可能となりました。最初に作られたのは小麦だったと考えられています。

メソポタミア文明~アッカド王国滅亡 | 世界史・現代史まとめ

農業が始まったことで、獲得経済期では不安定だった食料供給量が安定しました。

そして世界の人口は増加の一途をたどります。約1万年前、およそ500万人だった世界の人口は、西暦元年頃には2億5000万人にまで増加したと考えられています。

食料供給量の安定が、いかに人口増加に影響を与えたかがわかります。

機械がなかった頃、農業は人間の手によって行われるものでした。そのため生産量を大幅に増やすことは難しく、労働力を確保するために子供が多くもうけられました。

欧米諸国ではアジアやアフリカの植民地から、現地住民を別の植民地へ農業奴隷として連れ出しました。

その後は農業機械が登場し、また化学肥料の発明などによって生産性が向上しました。

そして、少ない労働力で農業が行えるようになると、工業化が進み、出生率は下がっていきます。

世界でいち早く工業化を達成したヨーロッパ諸国は、どこの地域よりも早く少子化が訪れました。

近年では、スマート農業と呼ばれる「ロボット技術や情報通信技術を活用した高品質農作物の生産を実現する農業」が注目を集めています。

重労働として敬遠されていた農業が見直され、新規就農者の確保、ひいては栽培技術の継承、食料自給率の向上などが期待できるようになります。

このように先進工業国は同時に先進農業国でもあります。農業は工業発展によっても成長するのです。

西アジアのイスラエルでは、国土の南半分に砂漠気候が展開しているため、農業活動が困難です。

しかし、チューブを通して効率よく農作物に水を供給するシステム、点滴灌漑を発明しました。

これによって食料供給量が安定し、イスラエルの増えゆく人口を支えることができています。

世界では日々、課題を解決するために新しい技術が生まれています。

それは農業分野においても同様であり、ビッグデータ、人工知能(AI)、IoTの活用によって今後の農業のあり方が大きく変わろうとしています。(IoT(Internet of Things)は、あらゆるものをインターネットあるいはネットワークに接続する技術)

「産業革命」から読み解くこれからの世界

「工業」視点で経済を考える

世界における工業発展は、18世紀後半にイギリスから始まった第一次産業革命を契機とします。

ジェームズ・ワット(イギリス)によって改良された蒸気機関が利用されるようになり、昼夜を問わず工業製品を生産するようになりました。

需要を超えた生産が行われると、余った工業製品を売るための市場の獲得が急務となり、世界各地で植民地争奪戦が始まりました。

また、蒸気機関を搭載した蒸気船や蒸気機関車の登場により、遠隔地への大量輸送が可能になり、本格的な貿易が始まりました。

第二次産業革命は19世紀後半から始まりました。

それまでの石炭から、石油や電気を新たなエネルギー源とする重工業中心の経済発展がみられました。

アメリカ合衆国の発明家トーマス・エジソンが電球を発明したのもこの頃(1879年)です。

大量生産、大量輸送、大量消費の時代の幕開けでした。

特にフォード・モーターが生産したフォード・モデルTは第二次産業革命を象徴する工業製品だったといえます。

第三次産業革命は20世紀後半のことでした。

電子技術やロボット技術が活用されるようになると、あらゆる産業で自動化が促進されました。

「IT革命」と呼ばれる、情報技術による社会生活の変革がみられました。

労働生産性が上がり、先進国の高い技術力と発展途上国の賃金水準の低さが組み合わさり、利益の最大化を図れる場所での製造が始まります。

中国の経済成長が本格化した時代でもあり、発展途上国の工業発展を促しました。

第四次産業革命は2010年頃より進んだ技術革新のことです。

IoT (Internet of Things)は「モノのインターネット」と呼ばれ、家電製品や自動車などの「モノ」が直接インターネットに接続されるようになりました。

ビッグデータと呼ばれる大量のデータは、人工知能(AI)によって分析され、最適化された生産やサービスが可能となりました。

先進国では第四次産業革命が起こり、次世代の技術開発が進んでいます。

一方、新興国では、豊富な人口、低賃金労働力の存在、原燃料資源などを好材料に、先進国の企業を誘致し、製造拠点や供給元になろうとする動きが活発化しています。

いまや「世界の工場」となった中国だけでなく、工業立地の最適化は日々変化しており、世界はめまぐるしく変化し続けています。

生き残るには「強み」を磨くしかない

「貿易」視点で経済を考える

国内需要に国内生産が追いつかないときは輸入し、国内生産が国内消費を上回るときは輸出することができます。

国家間の貿易をみると、その国の経済状況がみてとれます。

日本は資源小国であるため、原燃料の需要を国内産出量で満たすことができません。そのため諸外国から輸入します。

この時点でコスト高となってしまうため、技術力を高め、付加価値の高い工業製品を作る努力をしてきました。

しかし、輸出を過度に進めていくと貿易摩擦が発生します。

1980年代の日本とアメリカ合衆国との自動車貿易摩擦が好例です。そのため自動車企業は、輸出市場との貿易摩擦を回避するために、海外への工場進出を進めます。

結果、日本では製造品出荷額や就業機会が減少して、「産業の空洞化」が起こりました。

近年は、国際分業体制が進展しています。

国際分業体制とは、世界各国がそれぞれ得意とする分野の製品を生産し、それを輸出し合う体制のことです。

自国で生産するよりもコストを削減できます。その中で日本は「最終消費需要向け輸出」よりも「中間需要向け輸出」のほうが大きくなっています。

つまり、最終財(完成品)の組み立てよりも、他国での製造工程に中間財(部品や機械類)を供給する役割にシフトしているといえます。

こうして日本は「原材料を輸入して工業製品に加工して輸出する」という加工貿易の性格が弱まり、現在では中間財である部品を輸出し、他国で生産された完成品を輸入するようになっています。

しかし、日本から輸出された部品が完成品となって、それらのすべてが日本へ輸出されるわけではありません。

第三国へと輸出されるケースもあるため、日本の輸出は実質的に第三国の国内需要によって増減することとなります。

経済のグローバル化の進展によってヒト・モノ・カネ・サービスが国境を越え、また情報技術の進展によって情報伝達の時間距離はゼロになりました。

国内生産できないものは輸入してまかなうようになり、国際分業体制はより深化すると考えられます。

経済とは「土地と資源の奪い合い」

「資源」視点で経済を考える

世界に存在する土地と資源には限りがあります。

人口増加や経済発展にしたがって増えることはありません。だからこそ争奪戦が繰り広げられるのです。

日本は資源小国であり、自給できると考えられるのは硫黄と石灰くらいです。

これだけで工業製品を作るのは不可能です。そのため鉄鉱石や石炭、石油、天然ガスなどの原燃料をほぼ輸入でまかなっています。

鉄鉱石はオーストラリアやブラジル。石炭はオーストラリアやインドネシア、カナダ。石油はサウジアラビアやアラブ首長国連邦、クウェート、カタールといった中東の産油国。天然ガスはオーストラリアやマレーシアなどからそれぞれ輸入しています。

これらの国々と良好な関係を保つのは必須といえます。

加えて、中東諸国と日本を結ぶルート上には東南アジアが位置しているため、日本は東南アジア諸国とも良好な関係を築く必要があります。

もっとも、資源輸出国は輸出余力が大きいから輸出が可能なのであって、今後の経済発展によって国内需要が高まり、輸出余力が小さくなる可能性も考えられます。

また中国やインドといった人口大国の経済発展により、両国の原燃料需要が高まると、世界市場での資源争奪戦が激しくなり、原燃料の調達が容易ではなくなります。

中東情勢とは関係のないところで「オイルショック」が起きることも十分に考えられるのです。

日本は森林面積の割合が68.5%と高く、森林資源が豊富に存在しますが、日本列島のおよそ7割が山地や丘陵地であるため、森林を伐採し、それを運搬するのが物理的に困難です。

そのためカナダやアメリカ合衆国、ロシアなどから多くの森林資源を輸入しています。

また年降水量がおよそ1800mmと多く、水資源に恵まれますが、山地や丘陵地が多いため、雨水が短時間で海に流れ出てしまいます。

そのため適宜ダムを造ることで水資源を確保し、河川の流量を調節することで大雨に対応しています。

資源は、国のおかれた自然環境によっても利用可能な量が変化します。

「地の利」を活かせる国があれば、恵まれない国もあります。

限りある資源の調達には、こうした「背景」を熟知することが欠かせません。

英雄アレクサンドロスが世界を駆け抜ける

“漁夫の利”を得たマケドニア

ペロポネソス戦争(紀元前431年 – 紀元前404年)で混乱するギリシア世界の北に、マケドニアという国家がありました。

ペロポネソス戦争の混乱は、このマケドニアに「漁夫の利」をもたらします。

マケドニアはギリシア人の一派でしたが、ポリスをつくらないなどの生活スタイルの違いにより、ギリシアからは異民族とみなされ、格下扱いを受けていました。

ところが、マケドニアの王フィリッポス2世は軍事力の増強に努め、ペロポネソス戦争の混乱につけいって、カイロネイアの戦いでアテネとテーベの連合軍を破ります。

カイロネイアの戦いは、紀元前338年、ボイオティアのカイロネイアにおいて、アルゲアス朝マケドニア王国とアテナイ・テーバイ連合軍の間で戦われた会戦。この戦いは前年から始まった両軍の間の戦争における一大決戦であり、マケドニアに決定的な勝利をもたらした。

そして、フィリッポス2世はギリシアのポリスを「コリントス同盟」という形で統合し、支配下におさめることに成功したのです。

コリントス同盟の加盟国は自由な自治が認められ、相互不可侵の平和条約が締結された。しかし、現存政体の変更、負債の帳消し、土地の再配分、奴隷解放は不可とされるなど、この同盟はギリシア北方のマケドニア王国がギリシア南部を支配しやすくするための同盟でもあった。

コリントス同盟により、ペルシア戦争でギリシアに多大な損害をもたらした復讐としてペルシア討伐が決議され、各ポリスはそのために兵士をマケドニア王国に派遣した。この兵士たちは人質の役目も果たした。フィリッポス2世が暗殺された後は、その息子であるアレクサンドロス大王がコリントス同盟の盟主を引き継いだ。

「ヨーロッパからインドまで」支配した巨大帝国

フィリッポス2世の子が、ヨーロッパからインドにまたがる巨大帝国を築いた、歴史上に名をとどろかせることになるアレクサンドロスです。

哲学者アリストテレスを家庭教師として教育を受けた彼は、ギリシアの知識や哲学を学んだ教養人でもありました。

アレクサンドロスはギリシア世界にとっての脅威だった、東方のアケメネス朝ペルシア帝国を倒すため、マケドニアとギリシアの兵を率いて東方遠征に出発します。

「重装歩兵で敵の主力を足止めし、自身は騎馬隊を率いて大きく迂回し敵の心臓部をつく」という機動戦を得意にしたアレクサンドロスは、イッソスの戦いやアルベラの戦いでペルシアを破り、さらにインド北西部に侵攻して、破竹の勢いで大帝国を築きました。

ところが、ギリシアから遠くインドまで行軍してきた軍隊の疲労はピークに達し、インダス川流域まで侵攻したところで快進撃は止まってしまいます。

そして、故郷マケドニアに帰る途中、アレクサンドロスは、バビロンの地で32歳の若さで死去してしまいました。

後継者争いが起きて分裂

このアレクサンドロスの突然の死が、新たな争いの種をまいてしまうことになります。

アレクサンドロスは「最も強き者が我が後を継げ!」と、なんとも曖昧な遺言を残していたために、後継者争いが始まってしまうのです。

この後継者(ディアドコイ)争いの末、アレクサンドロスの帝国はアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトという3カ国に分裂してしまいました。

アレクサンドロス大王は前334年より、マケドニアから遠征に出発。各地で武力衝突をしながら、領地を拡大した。

イッソスの戦いをテーマにしたモザイク画に描かれたアレクサンドロス大王。愛馬に乗って戦いに臨む姿が表現されている。

仏像誕生のきっかけになった「ヘレニズム文化」

アレクサンドロスの東方遠征によって、ギリシアの文化は大きく東に伝播する。

ギリシアとオリエントの文化が融合して生まれたのが、「ミロのヴィーナス」に代表されるヘレニズム文化です。

国内ではポリスの枠にはまらない生き方を理想とする世界市民主義や、個人主義の風潮が高まり、自然科学が発達しました。

遠くパキスタンのガンダーラ様式の仏像にも、ギリシア彫刻の特徴がみられることから、ヘレニズム文化が、ガンダーラ美術を生み出すきっかけとなったことがわかります。